崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

み仏に抱かれて

2014年04月15日 06時18分26秒 | エッセイ
 99歳で亡くなられた方のお顔を見てお別れをしてきた。お葬式は下関から20キロほど北の特牛の小山正夫氏の自宅で行われた。式場は私がインタビューと撮影した畳のお部屋と庭先になっていた。数日間の雨後の晴れた日差に涼しい春の風にふかれながら念仏などに耳を傾け、歌を斉唱し、焼香を行った。人に依っては焼香の時、百円玉を捧げて(?)から行っていた。神社への賽銭に似ている。この地域のしきたりだとお隣の人から聞いた。韓国では死者に米やお金をあげる。中国での紙錢を燃やすのと同様であろうか。
 彼は華麗なハイカラさんの人生、錦鯉養殖の趣味とチャレンジ精神に満たされた人だったとのこと、特に私が関心を持っている日中戦争写真については触れられていなかった。なぜであろう。戦争の話はタブーであろうか。隣人たちにもその話は知られていないのかも知れない。安らぎ、長い99歳の終点、念仏は人生は空しく「煙」のようであるという。かなり哲学的である。日本は火葬文化であり、韓国では一握りの土になって帰るということから埋葬文化である。
 彼がまだ元気な時インタビューして撮影して映画「小山上等兵が撮った日中戦争」はいきいきした表情で残っている。カメラマンの権藤博司氏も同行して、冥福を祈った。帰りに食堂に入る時は黒いネクタイをはずした。死の穢れ観念であろう。
 お見送りの歌 みほとけに 抱かれて 君ゆきぬ 西の岸 なつかしき おもかげも きえはてし かなしさよ。み仏に抱かれて 君ゆきぬ 花の里 つきせざる たのしみよ 笑みたもう うれしさよ。と歌われた。 

小山正夫氏死去

2014年04月14日 05時05分57秒 | エッセイ
 下関特牛の小山正夫氏が死去し、今日11時にお葬式が行われるという訃報を受けた。享年99歳、彼は1937年から3年間,日中戦争に参加して現場で撮った写真を持っておられ、私がインタビューし、権藤博司氏が撮影してドキュメンタリー映画を作成した。先日NHKテレビ局の取材の件で電話をした時、体調不良ということでお会いできなかったが、100歳まで半年残し亡くなられたという悲報を受けてとても残念である。
 彼が残した写真や証言を出版しようと進行中であるが今度は私のところでスピードが上がらない。彼と奥さんの対話の映像もドキュメンタリーにしてあるので生き生きした動画を通して戦争証言が残るのは幸いである。特に中国の南京付近での「慰安室」の写真は貴重なものである。いま読書会で読んでいる「慰安所帳場人日記」の理解に大いに参考になっている。心からご冥福を祈る。

ヘイトスピーチ

2014年04月13日 05時32分13秒 | エッセイ


 ヘイトスピーチのニュースを聞いて心が痛い。国際化、グローバリズムを叫んでいる現代社会では非常に異様な現象である。主に在日朝鮮・韓国人に対する嫌悪感情の表れである。民族、人種、性別、弱者などに差別や嫌悪感情を表現することは法律で規制することとなっている。しかし法律などで規制しても抑えることは不可能であろう。考えてみるとそれは中国や韓国がいう歴史認識よりも「歴史」そのものであるといえる。それは近い歴史「植民地史」に遡る。日韓は古代から文化的な交流が部分的にあっても、長い間鎖国的な状況であった。不幸な歴史とは言っても両国民・民族が生活レベルで付き合ったのは不幸な植民地であった。その時代には世界的に帝国時代であって、植民地が国際化、近代化の時代でもあった。戦後それぞれ国家は民族主義、国家主義を高め、国境という壁を高くした。植民地は終わっても様々な体制、人の意識構造にはいわば「歴史認識」として残って、現在の状況にも強く影響している。それらを超えて本当の国家間の真の「国際化」になれるか、疑問がある。
 植民地の歴史は引き続いている。日本は靖国、韓国は慰安婦像、安重根記念館等等で憎しみを増幅してきた。ヘートスピーチもその表れであろう。韓流・日流とヘート、両国間の愛憎が表面化している。悲しいとか言うしかない。私は大学時代に恩師尹泰林先生から紹介していただいたアメリカの精神科医カール・メニンガー(Karl Augustus Menninger、1893-1990)の『愛憎(애증)』(Love against Hate)を思い出す。愛と憎の感情は別個のものではなく密着していて、相互関係にあること、二つが混合すればアンビーバランスにもなる。しかしもっとも重要なことは愛と憎は反比例関係、つまり愛が重くなると憎は軽くなるという。その逆も同様である。なるほど愛する人を憎み殺すまでに至ることが分かる。もっとも私に希望を持たせることは憎むことから愛への変化である。最悪の「嫌韓から親韓」への変化を強く期待する。


