崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

ヘイトスピーチ

2014年04月13日 05時32分13秒 | エッセイ


 ヘイトスピーチのニュースを聞いて心が痛い。国際化、グローバリズムを叫んでいる現代社会では非常に異様な現象である。主に在日朝鮮・韓国人に対する嫌悪感情の表れである。民族、人種、性別、弱者などに差別や嫌悪感情を表現することは法律で規制することとなっている。しかし法律などで規制しても抑えることは不可能であろう。考えてみるとそれは中国や韓国がいう歴史認識よりも「歴史」そのものであるといえる。それは近い歴史「植民地史」に遡る。日韓は古代から文化的な交流が部分的にあっても、長い間鎖国的な状況であった。不幸な歴史とは言っても両国民・民族が生活レベルで付き合ったのは不幸な植民地であった。その時代には世界的に帝国時代であって、植民地が国際化、近代化の時代でもあった。戦後それぞれ国家は民族主義、国家主義を高め、国境という壁を高くした。植民地は終わっても様々な体制、人の意識構造にはいわば「歴史認識」として残って、現在の状況にも強く影響している。それらを超えて本当の国家間の真の「国際化」になれるか、疑問がある。
 植民地の歴史は引き続いている。日本は靖国、韓国は慰安婦像、安重根記念館等等で憎しみを増幅してきた。ヘートスピーチもその表れであろう。韓流・日流とヘート、両国間の愛憎が表面化している。悲しいとか言うしかない。私は大学時代に恩師尹泰林先生から紹介していただいたアメリカの精神科医カール・メニンガー(Karl Augustus Menninger、1893-1990)の『愛憎(애증)』(Love against Hate)を思い出す。愛と憎の感情は別個のものではなく密着していて、相互関係にあること、二つが混合すればアンビーバランスにもなる。しかしもっとも重要なことは愛と憎は反比例関係、つまり愛が重くなると憎は軽くなるという。その逆も同様である。なるほど愛する人を憎み殺すまでに至ることが分かる。もっとも私に希望を持たせることは憎むことから愛への変化である。最悪の「嫌韓から親韓」への変化を強く期待する。