アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

僕はマゼランと旅した(改稿)

2015-03-07 11:45:27 | 
『僕はマゼランと旅した』 スチュアート・ダイベック   ☆☆☆☆★

 再読して大幅に評価が上がったので、初めての試みだが、以前レビューを書いた作品を再び取り上げたいと思う。以前のレビューはこちらです。感想がどう変わったか見てもらうと面白いかも知れないし、いい加減な奴だと思われるかも知れない。まあいい。

 これは『シカゴ育ち』の次にダイベックが発表した作品集で、連作短篇集となっている。舞台は例によってシカゴで、同じ登場人物があちこちに出てくる。主人公は短篇ごとに変わり、テーマやストーリーも変わる。だから物語世界はちょっとずつブレながら重なり、プリズムのように交錯し、やがて神話的な広がりへと到達する。連作短篇という形式を採ることで、長編小説では逆に描くことが難しい世界の重層感を表現している。

 同じ町と同じ住民たちを使って多数のエピソードを繰り出す、といういわばシリーズものともちょっと違う。それぞれの短篇が表現する世界観やスタイルは、少しずつではあるが確実に異なっているからである。そういう意味で本書はまぎれもなく短篇集であり、決して連作短篇形式の長編ではない。抒情的な短篇、暴力的な短篇、スラップスティックな味わいがある短篇など、色合いはさまざまだ。

 登場する人々も非常に多彩で、その多彩さとそれぞれが背負っている尋常ではないドラマの濃さが、さっき書いた通りこの小説世界にどこか神話的な深みを与えている。『シカゴ育ち』で見られた洒脱でシュールな感覚は表面的には影を潜め、一応リアルな物語ばかりになっているけれども、リアルな中にもどこかちょっと現実から浮遊した感覚があって、その浮遊感がまさにダイベックならではの詩情の源泉となっている。洒脱でシュールな感覚は目立たなくなったけれども決してなくなったわけではなく、内部に沈潜し、隠し味的な効力を発揮するようになった。つまり、リアルといっても新聞の三面記事的なリアルさではないのだ。サックス吹き、殺し屋、レスラー、ストリッパー、役者、などが登場して演じるそれぞれのサーガはリアルと現実離れ感が微妙にミックスされ、したたかな物語のロマンをまとっている。ダイベックの物語においては、たとえばストリッパーはコルトレーンの「至上の愛」をかけながら踊るのである。

 短篇の中で扱われるのは恋人同士の関係や肉親の死などさまざまな人生のドラマだけれども、どの短篇も明確なストーリーラインに沿って進むというよりは、登場人物たちの人生の中を漂うように、さまようように、行く先不明のまま進んでいく。起承転結が明確でない。というより、そんなものはない。どの短篇もあらすじを説明することは困難だ。ジャズの即興演奏のように、不定形に形を変えていく物語たちである。それぞれの作品がちょっとずつブレながら重なっていると先に書いたが、そういう意味では一つ一つの短篇の中でも、因果関係がはっきりしない複数のエピソードが感覚的に配置され、物語の輪郭を曖昧にし、ゆらぎと重層感をもたらしている。

 この万華鏡のような味わいの連作短篇集にさらに夢幻性を加えるのが、「記憶」というものを扱うダイベックの手つきである。これらの物語はもちろん誰かの「記憶」なのだが、それが「事実」ではなく「記憶」であるという明確な意識が全篇を貫いており、かつ、そのベースには「記憶と夢は同じものだ」という認識がある。これはある短篇で登場人物の一人が口にするセリフだが、これが本書が拠って立つ根本原理であることは間違いない。ここでは記憶と夢は等価なものとして扱われているのである。特に幻想的な仕掛けがあるわけでもないのに、この作品集に神話性、夢幻性が濃厚に漂っているのは、このダイベックの意識によるところもまた大きいと思う。

 個人的には『シカゴ育ち』に収録されていたスケッチ風のシュールレアリスティックな掌編を偏愛しているので、本書にそれがないのはとても残念なのだが、これはこれで素晴らしい作品集であることが今回分かった。透明感と夢幻性に溢れるダイベックの文体もますます研ぎ澄まされて、まるで音楽を聴くような読書体験ができる。短篇によってスラップスティックな文体、荒々しくスピーディーな文体などが使い分けられているが、ここぞというところで、見事なサックス・ソロを思わせる流暢で音楽的なセンテンスが溢れ出してくるのだ。やはりダイベックは詩人である。

 


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