家内の誕生日

2014年04月12日 06時38分08秒 | エッセイ
 ソウルの姉からワカメが届いた。多くの読者はその意味が分かるかもしれない。韓国では誕生日祝いには必ずワカメスープを飲む習慣がある。その他プレゼントも届いている。家内の誕生日である。私からは祝う言葉もなく、彼女が自分で作るワカメスープを飲み、時にはケーキを買って一緒に食べるのが精一杯である。しかし私自身の誕生日はかなり意識している自分の心がある。数年前には私の誕生日までと言った通りに2冊の本の発行日になった。先日今、進行中の分厚い本を私の誕生日までにと冗談半分に言ったのを聞いて下さり、6月に向けて大きく進展しているという。
 私は人生において、たくさんの方々に会っている。中でも大事な人との出会いの一番は母親であり、2番目は家内である。先日もある講演の時にも言ったように一個のリンゴをそのままくれる母と、平等に半分をくれる妻とは異なる愛情を教えてくれた家内である。伴侶といい、一心同体という言葉があるが、「多心同体」のような夫婦であることに感謝している。私が嫌がる外回りは家内が得意(?)である。日本人である家内から日本語や日本文化を学び、助言を聞きながら日本社会にも適応していると思う。韓国では私がテレビドラマを同時通訳をして楽しみ、家内は私以上に韓国が好きになったのである。おめでとう。

奇縁から学縁へ

2014年04月12日 04時00分23秒 | エッセイ
 初めて開設された「アジア言語文化」に20人弱の学生が出席した。中には隣の梅光大学からの聴講生もいた。日中韓の3国の学生に共通な言葉を以て社会言語学的に比較していくつもりである。まず中国や北朝鮮で以前頻繁に使われた「同志」という呼称を、「毛沢東同志」「金日成同志」を例にしてその意味を語った。敬語的な呼称の「様」「先生」とは異なって「同志」は上下関係のない、つまり無階級社会を目指す共産主義国家の理念を表すものである。日本では国会の中では上下関係ない平等な呼称として「君(クン)」を使っている。皇族に関して「陛下」とか「サマ」などの呼称とは非常に異なる。呼称が社会構造や政治的な理念を表わすなどの意味を深めていきたい。 
 講義の後に聴講生と話を交わした。中学生の時から韓国語を学んだと言い、韓国語が話せ、読めることを知って私の韓国語のエッセー集の『雀様の学問と人生(참새님의 학문과 인생)』の読後感想を願った。彼女はその本をパラパラめぐって挿入写真の中に自分が写っているのを見つけて驚きの表情、そして嬉しそうだった。彼女が6年前山口県韓国語弁論大会に出て優秀賞を取った時の記念写真であった。写真の中には審査委員長の私の後ろに彼女が立っている。私も彼女であることを確認した。嬉しい奇縁である。奇縁から学縁へと繋がって、面白い。
 

アイルランドの大統領が英国訪問

2014年04月11日 05時20分09秒 | エッセイ
ヨーロッパなどキリスト文化圏では復活節期に入っている。アイルランドのヒギンズ大統領がロンドンのウェストミンスター寺院で無名戦士の墓に献花したという。アイルランドの国家元首が英国を訪問するのは、1921年に同国が英国から独立して以来、初めての公式訪問となる(写真ネット)。このニュースが新聞下段の短信は私の目にクローズアップされて見えたた。アイルランドとイギリスの和解が最悪の日韓関係とダブって新鮮に感じたからである。
 イギリスは隣国のアイルランドを800余年間支配、侵略、植民地としたのでアイルランドの「反英」民族主義は強い。それは世界的に有名なことである。私はイギリス(大英帝国)が隣国を植民地としアイルランドでは「親英」と「反英感情」、それが独立以来、ギクシャクしてきたのは日韓関係と非常に似ていると見ている。今度の大統領の訪問は「和解」として歓迎されるべきである。
 私は数年前ダブリンと北アイルランドでその国の「悲しさ」を体感してきた。特にアイルランド出身のケースメント氏が犠牲になったことを調査した。被植民地生まれの彼が植民支配者として両国を愛国(?)したが、結局1919年復活節蜂起の反乱に関わってイギリス政府によって死刑された。2年後の1921年アイルランドは独立しても両国は長年対立、葛藤をしてきた。彼の悲運、悲劇は戦後のアイルランドのナショナリズムを高め墓を持ち帰った。私は彼の墓の前で黙祷した。今回ヒギンズ大統領がロンドンの無名戦士の墓を訪問したことを聞いて、私は日韓関係に替えて考えている。和解は難しい。しかし、不可能ではない。

