
『裸のランチ』 ウィリアム・バロウズ ☆☆☆☆☆
再読。ご存知の通り、バロウズの名を一躍有名にした出世作である。が、と同時に「わけが分からない」「意味不明」「気持ち悪い」「最後まで読み通せない」「これを面白いという奴はカッコつけてるだけ」などと散々な言われ方をしてきた小説でもある。この本によってバロウズは難解、という抜きがたいイメージが作り上げられてしまった。
まあ気持ちは分かる。私も最初は読み通せなかった。これはなぜかというと、やはり一貫したプロットがないからだ。一応最初ビル・リーが登場して(『ジャンキー』『おかま』と同じ主人公)地下鉄に乗ったりするものだから、その続きを読者は期待してしまう。だから円盤のウィリーやら何やらのシュールレアリスティックなエピソードが挿入されても、これはわき道であって、やがて本筋に戻るだろうと思いながら読み続ける。これがいけない。なぜならこの小説に本筋なんてものはなく、話はどこにも戻っていかないからだ。小説は延々とわき道にそれ続ける。読者は地図も持たずに密林に放り込まれたような気分になり、途方に暮れる。わけが分からなくなり、ギブアップする。
本書を読むには簡単なコツがあって、それは話の展開とか因果関係をまったく期待しないということだ。だってそんなものないんだから。部分部分がすべてなのだ。ショート・ショートの連鎖だと思えばいい。本書の罪なところは小説全体の主要なプレイヤー、そして主要な舞台みたいなものが思わせぶりに出てきて「おっ、ついにストーリー来たか」と期待させることなのだけれども、たとえビル・リーやベンウェイ医師が再登場しても、あるいはインターゾーンが繰り返し出てきても、そこに何か前後関係が発生すると思ってはいけない。バロウズはどうせ思いついたことを適当に、いい加減に羅列しているだけなのだ。そう思っているくらいでちょうどいい。
そして一旦そう思ってしまえば、この小説は別に難解でも読みにくくもない。カットアップ三部作みたいに意味の通じない文章が延々続くということは(基本的に)ない。場面場面がバラバラでシュールレアリスティックだというだけで、一つ一つのシークエンスは人物とセリフとアクションでちゃんと構成されている。ところどころカットアップ的な、イメージを高速に羅列したような散文詩的な文章が出てくるが、それは一部だし、個々のセンテンスは意味が通じている。本書では純然たるカットアップ技法は使われていなんじゃないだろうか。(え? 使われてる? いい加減なこと言ってすいません)
ではそういうプロット不在の小説である『裸のランチ』の読みどころはというと、やはり数々の超現実的イメージの悪夢的な凄まじさ、白熱した想像力のテンションの高さ、全体を包む異様な熱気、フラッシュバックを見ているようなめくるめくイメージ連鎖のスピード感、などということになるだろう。本書で展開される幻覚的ヴィジョンはおおむね麻薬、ジャンキー、そして同性愛という、『ジャンキー』『おかま』でおなじみのバロウズ印のモチーフからなっているが、時折不思議な浮遊感を見せながらもリアリズムの範疇に留まっていたこの二作と異なり、『裸のランチ』では自由奔放な想像力によってすべてにものすごい変形が施されている。稀代の幻視者たるバロウズの想像力がいよいよ解き放たれたのである。
基本的にその変形はグロテスクで悪夢的なものだが、いやもうその凄まじさは唖然とするほどで、たとえばここではジャンキー達は人間外の生物と化す。ぎざぎざの歯がついた円盤状の口を持ち、ジャンキーを密告してその血を吸う「円盤のウィリー」、あるいは監督官をアメーバのように同化してしまう「仕込係」。原形質を取り込むことですべての人類を一人の人間にしてしまおうという驚愕の「液化主義者」がいるかと思えば、少年との性行為の途中でカニのようなごわごわした物体に変化してしまう男もいる。別人格を持った肛門が喋ったり食べたりし始めて、しまいには宿主の体を乗っ取ってしまうなんていう話もある。インターゾーンで売られているブラック・ミートは大ムカデの肉で、美味だけれども吐き気を催すので、ブラック・ミートの中毒者は食べては嘔吐するを繰り返し、しまいには疲労の極に達して倒れてしまう。まあこんな具合に、目を疑うような光景が次から次へと展開される。
