崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

先生という呼称

2009年06月24日 05時54分44秒 | エッセイ
 私は若い牧師に「先生」といったのに彼は私の職業を知っているのに「さん」と呼んだ。それを聞いて違和感を感じたが、信者平等主義的な呼称だと理解した。私は四〇数年間教員をしていて職場や教会などでは常に「先生」と言われてきて、自分の名前のように慣れ親しんでいて錯覚しているようである。したがってたまに銀行などで「さん」と呼ばれても違和感を感ずる。私にとって「先生」と呼ばれることは長い間の職業にくっついたものである。ドイツやイギリスなどでも自らProfessorをつけている慣習がある。韓国では自ら「崔先生」と言っても良い。韓国では「先生」は敬称ではなく「先生任」が敬称であるからである。世界的には医師などは同僚の間では「〇〇博士」など愛称のように使われる。敬語や挨拶などには社会の仕組みがよく表れる。社会主義国家では万人は平等であるという主義を普及させるために国民の制服化、上下関係を区別せず「同志」などという呼称を使ったりする。北朝鮮は今も金日成や金正日を「同志」と呼ぶ。しかし「偉大な首領、民族的指導者金日成同志」というような長い修飾語が前置になっており、矛盾している。私は今後、肩書きのない「さん」でよばれることに慣れていこうと思う。