小保方晴子氏の会見

2014年04月10日 04時44分54秒 | エッセイ
小保方晴子氏の会見を視聴した。「会見」とは語り手が自ら話すことであろう。したがって質問は審問ではない。また専門家同士での研究発表でもない。論争の時間でもないので会見である以上打ち切ってもよいのに2時間以上続いて答えた。多くの人は納得したという。数字がそれを表わしている。しかし、マスコミの論調では否定的な傾向が強い。
 私はどう見るべきか、自分なりに堅い決心があった。それは日本人に多いバッシング、イジメなどを排除し、話し方や表情などで真意を把握すること、研究者として研究が好きか否かにポイントをおいた。つまり教育者として聞いた。研究発表ではないので研究成果を客観的に「判断材料の生データを開示すれば」とか、「捏造」「改ざん」などと言われても、私は彼女に何の疑いも抱かず、フリーに会見として見守っていた。研究成果については専門家の中で議論や検証すべきであろう。専門家を非専門の多数が「文化革命的」な人民裁判的にするのはバッシングに過ぎない。
 私は彼女が研究が好きなのに、研究が中止になったことを語る目に涙を見て感動した。周りの人への恨みを言わず純粋な表情に私の心が動いたのである。私は基本的には長い間、教育をしてきている者なので人の間違いや嘘さえも聞いてあげて将来性を見つけて生かそうとする。理研や調査委のメンバーたちの顔つきよりは小保方晴子氏の表情は純粋に感じた。
 私としては失敗したとしても、間違ったとしても許して研究を続けるようにしてあげたい気持ちになった。少なくとも彼女は早稲田、ハーバードの研究の雰囲気で育った人ではないか。たとえ「騙されても、もう一回」という心が日本人には足りない。われわれは毎日のように他人の研究成果を無断で使用していると言える。たとえばフェースブックには多くの画像が引用せず使われており、パーワーポイントで無断で資料を利用している人も多い。人に石を投げる前に自分に向かって立ち止まって考えてほしい。(写真はネットから)

大学の質

2014年04月09日 04時25分35秒 | エッセイ
昨日と今日は気象予報では「ポカポカ陽気」といわれても暖房が必要である。私が担当する「日本文化論」には日本人以外にネパール、中国、韓国の学生がおり、実に国際的な雰囲気でスタートした。教材は拙著『雀様が語る日本』とした。外国からみた日本、そして日本から見た日本、楽しくできそうである。教員の中には留学生が入ってから大学の質が落ちてしまったという否定的な声もある。しかしそれが国際化の一つであり、必然的になる時代であり、避けられない状況になっていくのである。その「質」とは何だろう。学問の質は日本が比較的に高いとは言われていても日本は先進国としての魅力は弱くなっている。学問の「質」には客観的な広い視野が重要である。
 学生募集には熱を挙げてもクラスの中での授業の質はまだ低い。居眠りしている学生をほったらかして、自分の資料だけを読みあげる教員はまだ多い。教員の多くは授業法も知らず、あるいは工夫せずに教壇に立っている人もいる。クラスは教育にならなければならない。その授業の基礎は「聞く、話す、読む、書く」の4つが機能するように行うべきである。授業法に関して専門家を交えて議論する場を設けるべきであろう。授業の質を高めることが最大の学生募集につながると思っている。(写真は4年前凍傷したもの回復させて咲かした洋ラン)

