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『歩いても歩いても』 是枝裕和監督 ☆☆☆☆☆
日本に帰った時にDVDを買ってきた。傑作に違いないという予感通りの、素晴らしい映画でありました。
小津映画を意識しているに違いないと思える淡々としたホームドラマである。ある夏の一日、横山良多・ゆかり(阿部寛と夏川結衣)の夫婦が子供を連れて実家に帰省する。良多は気が重いらしく、やっぱり泊まらないで今日帰ろうか、なんて言っている。実家には年老いた元開業医の父(原田芳雄)と母(樹木希林)がいる。姉(YOU)は一足先に来ていて、母と一緒に枝豆をゆでたりしている。夫と子供は遅れて来るらしい。やがてみんな集まり、ごく当たり前の家族の一日が始まる。
この映画についてはよく「何も起きない映画」と言われ、確かに是枝監督は『幻の光』などでも「何も起きない」シークエンスが特徴的な映画作家なのでよっぽど何も起きない映画かと思っていたら、色んなことがたくさん起きる映画なのでびっくりした。これのどこが「何も起きない映画」なのか。父と息子の確執がある。母と娘の同居をめぐる葛藤がある。連れ子のあるやもめとの再婚がある。嫁姑の葛藤がある。そして、死んだ長男への思いがある。
この物語を支える基本設定である「死んだ長男」は、最初は仄めかされるだけではっきり説明されない。ゆかりが良多に「長男なんだから」と言うと「次男だよ」と返す。みんなの思い出話の中にそこにいない人間の名前が出てくる。そこにいない理由は説明されない。やがて長男が15年前に死んでいること、彼が医者を継ぐはずだったこと、海で子供を助けて溺死したこと、などがだんだんと分かってくる。この日は長男の命日で、それがみんなの帰省の理由なのだった。
これがうまい。ただの帰省ではなく、長男の命日。しかも15年目。最近の悲劇ではなく、すでに家族の歴史の中に消化され、取り込まれている悲劇。しかし消化されてはいても、忘却されたわけではない。父、母、次男、それぞれの立場でさまざまな思いがある。いまだに「無理して助けなくても良かったんだ」という父。「子供の墓参りをするほど悲しいことはない」という母。死んだ長男をめぐる思いが映画全体に緊張感を与え、なんでもない場面にも陰影をもたらしている。こういう、何らかのアニバーサリーに普段離れて暮らしている人々が集まってきて葛藤が生まれるという構図は、『ディスタンス』でも使われていた。
それからまた、横山良多・ゆかりの夫婦は再婚で、しかも息子のあつしはゆかりの連れ子である。良多の母はこのことを苦々しく思っている。父は他の話題の時に「連れ子持ちのやもめじゃ、結婚相手なんか見つからない」と発言して場を凍りつかせる。ゆかりの立場は苦しいものだが、ゆかりとあつしの母子はこの家族内にあってまた別の、独立した小家族を形成している。長男の墓参りの帰り道、ゆかりはあつしに「今度お父さんの墓参りに行こうね」と話しかける。この「お父さん」はもちろん良多のことではない、死んだ前夫のことである。この時観客は、ここに良多が入ることを許されないもう一つの家族の領域があると感じる。家族の中にまた家族がある。そしてその二つの家族は、お互いに独立した存在である場合もあるのだ。
この映画は、家族というものの不思議さを絶えず観客に問いかけ続ける。
連れ子再婚の設定から、良多の母(樹木希林)とゆかり(夏川結衣)の葛藤を示すいくつかのエピソードが生まれる。「あんたたち子供はどうするの?」に始まる残酷な会話、あるいは寝室で良多にゆかりがぽろりとこぼす「私のパジャマだけ、ない」。長男の命日の設定からは、助けられた子供(今はおとな)の訪問、「彼はもういいんじゃない? 来年から呼ばなくても。本人も辛いだろうし」の良多のセリフ、そしてそれに答える母の「だから呼ぶんじゃない」に始まる凍りつくような真情吐露場面。そして家に迷いこんだ黄色い蝶を、あの子が帰ってきた、といいながら追う母。何がいいたいかと言うと、最初に戻ってしまうけれども、これは何も起きないどころか有り余るほどにたくさんのことが起きる映画だということだ。息つく暇がないほどスリリングで、かつ面白い映画なのである。
些細なエピソードばかりじゃないかと言われればその通りだ。が、それらの些細なエピソード群によってこの映画は家族というものの独特の緊張感、しこり、濃密さを描き出す。家族の構成員がお互いに抱く愛着とうとましさ、その中にある怖さ、おかしさ、癒し、不穏。独特の距離感。それらをアイロニーとともに呈示する是枝監督の人間観察力は並大抵のものではない。たいしたことは起きないにしても、驚くほど多彩なニュアンスに溢れている。これほどひっきりなしに観客の気持ちを揺さぶってくる映画は珍しいと思えるほどだ。
