昨日の続き。
さて、『Remain in Light』リリース直後、音楽評論家の渋谷陽一はロッキンオン誌上でこの作品をこきおろした。どうも純粋な批評というよりは他の思惑があったのではないかと私は思うのだが、とにかくこき下ろした。そして色々と反発をくらった。私がどっかの記事で見かけたのは、大貫妙子が渋谷陽一との対談でこの作品をかばい、「作品がカッコよければいいじゃない」的な発言をし、渋谷陽一はそれに対して「おれは今野雄二が誉めているとけなしたくなるから」みたいな冗談で逃げていた記憶がある。
その後月日は流れ、本作は名作としてのステータスを確立したが、渋谷陽一は『ロック―ベスト・アルバム・セレクション』の中でこのアルバムを紹介し、文章のほとんどを自分がこのアルバムに対して行った批判についての言い訳で費やしている。無論、自分は正しかったと主張しているのだが、こんなところでそんなことを書かなくてはいけないということは、自分でも内心まずかったと思ってるように思える。私も(大部分のミュージシャンや音楽愛好家と同じく)渋谷陽一の批判はまったく的外れだったと確信しているので、ここに書いておきたい。
渋谷陽一の批判は大体こういう趣旨である。(ちなみに私は当時の記事は持っていないので、以下は『ロック―ベスト・アルバム・セレクション』のレビューを参照している)
ビートを強化するのはいいが、バンド外から黒人ミュージシャンを連れて来たのがいけない。安易過ぎる。黒人を入れればよりファンキーになるかもしれないが、ぎこちないながらも、ぎこちないなりの批評的アプローチがロックをロックたらしめている。例えばストーンズは黒っぽい音楽をやるが、だからといって黒人を入れていきなりファンキーになっても、なんか違うとみんな思うだろう。何か居心地の悪さを感じるはずだ。なのにトーキングヘッズにはそういう声が上がらない。そこに私はバンドの危うさを感じたのだ。
一見いいこと言ってるようにも聞こえるのだが、よく考えるとかなり詭弁くさい。批判目的で無理やりでっち上げた理屈のように聞こえる。
ちなみに私はこのアルバム制作にどういうゲストミュージシャンがどのようにかかわっているか知らない。だから渋谷陽一の言うことが事実かどうか知らないが、トーキングヘッズのコンサートに行った時は確かに黒人ミュージシャンが何人か参加していた。ベースもティナ・ウェイマスの他に黒人ベーシストがいた。だからそのあたりは渋谷陽一が言うことが正しい(=黒人ミュージシャンのリズム隊を入れて本作を制作した)と仮定して話を進める。
そもそも、黒人ミュージシャンを入れれば必ず音楽が良くなるなんてわけはない。仮に必ずファンキーになるとしても、必ず良くなるとは限らないのである。当たり前のことだ。もしそうなると言うならどんどん入れればいい。作品が良ければいいのだ。何がロックたらしめるかなんて知ったことではない。ストーンズに黒人リズム隊が入ってもっと良くなるんだったら、何も悪いことはない。そりゃ嫌がるファンはいるだろう。こんなのストーンズじゃない、という人はいるだろうがそれはファンの思い入れというものであって、一種のセンチメンタリズムである。バンドのメンバーチェンジやメンバーの不仲による分裂なんていくらでもある。ファンは悲しいかも知れないが、音楽の出来とは全然別の話だ。
あるいは、そのせいで音楽が変わってしまって批判されるかも知れない。よりファンキーになったがストーンズらしさが失われた、というようなことを言われるかも知れない。それは結局、音楽性が損なわれたから批判されるということでしかない。そのぎこちないなりの批評的アプローチがロック、なんて妙に文学的な、もって回った、茫洋としたことを言う必要はなく、ぎこちないリズムがむしろ音楽的に面白いということがあるのであって、必ずしもリズム感のいいテクニシャン、ファンキーなプレイヤーが加入したから音楽性が上がるとは限らない、むしろそういう考えこそが安易なのである。
大体、渋谷陽一の理屈でいくとスティーリー・ダンはどうなるのだ。黒人のリズム隊を入れたどころではない。超一流のセッション・ミュージシャンを大勢呼んできて演奏はほとんど彼らにまかせ、あれこれいいとこ取りをする。これも駄目ということになるな。まさか、黒人は駄目だが白人ならいい、なんて話じゃないだろうな。『Aja』や『Gaucho』はゴミだろうか?