無声映画「進軍」

2014年04月08日 05時38分28秒 | エッセイ
 1930年製作の無声映画「進軍」を鑑賞した。オーケストラの演奏が無声映像で始まる無声映画、時代錯誤の感が強かった。異様な感がする。蝶ネクタイで楽譜を見ながら指揮するコンダクター、華麗な西洋文化とトーキーのない時代が噛み合ってないような滑稽な光景が142分続く。ストーリーは田舎の青年が(鈴木傳明)美女の田中絹代に出会う。青年は竹で飛行機を作りそれを飛ばしていたが、本当のパイロットとなり、戦場で活躍する。陸軍と海軍の協力を得て、飛行機が飛ぶ映像や基地での訓練、宣戦布告をしてからの30分間の戦闘シーンがリアルである。
 満州事変の直前、1937年の日中戦争や太平洋戦争には関係のない戦争映画であり、本当に1930年の映画であるか疑いながら見続けた。無声映画であることは主に弁士用のものと思われる字幕がある。一人息子を出兵させた両親の悲しみ。婚約者と離れがたい航空兵、さらに戦場での悲惨な戦死とか負傷などの場面をみると戦時中の宣伝映画とは異なる。むしろ戦後の反戦映画とも思われる。同じく田中絹代が主演している「陸軍」とは全く違う反戦映画である。「戦前」「戦中」「戦後」という三に時代区分をするなら戦前と戦後が「平和」ということで共通することになり、結局「戦争と平和」の二項対立的になる。この映画を戦中期を越えて、「戦前」と「戦後」をつなげて分析しようと思う。

表情管理

2014年04月07日 05時15分19秒 | エッセイ
 キム・ヨナの激しいトレーニング過程の映像を見た。演技の「表情管理が難しかった」というところに思いが留まった。受賞の時に笑うのは簡単であり自然なことであるが、氷の上、失敗した時にも表情を管理することは難しい。特にカメラにクローズアップされることを考えると常に表情管理しなければならない圧迫感があったという。有名な俳優や政治家たちも表情を管理しなければならない負担があるだろう。我々普通の人でもカメラの前ではニコニコ顔の表情を作り上げ、表情を作ることがある。ブスと言われる女性は顔形より表情が硬いことを指す。客商売の店員さんは男女問わず表情を管理するようである。表情の硬い女性はエレベーターガールのアルバイトなどしたら治るだろうと思う。
 表情はパーソナリティであり、自然なものが良いともいわれる。その自然な表情とは実は生きてきたその人生そのものの複雑な性格などをあらわすという研究もある。ある事務員は数年間会ってもたった一度も微笑の表情を見たことがなかった。その人の人生はどうなのだろうと想像する。不幸な家庭で愛情欠乏、恋愛と事業の失敗の連続の人ではないだろうか。私も表情管理しなければという思いに至る。
 一般的に日本人に比べて韓国人や中国人の表情は硬い。人工的な微笑は病んだ精神者と思われ、硬い表情は正直さであり、微笑を売るのは売笑婦であり、演技のような表情は軽くみられた。結婚式では新婦新郎を笑わせるいたずらっぽいゲームのようなものもあった。韓国では男らしい男は顔には感情を出さない。私は男らしさの一号失格である。花札やゲームでも表情を隠せないから負けるのは当たり前である。軍隊の訓練中にバットで殴られた時、私は我慢できず転がって辛さを見せたのは今だに恥ずかしい。日本の男には「腹芸」があるときいて唖然とした。先日の通り魔の嘘の証言、十数年間耳が聞こえないと人の話を聞きながら腹芸より「建前文化」の巧ささえ感じた。表情は人生そのものであるが、管理する文化もある。鏡に向かって化粧したり、身なりを整えたりするあなた(私も含む)、自分の表情を見ながら表情も整え、化粧もしようね!と言いたい。


中国から講演依頼が来た

2014年04月06日 04時02分20秒 | エッセイ
 中国の教え子の3人に送った私のエッセー集『雀様が語る日本』が3カ月過ぎてもまだ届いていないことが電話とメールで確認できた。なぜだろうか。郵便事情によるものか、あるいは他事情だろうかなど、大げさにも考える。そんな時、中国のもう一人の教え子から日中大学間交流と私への講演依頼のメールが届いた。「行く」と返事した。また韓国の国立機関からは原稿請託が来た。
 昨日の東亜大入学式での櫛田宏治学長の「あいさつ」では、やさしさ、肯定的な、そして挑戦的なメッセージが語られた。国際化という言葉が耳に残った。
 青春時代の貴重な時期を、ともに歩けることをうれしく思います。互いに学びあうよい環境を一緒に作っていきたい。人間教育及び教養教育、社会への貢献、人の幸せにどのように関わっていけるのかを考えるます。グローバルな世界構図で国境のハードルを下げ自由移動、情報の国際化、行動の可能性は地球規模で広がっています。世界の見方・考え方も多様です。今年は、韓国の方を中心に約20人の外国人の方が入学してきています。大いに交流を楽しんでいただきたいと思います。人との人間関係を大切にしていくこと、挑戦していくことが重要、前向きな人間性を培い、努力をしていくことを祈念いたします。