前述したゆかり-あつしのような、血のつながりのない、もともとは他人である「家族の一員」とそれ以外との距離感の違いは、YOUの夫に対する樹木希林の態度にも見え隠れする一方で、同居をめぐるYOUと樹木希林の気持ちのすれ違いっぷりに、肉親っていってもこんなものかというアイロニーも感じさせる。是枝監督の作劇は実に細かい。細かい伏線の回収の仕方もうまい。それも、良多が「なぜ子供の頃医者になりたかったのか」と聞かれて答えないその理由を、あとであつしがピアノ調律師になりたい理由を口にすることで暗示するなど、芸が細かい。
あつしは言う。「パパと同じピアノの調律師になりたい」
このアイロニーに満ちた映画では家族の癒しや安らぎよりも、残酷さの方がが印象に残る。しかしそれを救っているのは、帰りの電車の中で良多が口にする、いつもちょっとだけ遅い、というセリフである。これは母が思い出せなかった相撲取りの名前を思い出した時のセリフだが、この時「いつも」で良多は何を思い出していたのだろうか。
脚本も素晴らしいが、雲や樹木、海という夏の風物も美しい。舞台となる実家も見事に作りこまれていて、美術さんの苦労がしのばれる。長い年月をへた家の年輪、歴史というものが、台所や風呂など家のあちこちにしっかり感じられるのである。それからもうひとつ、感心したのがタイトル。「歩いても歩いても」というタイトルの出所があんなところだとは思わなかった。ある歌謡曲の歌詞なのだが、特にキーフレーズというわけでもなく、その曲のタイトルを聞いてもピンとこない人が多いのではないだろうか。しかしこの映画にはピタリとはまっている。見事としかいいようがない。
ラストは賛否両論あるようで、一日の出来事だけで淡々と終わった方が良かったという意見もあるが、私はこれで良かったと思う。子供が一人増えているのがいい。家族というものは、こうして絶え間なく変化しながら、歳月を超えてつながってゆくのだなと感じさせられる。
品格と凄みの両方を感じさせる、とてもいい映画です。
日本に帰った時にDVDを買ってきた。傑作に違いないという予感通りの、素晴らしい映画でありました。
小津映画を意識しているに違いないと思える淡々としたホームドラマである。ある夏の一日、横山良多・ゆかり(阿部寛と夏川結衣)の夫婦が子供を連れて実家に帰省する。良多は気が重いらしく、やっぱり泊まらないで今日帰ろうか、なんて言っている。実家には年老いた元開業医の父(原田芳雄)と母(樹木希林)がいる。姉(YOU)は一足先に来ていて、母と一緒に枝豆をゆでたりしている。夫と子供は遅れて来るらしい。やがてみんな集まり、ごく当たり前の家族の一日が始まる。
この映画についてはよく「何も起きない映画」と言われ、確かに是枝監督は『幻の光』などでも「何も起きない」シークエンスが特徴的な映画作家なのでよっぽど何も起きない映画かと思っていたら、色んなことがたくさん起きる映画なのでびっくりした。これのどこが「何も起きない映画」なのか。父と息子の確執がある。母と娘の同居をめぐる葛藤がある。連れ子のあるやもめとの再婚がある。嫁姑の葛藤がある。そして、死んだ長男への思いがある。
この物語を支える基本設定である「死んだ長男」は、最初は仄めかされるだけではっきり説明されない。ゆかりが良多に「長男なんだから」と言うと「次男だよ」と返す。みんなの思い出話の中にそこにいない人間の名前が出てくる。そこにいない理由は説明されない。やがて長男が15年前に死んでいること、彼が医者を継ぐはずだったこと、海で子供を助けて溺死したこと、などがだんだんと分かってくる。この日は長男の命日で、それがみんなの帰省の理由なのだった。
これがうまい。ただの帰省ではなく、長男の命日。しかも15年目。最近の悲劇ではなく、すでに家族の歴史の中に消化され、取り込まれている悲劇。しかし消化されてはいても、忘却されたわけではない。父、母、次男、それぞれの立場でさまざまな思いがある。いまだに「無理して助けなくても良かったんだ」という父。「子供の墓参りをするほど悲しいことはない」という母。死んだ長男をめぐる思いが映画全体に緊張感を与え、なんでもない場面にも陰影をもたらしている。こういう、何らかのアニバーサリーに普段離れて暮らしている人々が集まってきて葛藤が生まれるという構図は、『ディスタンス』でも使われていた。
それからまた、横山良多・ゆかりの夫婦は再婚で、しかも息子のあつしはゆかりの連れ子である。良多の母はこのことを苦々しく思っている。父は他の話題の時に「連れ子持ちのやもめじゃ、結婚相手なんか見つからない」と発言して場を凍りつかせる。ゆかりの立場は苦しいものだが、ゆかりとあつしの母子はこの家族内にあってまた別の、独立した小家族を形成している。長男の墓参りの帰り道、ゆかりはあつしに「今度お父さんの墓参りに行こうね」と話しかける。この「お父さん」はもちろん良多のことではない、死んだ前夫のことである。この時観客は、ここに良多が入ることを許されないもう一つの家族の領域があると感じる。家族の中にまた家族がある。そしてその二つの家族は、お互いに独立した存在である場合もあるのだ。