そもそも、『Remain in Light』は黒人プレイヤーを入れたからファンキーになってカッコよくなりました、なんて音楽ではない。誰が聞いても分かることだ。黒人ミュージシャンを連れてくればこの音楽が出来る、だから安易だ、というなら自分でやってみればいい。デビット・バーンは黒人ミュージシャンのビートを利用し、トーキング・ヘッズの演奏と融合させることで新しい音楽を生み出したのであって、単にリズム隊をすげ替えたわけではない。個々の楽器を誰が演奏しているとしても、この音楽はトーキングヘッズそのものであり、それ以外の何物でもない。そもそもこれはいわゆる黒人音楽ではない。それなのに、渋谷陽一はこれが「リズムセクションを黒人にしたからカッコよくなった」という、まさにそれだけの音楽であるかのように批判を展開する。
信じられないかも知れないが、そうなのだ。以下は引用。
「…そのことにより、いきなりバンドはファンキーに改造され、大幅なイメージチェンジを果たしたのである。」
渋谷陽一は本当にこのアルバムを聴いたのか疑問に思えてくる。
しかしこれは、どうも意図的ではないかと私は思う。あまりに詭弁的であって、このアルバムを聴いて本当にこんなこと(「リズムセクションを黒人にしたからカッコよくなった」)を思ったとしたらアホである。この人の書いたを文章を読むと、どうもまず結論ありきで、理屈はあとづけのように思えるものが多々ある。その結論というはしばしば図式的で、妙に文学的というか芝居がかっている。
だから今回も、みんなが絶賛している中で「自分だけにはこのアルバムの危うさが見えた」というストーリーを欲し、それにそって後付けの批判をでっち上げたという可能性があるんじゃないか。でなければこんなトンチンカンな批判は出てこないだろう。
言い訳の中で、渋谷陽一はこうも書いている、「…今になってみてバンド内からもこの当時の方法論に対する反省が生まれているようだが…」「…その後バンドはいくつかの試行錯誤を経ながら、もう一度自分達なりのぎこちなさを確認する方向へ進んでいったわけで…」。しっかし、ここまで苦しい自己弁護をしなくても、と思ってしまう。間違いでしたと認めてしまえばいいじゃないか。
バンドの音楽性は変遷するものであって、変化したからそれが「過去の反省」、ひいては「過去の否定」とは限らない。当たり前のことだ。模擬試験の解答じゃあるまいし、音楽性に正解は一個だけじゃないのである。
さらにいえば、もし仮にデビット・バーンが「Remain in Lightは失敗だった」と言ったとしても、だからこれが駄作ということにはならないのである。作品は自立した存在であって、作者自身の批判が正しいとは限らない。作者が嫌いな作品で傑作と呼ばれるものはいくらでもある。良い芸術作品とは作者を越えるものなのである。
「…そうした点でこのアルバムにおけるトーキング・ヘッズの黒人音楽へのアプローチは批評性に欠けると感じたのである。」
黒人プレイヤーを入れたから批評性に欠け、白人だけでがんばったから批評性がある、などという短絡的な批評は全然いただけない。黒人ミュージシャンのビートをどう料理して、どういう音楽を作り出したかを見るべきだ。いや、それを見て黒人音楽のパクリだと批評しているのだ、というのならもう何も言うことはない。節穴、という言葉は彼の耳のためにあると思う。
さて、『Remain in Light』リリース直後、音楽評論家の渋谷陽一はロッキンオン誌上でこの作品をこきおろした。どうも純粋な批評というよりは他の思惑があったのではないかと私は思うのだが、とにかくこき下ろした。そして色々と反発をくらった。私がどっかの記事で見かけたのは、大貫妙子が渋谷陽一との対談でこの作品をかばい、「作品がカッコよければいいじゃない」的な発言をし、渋谷陽一はそれに対して「おれは今野雄二が誉めているとけなしたくなるから」みたいな冗談で逃げていた記憶がある。