そんなグロテスクなものは嫌だという人もいるだろうし、そういう人は避けた方がいいかも知れないが、しかしバロウズには独特のスラップスティックな乾いた感覚があって、それがもう一つの大きな魅力になっている。基本的にグロは苦手な私が(私はグロいホラー映画なんかは駄目である)バロウズを読めるのはそのせいだ。湿っておらず、カラッと乾いている。登場人物たちのやりとりは常にどことなくコミカルだ。本書は悪夢的なスラップスティック・コメディとしても読めるが、そういうところはフィリップ・K・ディックに通じるところがあるように思う。
ちなみに私はバロウズのスラップスティック・コメディ的なセンスを感じ取れるかどうかが、バロウズを面白がれるか嫌いになるかの重要なポイントだと思っている。本書にも結構笑いどころは多い。あまりこの人の書くものを深刻に受け止めない方がいい。「機械文明の悪夢」だの「地獄の底からのメッセージ」だの、そんなうっとおしいことを言われて本を読む気にはなかなかなれないだろう。そういうことはとりあえず面白がった後に、暇な時に考えればいいのである。
それから感心するのは、本書には異様なエピソードやイメージが渾沌としたまま詰め込まれているけれども、その世界観は驚くほど一貫しているということだ。決してメチャクチャではない。二流の作家がただ奇をてらおうとして無理矢理荒唐無稽なものをひねり出したら、絶対にこうはならない。バロウズは本物である。どんなに本書を嫌悪する人でも、ちゃんと読みさえすればそれを否定することはできないはずだ。
話を戻すと、私も最初は本書を読み通せなかったが、他の作品を読んで「バロウズってこういうのなんだ」と面白さが分かってから再読したら、問題なく読めた。私がバロウズ初心者にお薦めするのは『ジャンキー』(リアリスティックな普通の小説だけれども、麻薬というテーマ、乾いた文体、適当にエピソードを羅列するなどバロウズの面白さがちゃんと味わえる)と『トルネイド・アレイ』(とても短いシュールなスケッチ集で、バロウズの超現実感覚、スラップスティック感覚、プロット破壊の感覚、そして文体の魅力を凝縮して味わえる)と『内なるネコ』(エッセー風の断章の中でバロウズのリリシズムを味わえる)である。この三冊を読んで面白かったら、あなたは『裸のランチ』を読むべきだ。
再読。ご存知の通り、バロウズの名を一躍有名にした出世作である。が、と同時に「わけが分からない」「意味不明」「気持ち悪い」「最後まで読み通せない」「これを面白いという奴はカッコつけてるだけ」などと散々な言われ方をしてきた小説でもある。この本によってバロウズは難解、という抜きがたいイメージが作り上げられてしまった。
まあ気持ちは分かる。私も最初は読み通せなかった。これはなぜかというと、やはり一貫したプロットがないからだ。一応最初ビル・リーが登場して(『ジャンキー』『おかま』と同じ主人公)地下鉄に乗ったりするものだから、その続きを読者は期待してしまう。だから円盤のウィリーやら何やらのシュールレアリスティックなエピソードが挿入されても、これはわき道であって、やがて本筋に戻るだろうと思いながら読み続ける。これがいけない。なぜならこの小説に本筋なんてものはなく、話はどこにも戻っていかないからだ。小説は延々とわき道にそれ続ける。読者は地図も持たずに密林に放り込まれたような気分になり、途方に暮れる。わけが分からなくなり、ギブアップする。
本書を読むには簡単なコツがあって、それは話の展開とか因果関係をまったく期待しないということだ。だってそんなものないんだから。部分部分がすべてなのだ。ショート・ショートの連鎖だと思えばいい。本書の罪なところは小説全体の主要なプレイヤー、そして主要な舞台みたいなものが思わせぶりに出てきて「おっ、ついにストーリー来たか」と期待させることなのだけれども、たとえビル・リーやベンウェイ医師が再登場しても、あるいはインターゾーンが繰り返し出てきても、そこに何か前後関係が発生すると思ってはいけない。バロウズはどうせ思いついたことを適当に、いい加減に羅列しているだけなのだ。そう思っているくらいでちょうどいい。
そして一旦そう思ってしまえば、この小説は別に難解でも読みにくくもない。カットアップ三部作みたいに意味の通じない文章が延々続くということは(基本的に)ない。場面場面がバラバラでシュールレアリスティックだというだけで、一つ一つのシークエンスは人物とセリフとアクションでちゃんと構成されている。ところどころカットアップ的な、イメージを高速に羅列したような散文詩的な文章が出てくるが、それは一部だし、個々のセンテンスは意味が通じている。本書では純然たるカットアップ技法は使われていなんじゃないだろうか。(え? 使われてる? いい加減なこと言ってすいません)
