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死者の贈り物(長田弘)

土曜日、。旧暦、6月13日。

本の探し方には、2通りある。ひとつは、タイトルや読みたい本がだいたいわかっている場合。この場合には、検索データベースを調べればいい。もうひとつは、自分が何を読みたいのかわかっていないが、なにか本を読みたい場合。この場合、本とのやりとり(interaction)が必要になる。棚の前で長いこと立ち読みしながら、読みたい本が決まっていく。ぼくの場合、本屋だと、後者の探し方が多く、図書館だと、前者の探し方が多くなる。けれど、断然楽しいのは、本とやりとりしながら選ぶときである。

長田弘の詩集『死者の贈り物』(みすず書房)は、本屋で立ち読みして、後で買うことに決めていたのだが、昨日、図書館で見つけて、先に読むことにした。長田弘の本は数冊読んだが、この詩人は、本質的に散文家だと思う。作品も、私見では、紀行・エッセイなどの散文が最も良く、その次が詩、最後に散文詩、という順になる。散文家であるから、詩も思想や意味を伝えることに主眼が置かれている。たとえば、次の詩は短いが、ある思想を明晰に伝えてくる。


石が話していた。男は黙っていた。
ニレの木が話していた。男は黙っていた。
階段が話しかけた。男は答えなかった。
窓が話しかけた。男は答えなかった。
横たわって、男はじっと目を瞑っていた。
死は言葉を喪うことではない。沈黙という
まったき言葉で話せるようになる、ということだ。
わたしはここにいる。
小さな神が言った。
咲きみだれるハギの花のしたで。

(『小さな神』全)



長田の視線は、平凡なもの、小さきものにそそがれる。


何でもないもの。
朝、窓を開けるときの、一瞬の感情。
熱いコーヒーを啜るとき、
不意に胸の中にひろがってくるもの、
大好きな木の椅子。

なにげないもの。
水光る川。
欅の並木の長い坂。
少女たちのおしゃべり。
路地の真ん中に座っている猫。

ささやかなもの。
ペチュニア。ベゴニア。クレマチス。
土をつくる。水をやる。季節がめぐる。
それだけのことだけれども、
そこにあるのは、うつくしい時間だ。

なくしたくないもの。
草の匂い。樹の影。遠くの友人。
八百屋の店先の、柑橘類のつややかさ。
冬は、いみじく寒き。
夏は、世に知らず暑き。

ひと知れぬもの。
自然とは異なったしかたで
人間は、存在するのではないのだ。
どんなだろうと、人生を受け入れる。
そのひと知れぬ掟が、人生のすべてだ。

(『わたし(たち)にとって大切なもの』部分)


次の詩は、彼について語られているが、それは多くの彼についてであり、長田の生き方の理想像/自画像にもなっている。読み終わると、生きるということは、こういうことかもしれないと考えさせられる。

彼について、語ることは何もない。
自分について、彼は語ることをしなかった。
Have doneと言えることをしたことはないが、
そのことを、彼は後悔はしなかったと思う。
小さなもの、ありふれたものを、彼は愛した。
たとえば、ハナミズキのある小道だ。
毎日歩く道を、彼は愛した。
季節を呼吸する木を、彼は愛した。
夏至と冬至のある一年を、彼は愛した。
愛するということばは、
けれども、一度も使ったことはない。
美しいということばを、口にしたことはある。
静かな雨の日、樹下のクモの巣に
大粒の雨の滴が溜まっているのを見ると
つくづく美しいと思う、と言った。
どこの誰でもない人のように
彼はゆっくりと生きた人だった。
死ぬまえに、彼は小さな箱をくれた。
「大事なものが中に入っている」
彼が死んだ後、その箱を開けた。
箱の中には、何も入っていなかった。
何もないというのが、彼の大事なものだった。

(『箱の中の大事なもの』全)


この詩集の中で、読者に(最後の?)挨拶をしている。この詩は、晩年に至った詩人の、ある意味での「答え」が書かれている。

人生は長いと、ずっと思っていた。
間違っていた、おどろくほど短かった。
きみは、そのことに気づいていたか?

なせばなると、ずっと思っていた。
間違っていた。なしとげたものなんかない。
きみは、そのことに気づいていたか?

わかってくれるはずと、思っていた。
間違っていた。誰も何もわかってくれない。
きみは、そのことに気づいていたか?

ほんとうは、新しい定義が必要だったのだ。
生きること、楽しむこと、そして歳をとることの。
きみは、そのことに気づいていたか?

まっすぐに生きるべきだと、思っていた。
間違っていた。ひとは曲がった木のように生きる。
きみは、そのことに気づいていたか?

サヨナラ、友ヨ、イツカ、向コウデ会オウ。

(『イツカ、向コウデ』全)

■狭い地下の階段を上って来る長田弘とすれ違ったことがある。写真と同じように髭をはやし温厚な眼差しだった。びっくりして、そのときは声も出なかった。「ああ、失礼」といくぶん疲れ気味に言って上っていった。まさか、うちの街に住んでいるはずがない。そう思って、電話帳を調べてみたら、「長田弘」さんは2人いた。

詩に流れているゆったりとしたなつかしい時間。これは、そのまま、詩人長田弘の生きている時間なのだろう。長田弘の詩は、時間からもぎ取られた果実なのだと思う。その時間は、「向コウ」でも同じように流れている。そんな気がしてならない。
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