 私は大学院生へのガイダンスで寄せ集め式の学際研究より伝統的な人間関係の師弟関係の上の研究を期待するというスピーチをした。演壇で話すことが多くても、この短いスピーチでエナジーを消耗し、疲れた。エナジーを集中的に注いだからであろう。
 

「オモニ(母親)」

2014年04月05日 05時34分28秒 | エッセイ
 400数十ページの博士論文が届いた。神戸大学,澤野美智子氏の博論である。韓国での乳がん患者を通して「オモニ(母親)」のイメージを実証的に調査をして分析したものである。乳がん患者が集まって寝泊まりして治療を受けているところで澤野氏自身も共に雑魚寝をしたり参与観察した苦労話が綴られている。10年ほど前、神戸大学で集中講義をした時に長く話したことを思い出す。その後彼女は韓国木浦へ、そしてソウル大学で修士論文、そして今度は神戸大学での博士論文に至った道のりは長かった。彼女はフェースブックに「ファイナル、口頭試問がなんとか終わりました~。審査委員の先生方から、激しいボディーブロー(論文の内容に関する質問)を何発も食らわせていただきました。KOさせられるような攻撃を受けてもそこで倒れたら負けなので、なんかもう這いながらネコパンチで応戦してた感じ。審査委員の先生の1人が後から「あれで泣かなかったのは偉い」とおっしゃっていたそうな。まぁ、この業界にいると、打たれ強くもなりますわな(笑)。ご多忙の中ご臨席くださった皆様、どうもありがとうございました。」と書いている。
 私の知人のある韓国の教授夫人の話であるが、子供たちに学者になることを強く勧めたというので、その訳を聞くと、彼女曰く、夫をみていると自由な時間が多く、別に苦労するようなこともない「楽な職業だ」と言った。私は学者の生き方は決して平坦ではないと言った。会社員は勤務時間以外に自由時間があるが、学者は24時間が新しいものへ向けてのアイディアを探し、集中して追求する戦いがある。もちろん会社員でも創意をもって大きい発明をした人もいるが、一般的には与えられた「お仕事」「労働」であろう。学者の道は質の高いものへ挑戦する荊克の道、狭路を歩く孤独な時間が長い。澤野美智子氏はその訓練を通過して出発したのである。心から賛辞を送りたい。

「ピカピカ」

2014年04月04日 04時44分12秒 | エッセイ
昨夜民放の4時間番組「次世代へ伝える歌」100曲をかなり長く観た。歌ったこともないのに耳に慣れたものが多い。ぞの時代を生きてきた人として好き嫌い問わず共有している昭和の音楽の文化である。さらに韓国であれば民謡や巫歌から演歌に至るまで広く身に付いている音楽の文化がある。またさらにクラシックやポップミュージックまで広げると世界的になる。日本では韓国のドラマなどが流れてきて、それに伴い音楽など韓国文化も一般化していくのも多い。冬のソナタをもって小泉総理が「ヨンサマ」とも叫んで流行語にもなったのは記憶に新しい。このような現象は日韓において文化交流として盛んになっていきつつあったのに政治家たちによって冷えてしまい、日韓関係が最悪になっている。
 韓国の5人組クレヨンポップ(写真はネット)の新曲「オイ」の歌詞に日本語的な表現があるとしてKBSから放送不適合の判定を受けたという(サンケイスポーツ)。「ピカピカ」など日本語的な言葉が入っているということで許可されなかったという。戦後日本式のものを愛用しながらも「わりばし」「うどん」などの「日帝残滓語」として浄化運動を起してきた長い年月があるが、英語式の外来語は氾濫するほどある中で日本語に対しては抵抗が強い。私は「日帝残滓」の言葉を多く日常的に使ってきた世代である。しかし「残滓語」ではないカラオケなどの新しい外来語にも抵抗があった。「ピカピカ」は残滓語であり、新外来語でもある。
 韓国では日本の右傾化を警戒する国民が多い。それは日本でも同様である。韓国は日本を無視する態度をとる。それは「被害者的高姿勢」のように感じる。一方日本はアジアの唯一の先進国時代という意識を放棄しなければならない。日朝関係になるともっと難しい。昨日東大の真鍋祐子教授を朝鮮会館に案内し、李健南委員長の話を聞いた。彼の先祖の故郷は韓国の全羅南道長興、彼は岩国で生まれ、日本の学校を卒業した。彼は重要な2点を指摘した。拉致問題は金正日委員長が事実を正直に認め、担当者を処罰するということで日朝宣言が出されたのに日本側が守らなかったと主張、私は納得した。もう一つは国交正常化すれば北朝鮮の地下資源と質の高い安い労働力が日本の発展に大きく寄与するという。大いに賛成した。彼は自分の車で朝鮮学校へ案内、校長、教頭先生とも話ができた。私は朝鮮学校の苦しさを知っていて、日朝国交正常化までしばらく辛抱してほしいと慰めた。無政府主義は禁語になっているが、最近のこのような不和状況をみるとその言葉さえ浮かんでくるのは私だけであろうか。