この映画は、家族というものの不思議さを絶えず観客に問いかけ続ける。
連れ子再婚の設定から、良多の母(樹木希林)とゆかり(夏川結衣)の葛藤を示すいくつかのエピソードが生まれる。「あんたたち子供はどうするの?」に始まる残酷な会話、あるいは寝室で良多にゆかりがぽろりとこぼす「私のパジャマだけ、ない」。長男の命日の設定からは、助けられた子供(今はおとな)の訪問、「彼はもういいんじゃない? 来年から呼ばなくても。本人も辛いだろうし」の良多のセリフ、そしてそれに答える母の「だから呼ぶんじゃない」に始まる凍りつくような真情吐露場面。そして家に迷いこんだ黄色い蝶を、あの子が帰ってきた、といいながら追う母。何がいいたいかと言うと、最初に戻ってしまうけれども、これは何も起きないどころか有り余るほどにたくさんのことが起きる映画だということだ。息つく暇がないほどスリリングで、かつ面白い映画なのである。
些細なエピソードばかりじゃないかと言われればその通りだ。が、それらの些細なエピソード群によってこの映画は家族というものの独特の緊張感、しこり、濃密さを描き出す。家族の構成員がお互いに抱く愛着とうとましさ、その中にある怖さ、おかしさ、癒し、不穏。独特の距離感。それらをアイロニーとともに呈示する是枝監督の人間観察力は並大抵のものではない。たいしたことは起きないにしても、驚くほど多彩なニュアンスに溢れている。これほどひっきりなしに観客の気持ちを揺さぶってくる映画は珍しいと思えるほどだ。
前述したゆかり-あつしのような、血のつながりのない、もともとは他人である「家族の一員」とそれ以外との距離感の違いは、YOUの夫に対する樹木希林の態度にも見え隠れする一方で、同居をめぐるYOUと樹木希林の気持ちのすれ違いっぷりに、肉親っていってもこんなものかというアイロニーも感じさせる。是枝監督の作劇は実に細かい。細かい伏線の回収の仕方もうまい。それも、良多が「なぜ子供の頃医者になりたかったのか」と聞かれて答えないその理由を、あとであつしがピアノ調律師になりたい理由を口にすることで暗示するなど、芸が細かい。
あつしは言う。「パパと同じピアノの調律師になりたい」
このアイロニーに満ちた映画では家族の癒しや安らぎよりも、残酷さの方がが印象に残る。しかしそれを救っているのは、帰りの電車の中で良多が口にする、いつもちょっとだけ遅い、というセリフである。これは母が思い出せなかった相撲取りの名前を思い出した時のセリフだが、この時「いつも」で良多は何を思い出していたのだろうか。
脚本も素晴らしいが、雲や樹木、海という夏の風物も美しい。舞台となる実家も見事に作りこまれていて、美術さんの苦労がしのばれる。長い年月をへた家の年輪、歴史というものが、台所や風呂など家のあちこちにしっかり感じられるのである。それからもうひとつ、感心したのがタイトル。「歩いても歩いても」というタイトルの出所があんなところだとは思わなかった。ある歌謡曲の歌詞なのだが、特にキーフレーズというわけでもなく、その曲のタイトルを聞いてもピンとこない人が多いのではないだろうか。しかしこの映画にはピタリとはまっている。見事としかいいようがない。
ラストは賛否両論あるようで、一日の出来事だけで淡々と終わった方が良かったという意見もあるが、私はこれで良かったと思う。子供が一人増えているのがいい。家族というものは、こうして絶え間なく変化しながら、歳月を超えてつながってゆくのだなと感じさせられる。
品格と凄みの両方を感じさせる、とてもいい映画です。
家族に対してだから言える本音の残酷さ。
それがこの映画の隅々に盛られる毒です。
でもそれは、実は普遍的にどの家庭にもありうる。
「この家は、俺が働いて建てた家だ。それをなんだ、おばあちゃんち、だなんて」という原田芳男。
そのあとに、「はあー、人間がちいさい」とごちるyou。
この卑小さは、なんだか愛おしい。
おばあちゃんが無意識に盛っている毒の根源が、何十年も前のひとつの事件に端を発している事を、あからさまな台詞なしに観客に伝える手法がお見事です。
是枝監督の作品はすべて非常にクオリティが高く、現代の日本映画界にあって、河瀬直美にならんで作家性をもった優れた若手の映像作家だと思います。
「ワンダフルライフ」もすばらしかった。
「cocco 大丈夫であるように」というドキュメンタリーもすばらしかった。
「ARATA」改め井浦新(「ワンダフルライフ」で印象的なデビューを果たした)の役者の才能を見出したのも、是枝監督ですね。
最近は若松孝司組で、意欲的に演技者としての地歩を固めていっているようです。
5本ぐらい、この映画の評価を読みましたが、
一番素晴らしかったと思いました。
ありがとうございます。