その後月日は流れ、本作は名作としてのステータスを確立したが、渋谷陽一は『ロック―ベスト・アルバム・セレクション』の中でこのアルバムを紹介し、文章のほとんどを自分がこのアルバムに対して行った批判についての言い訳で費やしている。無論、自分は正しかったと主張しているのだが、こんなところでそんなことを書かなくてはいけないということは、自分でも内心まずかったと思ってるように思える。私も(大部分のミュージシャンや音楽愛好家と同じく)渋谷陽一の批判はまったく的外れだったと確信しているので、ここに書いておきたい。
渋谷陽一の批判は大体こういう趣旨である。(ちなみに私は当時の記事は持っていないので、以下は『ロック―ベスト・アルバム・セレクション』のレビューを参照している)
ビートを強化するのはいいが、バンド外から黒人ミュージシャンを連れて来たのがいけない。安易過ぎる。黒人を入れればよりファンキーになるかもしれないが、ぎこちないながらも、ぎこちないなりの批評的アプローチがロックをロックたらしめている。例えばストーンズは黒っぽい音楽をやるが、だからといって黒人を入れていきなりファンキーになっても、なんか違うとみんな思うだろう。何か居心地の悪さを感じるはずだ。なのにトーキングヘッズにはそういう声が上がらない。そこに私はバンドの危うさを感じたのだ。
一見いいこと言ってるようにも聞こえるのだが、よく考えるとかなり詭弁くさい。批判目的で無理やりでっち上げた理屈のように聞こえる。
ちなみに私はこのアルバム制作にどういうゲストミュージシャンがどのようにかかわっているか知らない。だから渋谷陽一の言うことが事実かどうか知らないが、トーキングヘッズのコンサートに行った時は確かに黒人ミュージシャンが何人か参加していた。ベースもティナ・ウェイマスの他に黒人ベーシストがいた。だからそのあたりは渋谷陽一が言うことが正しい(=黒人ミュージシャンのリズム隊を入れて本作を制作した)と仮定して話を進める。
そもそも、黒人ミュージシャンを入れれば必ず音楽が良くなるなんてわけはない。仮に必ずファンキーになるとしても、必ず良くなるとは限らないのである。当たり前のことだ。もしそうなると言うならどんどん入れればいい。作品が良ければいいのだ。何がロックたらしめるかなんて知ったことではない。ストーンズに黒人リズム隊が入ってもっと良くなるんだったら、何も悪いことはない。そりゃ嫌がるファンはいるだろう。こんなのストーンズじゃない、という人はいるだろうがそれはファンの思い入れというものであって、一種のセンチメンタリズムである。バンドのメンバーチェンジやメンバーの不仲による分裂なんていくらでもある。ファンは悲しいかも知れないが、音楽の出来とは全然別の話だ。
あるいは、そのせいで音楽が変わってしまって批判されるかも知れない。よりファンキーになったがストーンズらしさが失われた、というようなことを言われるかも知れない。それは結局、音楽性が損なわれたから批判されるということでしかない。そのぎこちないなりの批評的アプローチがロック、なんて妙に文学的な、もって回った、茫洋としたことを言う必要はなく、ぎこちないリズムがむしろ音楽的に面白いということがあるのであって、必ずしもリズム感のいいテクニシャン、ファンキーなプレイヤーが加入したから音楽性が上がるとは限らない、むしろそういう考えこそが安易なのである。
大体、渋谷陽一の理屈でいくとスティーリー・ダンはどうなるのだ。黒人のリズム隊を入れたどころではない。超一流のセッション・ミュージシャンを大勢呼んできて演奏はほとんど彼らにまかせ、あれこれいいとこ取りをする。これも駄目ということになるな。まさか、黒人は駄目だが白人ならいい、なんて話じゃないだろうな。『Aja』や『Gaucho』はゴミだろうか?
