崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

楽園

2013年12月16日 18時36分21秒 | エッセイ
パラオも今日で4日目、歩いて国立博物館に着いた。先日市内ツーアでは概略的に見回ったが再び詳しく見ることにした。短い滞在中に二度目の、ナショナルミュージアムを見ることは私にとっていかに重要な意味のある施設であるかといえる。早速日本人の女性事務員の井上氏に図書室に案内していただいた。展示自体に関心があったのでまた入場料を払って入館した。写真撮影は禁止のため、メモを取り、家内が説明を読み私が録音した。スペイン、ドイツ、日本統治時代を二階で詳しく展示しているが、アメリカの展示は一階であり、粗末なものであった。パラオの歴史は全てが植民地史であり、それを自国史にするしか仕方がなかったのかもしれない。外国による侵略と収奪さえも、開発近代化と表現しているようである。
ベラウ国立博物館と在パラオ日本国大使館の共催でベラウ国立博物館設立50周年記念展示の「日本統治時代パラオの歴史と文化」という展示を集中的にみた。「日本植民地が現存」しているような展示のように感じた。日本統治時代に原住民たちを内地観光させたことが、私との共同研究メンバーであった飯高氏の文が展示されていた。植民地からの内地観光は朝鮮でもほぼ同様な内容で行ったので日本帝国の植民地政策として行われたことがわかった。原住民のための公学校で教育を受けた人の懐かしい当時の思い出と、戦争の被害の証言を紹介している。博物館のカフェではクリスマスキャロルのピアノ演奏が行われていた。
終戦70年弱過ぎても日本との関係は有効の関係をはるかに超えて親密になっている。時差もなく、日本語がほぼ通じる、戦跡も含む日本文化が多く残っている。多くの日本人がなにも大きな不便さを感じず日本の免許証で一ヶ月以内であれば国際免許証がなくてもそのまま運転もできるという。戦前多くの日本人が移住して住んだ。
年中28度から30度の常温、湿度80から90パーセント、お酒に酔って外で眠っても死ぬことはないと言われている。今日本は真冬の寒さを避けてダイビング、水泳を楽しめる。住所はなく、信号もなく、バナナ、パパイヤ、各種花が咲いて楽園である。私は強い日差しの中、日笠をさして歩きながら檳榔の木の美しさに焦点を当てる。バイBAIという伝統的な集会所の周りにはクリスマスを迎える準備のためにサンタクーロスの飾りが異風景に感ずる。バイは朝鮮半島の南にある茅亭と同様なものであり、昔韓国で南方文化起源説として議論したことを思い出した。
日本が委任統治して夢を賭けた旧植民地、まだ現にも南国の理想郷として、日本人の「楽園エデン」として生き残っているようである。全てを終えて明日午前には帰宅する。楽園から俗世へ戻る。それは外から見える楽園に留まらず住む人にとってもそうであって欲しい。

日本時代が良かった

2013年12月16日 05時53分17秒 | エッセイ
鶏の鳴き声から朝が始まる。鶏は経済的かつ神秘的な幸せを持たらせてくれるという。スペイン、ドイツの宣教師たちによって宣教され、キリスト教はかなり普及している。日曜日の街は閑散としているが、教会には信者がたくさん集まる。Sanbuhayカトリック教会でフィリピン人のための9時から始まるので第三週アドベント礼拝に参加した。司会はフィリッピン語で、説教は英語で行う。どの民族、どの言語にも通じる愛の話、10分ほどの説教と2回ほど膝を折って祈り、賛美そして聖餐式を行い(パンをいただいた)、ちょうど1時間、終えて神父さんと一緒に記念写真を撮った。神の前に「膝を折って祈る」ことから自分が常に落伍者になれないようなこと如何に高慢者であったかに反省し意識解放と謙遜になることを感じた。
スーパーマーケットで果物や野菜の貧弱に驚いた。熱帯雨林地域では果物が豊富であると想像したが意外であった。長生きができない理由に野菜が足りないこともあるという。魚食文化中心であり、野菜の栽培には向いていないのだろうか。栽培より野生または半野生のものに依存する傾向があるようである。日曜日に多くの店や食堂が閉まっており、開いていたタイ食堂で昼食、二回のスコールで雨宿りをして、湿度が高く、蒸し暑い道を歩いてホテルに戻った。相当疲れていた。
午後はパラオ在住24年の久米信行氏の車(NISSAN)で戦跡地を案内していただいた。最初に行ったところは南洋神社の跡地である。今は灯籠と表札柱の残りだけであって、階段などはジャングルになっており確認することができなかった。神社の本堂は個人住宅になって出入り禁止になっている。日本橋を渡り、アラカベサン島のリゾートホテルの裏山に歩き登り,戦争当時使った大砲や戦車など日本軍が残しものがそのまま置かれているものを見た。防空壕もみた。また1914年日本海軍が「侵襲」したというところを案内していただいた。古老たちから聞かされた良い印象として聞いた覚えがあるという。市内の南洋庁、戦車、トチカなどにも案内していただいた。水上飛行場、また水産アイスボックスのところなどをまわってパラオロイヤルリゾートホテルで久米氏をインタビューした。
久米氏は大学卒業して旅行業務に就職したことがパラオ人生になった。ここで同じ社員の女性と結婚し、ふたりの子供を持っている。長い間の会社を退社してから旅行社を作り経営している。彼はここでは母系社会であり、女性が強い、伝統的な州長と選挙による混合政治や混血児、日本人会、二重葬制、年金、医療などを説明してくれた。高等教育や医療はハワイかフィリッピンに寄らざるを得ない。
アメリカら独立しても年間40億ドルの援助を受けており、原住民はほぼ公務員であり、努力しない。スペイン、ドイツ、日本、アメリカに侵略されたという意識がなく、恨みなどまったく持っていない。ただ開発されたと思っている。特に日本の教育や統治には差別なく、成功したものであり、戦後のアメリカ時代より日本時代が良かったという人が多いとのことである。反日の強い韓国とはまったく異なった植民地歴史認識である。明日はその歴史をより深く探る。