崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

小保方晴子氏の会見

2014年04月10日 04時44分54秒 | エッセイ
小保方晴子氏の会見を視聴した。「会見」とは語り手が自ら話すことであろう。したがって質問は審問ではない。また専門家同士での研究発表でもない。論争の時間でもないので会見である以上打ち切ってもよいのに2時間以上続いて答えた。多くの人は納得したという。数字がそれを表わしている。しかし、マスコミの論調では否定的な傾向が強い。
 私はどう見るべきか、自分なりに堅い決心があった。それは日本人に多いバッシング、イジメなどを排除し、話し方や表情などで真意を把握すること、研究者として研究が好きか否かにポイントをおいた。つまり教育者として聞いた。研究発表ではないので研究成果を客観的に「判断材料の生データを開示すれば」とか、「捏造」「改ざん」などと言われても、私は彼女に何の疑いも抱かず、フリーに会見として見守っていた。研究成果については専門家の中で議論や検証すべきであろう。専門家を非専門の多数が「文化革命的」な人民裁判的にするのはバッシングに過ぎない。
 私は彼女が研究が好きなのに、研究が中止になったことを語る目に涙を見て感動した。周りの人への恨みを言わず純粋な表情に私の心が動いたのである。私は基本的には長い間、教育をしてきている者なので人の間違いや嘘さえも聞いてあげて将来性を見つけて生かそうとする。理研や調査委のメンバーたちの顔つきよりは小保方晴子氏の表情は純粋に感じた。
 私としては失敗したとしても、間違ったとしても許して研究を続けるようにしてあげたい気持ちになった。少なくとも彼女は早稲田、ハーバードの研究の雰囲気で育った人ではないか。たとえ「騙されても、もう一回」という心が日本人には足りない。われわれは毎日のように他人の研究成果を無断で使用していると言える。たとえばフェースブックには多くの画像が引用せず使われており、パーワーポイントで無断で資料を利用している人も多い。人に石を投げる前に自分に向かって立ち止まって考えてほしい。(写真はネットから)