科学研究費が採択された

2014年04月03日 04時29分10秒 | エッセイ
鵜沢副学長から「おめでとう!」の一声、科学研究費が採択されたという知らせであった。今執筆中である著書とも関連するテーマの日本帝国の近代化政策のひとつである農村振興運動と、韓国のセマウル運動の起源に関するものである。1996年セマウルに関する論文を発表して以来、もっとも私の独創的な研究だと思っており、韓国で多く引用されているものでもある。昨年も朴正煕生家と宇垣一成生家を訪問し、調査を続けていたのでこの度研究費を申請して、日本帝国の政策として台湾も調査地に入れて深めることを願ったのである。分担者として県立広島大学の名誉教授の原田環先生、同大学の上水流久彦准教授であり、私とはよき研究協力者であり、心情的にも密接な人たちであり、友情と師弟関係なので、強力なチームになると確信する。原田先生は朝鮮近代史の権威者であり、上水流氏は台湾研究の若手中心研究者として活躍している人であり、大きく期待している(写真左端原田、右端上水流2011.8.4広島駅で)。
 昨朝もらった韓国からの日本研究者の電話では今韓国の朴クネ大統領は父の陰徳によって大統領になっているが父とは違った反日政策をとっているという。父の陰徳に背く「親不孝」の政策であろうか。私は朴正煕時代を生きてきたが彼が親日的とは感じなかった。反日を政治に利用する者たちによる誤りは大きい。近代化には経済的な色が濃い。朴正煕大統領の政治では国民の反日感情を利用せず、信念をもって行なわれた。一般的には反日か親日かといわれることを恐れる研究者がいるが、私は研究はファッションとは違うと思い、進めている。今まで続けてきたものを研究費助成をうけて本格的に研究することができることに感謝である。国民の税金を一円でも無駄にせず、大事に使いながら成果を出すつもりである。

蜚語、流言

2014年04月02日 05時49分56秒 | エッセイ
先日神奈川大学日本常民文化研究所のシンポジウムで一緒にコメンテーターをさせていただいた東京大学の佐藤健二教授からご論著数編を送っていただいて読み、大きく勉強になった。それらを読んだり目を通したりして多くのことを考えさせられた。本当に大いに勉強になった。
私も長い間民俗学を勉強して来た者の一人であり、柳田国男の『先祖の話』を韓国語で共訳したこともあるが、主に古いモノへの執着の民俗学からは離れ、近い歴史、現在の問題として植民地研究をするようになった。しかし佐藤教授との対話やご論著を通して斬新な視線に驚いた。フォークロアの社会学的接点がある。一つ例を挙げると、関東大震災の時の「流言」に関するものである。社会が混乱した時期には流言や蜚語が暴力性を持つということである。
 私は終戦時にソ連軍の参戦による不安な時、サハリン(樺太)瑞穂村で日本人が朝鮮人虐殺をした資料に接した時と関東大震災時が酷似していると思った。朝鮮人たちがソ連軍の飛行機へ信号を発するスパイだという蜚語、流言やデマがまわり、それに刺激された日本人青年たちが2日間で同じ村人として生活をした27人の男女、幼児の朝鮮人を虐殺した事件を起こした。私はショッキングなこの事件を知り、ただ残酷さだけでなく、混乱なアノミー状況での流言の暴力性に驚いて、『樺太朝鮮人の悲劇』(第一書房)に記した。常に自分がその蜚語、流言の発信にならないように戒めている。