ではそういうプロット不在の小説である『裸のランチ』の読みどころはというと、やはり数々の超現実的イメージの悪夢的な凄まじさ、白熱した想像力のテンションの高さ、全体を包む異様な熱気、フラッシュバックを見ているようなめくるめくイメージ連鎖のスピード感、などということになるだろう。本書で展開される幻覚的ヴィジョンはおおむね麻薬、ジャンキー、そして同性愛という、『ジャンキー』『おかま』でおなじみのバロウズ印のモチーフからなっているが、時折不思議な浮遊感を見せながらもリアリズムの範疇に留まっていたこの二作と異なり、『裸のランチ』では自由奔放な想像力によってすべてにものすごい変形が施されている。稀代の幻視者たるバロウズの想像力がいよいよ解き放たれたのである。
基本的にその変形はグロテスクで悪夢的なものだが、いやもうその凄まじさは唖然とするほどで、たとえばここではジャンキー達は人間外の生物と化す。ぎざぎざの歯がついた円盤状の口を持ち、ジャンキーを密告してその血を吸う「円盤のウィリー」、あるいは監督官をアメーバのように同化してしまう「仕込係」。原形質を取り込むことですべての人類を一人の人間にしてしまおうという驚愕の「液化主義者」がいるかと思えば、少年との性行為の途中でカニのようなごわごわした物体に変化してしまう男もいる。別人格を持った肛門が喋ったり食べたりし始めて、しまいには宿主の体を乗っ取ってしまうなんていう話もある。インターゾーンで売られているブラック・ミートは大ムカデの肉で、美味だけれども吐き気を催すので、ブラック・ミートの中毒者は食べては嘔吐するを繰り返し、しまいには疲労の極に達して倒れてしまう。まあこんな具合に、目を疑うような光景が次から次へと展開される。
そんなグロテスクなものは嫌だという人もいるだろうし、そういう人は避けた方がいいかも知れないが、しかしバロウズには独特のスラップスティックな乾いた感覚があって、それがもう一つの大きな魅力になっている。基本的にグロは苦手な私が(私はグロいホラー映画なんかは駄目である)バロウズを読めるのはそのせいだ。湿っておらず、カラッと乾いている。登場人物たちのやりとりは常にどことなくコミカルだ。本書は悪夢的なスラップスティック・コメディとしても読めるが、そういうところはフィリップ・K・ディックに通じるところがあるように思う。
ちなみに私はバロウズのスラップスティック・コメディ的なセンスを感じ取れるかどうかが、バロウズを面白がれるか嫌いになるかの重要なポイントだと思っている。本書にも結構笑いどころは多い。あまりこの人の書くものを深刻に受け止めない方がいい。「機械文明の悪夢」だの「地獄の底からのメッセージ」だの、そんなうっとおしいことを言われて本を読む気にはなかなかなれないだろう。そういうことはとりあえず面白がった後に、暇な時に考えればいいのである。
それから感心するのは、本書には異様なエピソードやイメージが渾沌としたまま詰め込まれているけれども、その世界観は驚くほど一貫しているということだ。決してメチャクチャではない。二流の作家がただ奇をてらおうとして無理矢理荒唐無稽なものをひねり出したら、絶対にこうはならない。バロウズは本物である。どんなに本書を嫌悪する人でも、ちゃんと読みさえすればそれを否定することはできないはずだ。
話を戻すと、私も最初は本書を読み通せなかったが、他の作品を読んで「バロウズってこういうのなんだ」と面白さが分かってから再読したら、問題なく読めた。私がバロウズ初心者にお薦めするのは『ジャンキー』(リアリスティックな普通の小説だけれども、麻薬というテーマ、乾いた文体、適当にエピソードを羅列するなどバロウズの面白さがちゃんと味わえる)と『トルネイド・アレイ』(とても短いシュールなスケッチ集で、バロウズの超現実感覚、スラップスティック感覚、プロット破壊の感覚、そして文体の魅力を凝縮して味わえる)と『内なるネコ』(エッセー風の断章の中でバロウズのリリシズムを味わえる)である。この三冊を読んで面白かったら、あなたは『裸のランチ』を読むべきだ。
人間嫌いというものが一貫して流れていると思いました。
未訳のものも全部読みたいですねぇ。