崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

朝鮮戦争

2009年06月09日 06時11分39秒 | エッセイ
6月25日は1950年朝鮮戦争が勃発した記念日である。38度線付近で生まれた私はその時、十歳の子供であった。苦戦場といわれた生まれ故郷は大きく被害を受けた。朝飯を食べている時、北から南へ鉄砲の弾が飛ぶ空を裂く暴音がした。遠くからは戦車の騒音と人々の歓声が聞こえた。ソウルの親族の家に行っても、また夜中に砲声が闇の空を裂いた。砲声はどんどん激しくなった。板の間の下で綿は砲弾を防ぐという言葉を信じて、蒲団をかぶっていた。。漢江橋は韓国側により爆破され壊れたので渡れない。各自、渡り船をチャーターして渡った。渡った所で一人の中年男性が、渡り船が転覆して妻と子供を川水に流されたといって濡れたまま慟哭していた。3ヶ月後人民軍敗戦兵として北に向かって歩た。韓国軍の復讐行為が続いた。私は氷の上で橇に乗って遊びながら殺す場面を目撃した。その時の私は人を殺すのをみてもそれほど怖く感じていなかった。年末年始のころにいわば「1.4後退」の深夜、大門をたたきながらヨボセヨと韓国語で呼びかけられた。こわくて答えられなかった。意外なことにそのまま静かになった。朝起きて前の山に中共軍が一杯見えた。噂とは全く違う良い軍隊であった。戦争はまた激しくなった。米軍が十数名亡くなった。中共軍戦死者は70人余りであり、処置が問題であった。村人に埋葬するように指示があって父なども村人とともに死体を一つの穴に数名ずつ埋めた。私が体験した朝鮮戦争はこのようなものであった。後にその戦争によって日本が経済復興したということを聞いた時、私は唖然失色した。