崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

外来語

2014年04月19日 06時19分50秒 | エッセイ
東京から在日青年、東大大学院博士課程の李真煕氏がわざわざ下関まで訪ねてくれた。在日韓国人2世であるというが日本人とどう違うのか、彼は韓国籍の「韓国人」と言う。そして在日朝鮮人のアイデンティティを研究しているという。彼は韓国語を祖国の言葉であるが、外国語として学び、「韓国人だ」と言うのである。日本人とは何であろう。彼が話せる韓国語は彼の「(韓)国語」であろうか、外国語であろうか。母から学んだ母語は日本語であるという。韓国の国籍でありながら住民登録番号も持っていない、韓国民として「住民登録番号がない韓国人」である。しかし彼は「韓国人」として生きることを決めたのである。このような現象は多民族国家の中では異例とは言えないことである。韓国か日本の一つを選ぶ二者一択の問題ではない。「在日は在日」である。在日は一つのカテゴリーを持って生きることはできないか。それが多民族社会、真の国際社会ではないだろうか。
 アジア言語文化の講義で「外来語」を扱った。日本は中国から漢字文化を受け入れて、いまだに漢字は日本国の文字として使用している。世界的に有名な中国産の漢語は「茶tea」など多くある。また中国は「人権」など和製漢語を多く、日本から漢字語を受け入れて使っている。日韓ではもっと両国語の交わりが多い。韓国語からはチョンガー、キムチなど無数になるが、韓国でも日本語から「わりばし」や「うどん」などまた無数にある。しかし韓国では日本語から外来語を排除しようとするハングル浄化政策をとっている。それも反日政策である。中国は中華思想により外来語には排他的である。私は外来語から「国語」へ話を広げていった。「国語はなぜ必要であるか」と中国、韓国、日本の学生たちに問いかけた。言葉はコミュニケーションの手段であれば日本語、英語、中国語などを公用語とすることも可能であろう。学生たちは戸惑っていた。シンガポールの例をあげて一緒に考える時間にした。