アブソリュート・エゴ・レビュー

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残菊物語

2012-04-30 21:41:40 | 映画
『残菊物語』 溝口健二監督   ☆☆☆☆

 溝口監督の初期作品を鑑賞。1939年の映画である。古い。が、それにしては2時間半と長い。物語は典型的メロドラマである。いわゆる「芸道三部作」の一つで、歌舞伎役者である夫に献身して出世させ、自分は病死してしまう妻の物語。ああ、なんと悲しい。最後は人々から喝采を浴びる夫の姿と、貧乏長屋のせいべい布団の上で息を引き取る妻の姿が対置されて終わる。

 メロドラマとは要するに観客に涙を流させることが目的の「お涙頂戴」であって、通常センチメンタリズムや通俗性が全開になり、芸術作品としてのクオリティには疑問符がつくことが多い。が、この映画はいかにもメロドラマなパターンでありながら、あまりセンチメンタルな感じがしない。むしろどこか冷ややかな、硬質な美を感じる。そういう意味では後年の溝口監督傑作郡もみなそうで、『近松物語』にしろ『山椒大夫』にしろ、構図はメロドラマでありながら残酷美すらたたえた宝石のような映画になっている。

 これはどういうことなのだろうか。この映画を観てまず気づくのは、メロドラマ的な物語の枠組みがくっきりと明瞭であるため、ほとんど様式として感じられるということだ。どんどん落ちていく菊之助とお徳。世間の風は冷たく、希望は消えていく。やがて菊之助はやけになってグレ始めるが、そうなってもお徳の献身は微動だにしない。前も書いたが、溝口映画の中では悪人はもうどうしようもなく悪人で、善人はひたすら善人である。悪人にも良く見りゃいいところがあるとか、善人でも叩けばホコリが出るだろうとか、そういう相対主義はきれいさっぱりない。泥臭いリアリズムの自然主義文学ではなく、澄み切った寓話であり神話なのである。この話でも、メロドラマの様式に登場人物たちをジグソーパズルのようにはめ込んで神話的な普遍性を獲得するという、溝口映画の特質がはっきりと見て取れる。

 映像もしかり。溝口の特徴であるワンシーン・ワンカットの手法が徹底していて、しかもカメラが常に引いているので、非常に舞台劇に近い印象を受ける。主人公二人のアップすらほとんどない、というか、皆無なんじゃないか。ヒロインであるお徳の顔立ちは映画を最後まで観てもよく分からないぞ。もっともメロドラマティックな場面、病に伏せるお徳のもとへ菊之助が駆けつける終盤の場面でさえ、カメラは終始ひいている。観客は窓越しに他人の家の中を覗き込むデバガメみたいな気分でふたりの芝居を観賞しなければならない。と言って悪ければ、観客は神の視点で、あるいは部屋の隅に控えめに佇む臨床医のような視点で登場人物を見守ることになる。それによってべたべたした感傷がふるい落とされ、明晰な残酷性が立ち上がってくる。残酷な物語を簡潔に淡々と綴ることで衝撃力が増すという、神話の語り口と同じ効果があるのである。

 それからこのワンシーン・ワンカットと引きのカメラのもう一つの効果として、役者の所作の美しさが引き立つということがある。立ち上がったり座ったり、うちわを仰いだり。実に美しい。

 この映画を最後まで観てもう一つ気づくのは、お徳は決してただ悲運に翻弄されるばかりのかわいそうな女ではない、ということだ。気立ての優しい、自己犠牲的な女がまわりの悪人や環境のせいで不幸になっていく、という「おしん」的ストーリーではない。彼女は非常にしっかりした女性で、控えめに見えて、実は自分の意見を常にはっきりと主張している。そもそも菊之助といい仲になるのも、ぼんぼんの彼に面と向かって「あなたの芸は未熟だ」と言ったことが始まりだし、暇を出された時も「納得がいきません。自分は若旦那の芸を育てる母親のような気持ちなのです」と、使用人とは思えない大胆不敵な意見を述べている。家出した菊之助を追って一緒になったのも自分の意志だし、嫌がる菊之助を尻目に、福助に菊之助を使ってやってくれと頼みに行ったのもお徳だ。お徳は常に自分の意志に沿って行動しており、最後は病に倒れるとはいえ結果的に、菊之助を大成させるという初志を貫き通している。

 この、弱く控えめに見えて実は非常に強く毅然としたお徳というキャラクターも、本作のぴんと一本筋の通った気品に貢献しているように思う。



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