アブソリュート・エゴ・レビュー

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死との約束

2016-10-04 23:12:54 | 
『死との約束』 アガサ・クリスティー   ☆☆★

 クリスティーのポアロものを再読。いわゆる中近東ものの一つで、エルサレムが舞台となっている。設定は『ナイルに死す』と似たパターンで、エルサレムの観光客たちのさまざまな人間模様が描写された後、殺人が起きる。そこに居合わせたポアロが責任者から依頼され、捜査を引き受ける。

 設定は似ているが、事件は『ナイルに死す』とは逆にかなり地味である。派手なトリックはなし、派手な謎もなし。殺されるのはある一家を暴君のように支配する母親で、健康がすぐれない彼女はずっと同じ場所に衆人環視の中座っているが、気がつくと死んでいる。手首には注射の痕がある。彼女に近づいた人間は何人かいるが、果たして、その中の誰が犯人か。謎はほぼそれだけである。この作品は風光明媚な観光地を舞台にしているということで『ナイルに死す』と同じく映画化されたらしいが、訳者のあとがきにもあるように、地味な心理分析がメインのこの事件はまったく映画向きではなかったようだ。

 小説のよみどころはまず母親に抑圧された子供たちそしてその配偶者たちや恋人たちの鬱屈、危険水域にまで高まっていく危機感、といった人間ドラマで、例によってロマンスがからめてあるのは言うまでもない。事件発生までの人間模様がかなり丁寧に描かれていて、なかなか殺人が起きないのでじりじりするファンもいるだろう。

 それから、地味でシンプルな事件だからこそ犯人を特定するのも読者にうっちゃりを食わせるのも難しいと思われるが、クリスティー得意の微妙な伏線とミスディレクションの妙技はここでも発揮され、小粒ではあるもののさすがの手堅さで意表をついてくる。ポアロは事件の経緯の中にひそむいくつかの些細な違和感をもとに、事件の様相をひっくり返してしまう。ただし、その違和感というのは例によって登場人物たちの会話やちょっとした行動に関わるものだけれども、微妙過ぎて推理の根拠としては弱いのが難点だ。思いつきの域を出ない、と言われればそれまでだ。

 本書は『メソポタミヤの殺人』『ナイルに死す』という二つの傑作に続く中近東ものとしては小粒だし、地味だし、あまり存在感のある作品とはいえない。しかし地味ながら手堅くまとまっていて、もちろん破綻もない。この地味さ、渋さがむしろクリスティーの狙いだろう。そして次作の『ポアロのクリスマス』では、作者は再び大技トリックを見事に決めてくるのである。クリスティーの才能はやはりすごい。



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