そもそも、『Remain in Light』は黒人プレイヤーを入れたからファンキーになってカッコよくなりました、なんて音楽ではない。誰が聞いても分かることだ。黒人ミュージシャンを連れてくればこの音楽が出来る、だから安易だ、というなら自分でやってみればいい。デビット・バーンは黒人ミュージシャンのビートを利用し、トーキング・ヘッズの演奏と融合させることで新しい音楽を生み出したのであって、単にリズム隊をすげ替えたわけではない。個々の楽器を誰が演奏しているとしても、この音楽はトーキングヘッズそのものであり、それ以外の何物でもない。そもそもこれはいわゆる黒人音楽ではない。それなのに、渋谷陽一はこれが「リズムセクションを黒人にしたからカッコよくなった」という、まさにそれだけの音楽であるかのように批判を展開する。
信じられないかも知れないが、そうなのだ。以下は引用。
「…そのことにより、いきなりバンドはファンキーに改造され、大幅なイメージチェンジを果たしたのである。」
渋谷陽一は本当にこのアルバムを聴いたのか疑問に思えてくる。
しかしこれは、どうも意図的ではないかと私は思う。あまりに詭弁的であって、このアルバムを聴いて本当にこんなこと(「リズムセクションを黒人にしたからカッコよくなった」)を思ったとしたらアホである。この人の書いたを文章を読むと、どうもまず結論ありきで、理屈はあとづけのように思えるものが多々ある。その結論というはしばしば図式的で、妙に文学的というか芝居がかっている。
だから今回も、みんなが絶賛している中で「自分だけにはこのアルバムの危うさが見えた」というストーリーを欲し、それにそって後付けの批判をでっち上げたという可能性があるんじゃないか。でなければこんなトンチンカンな批判は出てこないだろう。
言い訳の中で、渋谷陽一はこうも書いている、「…今になってみてバンド内からもこの当時の方法論に対する反省が生まれているようだが…」「…その後バンドはいくつかの試行錯誤を経ながら、もう一度自分達なりのぎこちなさを確認する方向へ進んでいったわけで…」。しっかし、ここまで苦しい自己弁護をしなくても、と思ってしまう。間違いでしたと認めてしまえばいいじゃないか。
バンドの音楽性は変遷するものであって、変化したからそれが「過去の反省」、ひいては「過去の否定」とは限らない。当たり前のことだ。模擬試験の解答じゃあるまいし、音楽性に正解は一個だけじゃないのである。
さらにいえば、もし仮にデビット・バーンが「Remain in Lightは失敗だった」と言ったとしても、だからこれが駄作ということにはならないのである。作品は自立した存在であって、作者自身の批判が正しいとは限らない。作者が嫌いな作品で傑作と呼ばれるものはいくらでもある。良い芸術作品とは作者を越えるものなのである。
「…そうした点でこのアルバムにおけるトーキング・ヘッズの黒人音楽へのアプローチは批評性に欠けると感じたのである。」
黒人プレイヤーを入れたから批評性に欠け、白人だけでがんばったから批評性がある、などという短絡的な批評は全然いただけない。黒人ミュージシャンのビートをどう料理して、どういう音楽を作り出したかを見るべきだ。いや、それを見て黒人音楽のパクリだと批評しているのだ、というのならもう何も言うことはない。節穴、という言葉は彼の耳のためにあると思う。
私もこのアルバム、最初聞いたときはどうしようかと思いました。
こんなに変わってしまったのね、って感じでしょうか。
今でもこのアルバムは他から隔絶されてる気がしますね。
私はそれまでトーキングヘッズをろくに聴いていなかったので、Remain in Lightを聴いて「おおっ」と思ったクチです。
このアルバムだけは、(ブッシュ・オブ・ゴースツと並んで)いまだにいくら聴いても聞き飽きないですね。
個人的には、斬新な音楽性もそうですが、新しい音楽を発見したぞという興奮がもう全体にみなぎってるような感じがして、そこが大好きなんです。
これ以降のアルバムで同種のアプローチが(ここまで徹底して)とられなかった点については、メンバーが作業のしんどさに耐えられなくなったんじゃないでしょうか。何かの記事で、延々とジャムセッションを繰り返しつつ、音の断片で曲を構成していくやり方はとても大変だったと、メンバーの誰かが言っていたような気がするのですが……記憶違いかも知れません。
でも、このやり方は実際大変だと思うのです。アルバム全曲がこの方法で作られているなんて驚異的だと思います。トーキングヘッズをもってしてもこのようなアルバムは連発できなかった、バンドの瞬間風速が最大になった瞬間に一個だけ産み落とされたアルバムなんじゃないか、というのが私の印象です。