アブソリュート・エゴ・レビュー

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勝手にしやがれ

2014-05-18 09:58:23 | 映画
『勝手にしやがれ』 ジャン=リュック・ゴダール監督   ☆☆☆★

 ゴダールの『勝手にしやがれ』を日本版ブルーレイで鑑賞。

 主演はジャン・ポール・ベルモンドとジーン・セバーグ。モノクロ映画。犯罪ものという話も似ているし、『気狂いピエロ』を先に観ているのでどうしても比較になってしまうが、こっちの方が古い作品ということもあってか『気狂いピエロ』までのとんがりっぷり、アナーキーさはまだ見られない。とはいえ、従来の映画文法に沿ってもいない。中間ぐらいだと思う。ベルモンドがふと観客に話しかけたり、映像が飛んだりシャッフルされたりもするが、アナーキズムや実験性よりもソフトな軽やかさが印象的だ。それに『気狂いピエロ』に比べるとまだストーリーがあり、役者も芝居をしている。

 ただ物語のリアリズムは申し訳程度で、観客をストーリーに没入させてハラハラさせるようなものではない。ベルモンドは自動車泥棒で、追いかけてきた警官をつい撃ち殺してしまって逃げる、という犯罪ものだが、ほとんど緊張感はなく、すべてがオフビートで、冗談みたいに軽い。ベルモンドも刑事の追跡を気にするより、アメリカ娘のジーン・セバーグとベッドインすることの方で頭がいっぱいだ。『気狂いピエロ』同様、ストーリーの面白さやリアリティを求める観客はつまらないと思うだろう。

 ではこの映画の魅力はというと、やはり映像、音楽、俳優たちの芝居、セリフ、そして一応存在するストーリーなどが渾然一体となった中に生まれるポエジーだろう。一種の空気感といってもいい。『気狂いピエロ』と同じだが、ただし、ポエジーの種類はかなり違う。これまで三つのゴダール映画を観たが、映画が醸しだす雰囲気はそれぞれまったく異なっている。詩のようにコラージュのように映画を作っているにしても、決して金太郎飴みたいに似たような表現になってしまっているわけではない。

 『勝手にしやがれ』では、瑞々しいモノクロ映像で捉えられたパリの町並みの美しさとジャズの洒脱な響きが、この映画全体のトーンを決定している。それは先に書いた通り『気狂いピエロ』の極彩色のアナーキズムでもなく、『軽蔑』の荘厳なる苦さでもなく、春風のようなソフトな軽やかさである。この映画がファッショナブルだと言われるのもそのせいだと思う。パリの風のそよぎを感じさせるようなモノクロ映像の中で、ベルモンドがボギーの真似をする、新聞を読む(とにかくしょっちゅう新聞を広げている)、電話をかける(とにかくしょっちゅう電話をかける)、短髪のジーン・セバーグが歩く、笑う、タバコの煙を吐き出す。ストーリーは二の次、物語の破綻など気にも留めず、彼らはただ好き勝手に動き回っている。

 初めてこの映画が銀幕に登場した時、衝撃的だっただろうということはよく分かる。とにかく解放感でいっぱいだ。それは物語のテーマとしての解放だけでなく、映画文法からの解放、映画の見かたからの解放、映画とはこういうものだという思い込みからの解放でもあったはずだ。絵画の世界に印象派が出現した時の衝撃に近いかも知れない。時代を経た今では斬新さこそ薄れているが、この解放の感覚、宙に舞い上がるような感性の軽やかさは充分に感じることができる。それらはこの映画の血肉の一部なのだ。

 また、他の多くのゴダール映画のように、この映画のラストでも主人公が空しく死ぬ。リアリティなどないに等しいこの映画で嘘くさい死を描かれても、と思う人がいるかも知れないが、やはりそこには一種の衝撃がある。リアルな死ではなく、記号としての死であっても、それは映画や小説の中ではちゃんと機能するのである。考えてみれば当たり前で、本や童話の中で描かれる「死」に、果たして人を動かす力がないと言えるだろうか? むしろその抽象的な寓意性の中で、現実的具体的な死よりも人を揺り動かすこともあるのではないだろうか?

 だとするならば、『勝手にしやがれ』のようにお遊びと嘘くささに満ちた映画の中であっても、個々のエピソードの真実味が失われるとは限らない。裏切りによってベルモンドを殺したジーン・セバーグの謎、そして彼女がひたと観客を見つめるラストカットのミステリアスな美しさは、私にとって充分に衝撃的だった。

 とはいえ、途中のベルモンドとセバーグのベッドシーン(というかアパートの一室のシーン)はちょっと長すぎるんじゃないだろうか。90分の映画の中で30分ぐらいはこれなのである。異様に長い。内容はというとウダウダ会話しているだけだし、私はかなり退屈した。

 ところでこのブルーレイには特典がついていて、色んな人がヌーヴェルバーグのことを語っているが、ある映画監督はこんな風にゴダールのことを語っている。ゴダールはまったく何もこわがっていない。人にどう思われるかとか、分かってもらえないんじゃないかとか、まったくそういう心配をしていないように見える。つまり、観客に媚びることがない。純粋に自分のためだけに映画を作っている。だからこそ、ゴダールは自分の内面をダイレクトにフィルム上に表現することができる。

 これは非常に良く分かる。もしかしたら実際はゴダールも色々悩みながら映画を作っていたかも知れないが、作品にはまったくそんな気配がない。ただひたすら自分が作りたいように作っているように見えるし、自分の感覚を絶対的に信頼しているように見える。これはつまり、映画作家の内面や感覚がそのままダイレクトに映像に反映されている(ように感じさせる)ということであって、こうした感覚こそゴダールらしさの本質であるように思える。



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