崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

太平洋戦争Pacific War

2013年12月18日 05時18分32秒 | エッセイ
深夜ミクロネシアの島の国パラオ空港まで送ってくれた日本人女性は原住民と区別がつきにくいほど日焼けしていて、「住みやすい、楽しい…」「ここの人びと、大統領まで親日的だよ」と日本からの援助金でパラオでは初めての花火大会があったこと、東日本の災害とパラオの台風の災難に助け合った話を聞きながらたった15分で空港に着いた。深夜零時過ぎて空港で2時間待った。出国出続きは簡単であったがある真夏の服装のままの青年が丸い壇の上に立たされて両手万歳の姿で探索のような検査、また搭乗前にも特別二度目の検査をされたが理由はわからない。飛行機の安全のためにお客がテロリスト(?)として疑われることは許されるのだろうか。黙って検査に応じる青年に同情の視線をはずすことができなかった。グアムでの乗り継ぎは出国と入国の手続き、厳しいアメリカの検査を受けなければならない不便な空港である。この度パスポートにはアメリカに2回出入国したことになった。そして3時間強の太平洋Pacific Oceanの上空を太平にpacifically飛行をした。
この旅行で持ち歩きながら参考にしたものは二つ、一つはアメリカ日本史研究の大家であるマークピーティのミクロネシア戦争史に関するNanyo、もう一つは飯田伸五氏の数篇の論文であった。機内で開いたピーティ氏の本で日本のミクロネシアの植民地を南国へのロマンティズムと夢と書いたところに目が止まった。そして著者は日本との戦争を太平洋戦争Pacific Warと述べている。空から見下ろせる太平洋は文字通りに「太平」であるなか小さい島々で「戦争」をして多くの人命をなくした「戦争と平和」というトルストイの名作の名題は矛盾であり、真理のように思った。今度現地で出会った多くの人はダイビングや水泳を楽しみに来ている。その中で私は戦争と植民地の歴史を調べたのである。それも戦争と平和的に思い、多様な生き方を感じた。軍事訓練されたような愛国心だけではない「太平の心」を持ちたいと思った。
 行く時の座席が一番後ろ、入国審査で一番後になって不愉快であったが、帰りの席は前、一番早く入国手続きをして出た。そこで重要なことを考えた。なぜ最後になったことが不愉快にだったのか、ということである。常に優先、優遇されていたことに気付かず、深い感謝を忘れていたことへの大きい反省であった。 写真は久米信行氏が旧日本軍の戦車とトチカを説明する場面。