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世界リスク社会論(2)

土曜日、。この天気の絵は、面白いけれど、天気の微妙な表情まで表せないので、飽きてきた。曇りや雨と言ったって、いろんな曇りや雨があろうに。斯く言うぼくもあまりその表現を知らないのだが、荷風でも読んで調べてみるか。

このところ、喫茶店では『芭蕉俳文集』を読むことに決めている。なるべく機械的な情報処理しないようにじっくり読んでいる。芭蕉の弟子と言えば、其角、去来、嵐雪など蕉門十哲くらいしか知らなかったが、この本を読むと、芭蕉のネットワークが非常に広かったことに驚く。さまざまな弟子がいて、面白い。山伏までいたのには驚いた。芭蕉を勉強する上で、発句、旅、俳諧連歌、俳論以外にも、弟子との関わりという切り口がありそうだと思う。

昭和天皇の不快発言をめぐる報道が面白かった。主要新聞の社説を見てみたが、産経以外は、小泉が靖国参拝を止めるべき論拠にしたがっている。つまり、昭和天皇の発言メモを新聞が一つの権威にしたがっている。発言メモの興味深いところは、己の戦争責任に対する感受性抜きに、松岡と白鳥のA級戦犯合祀に不快感を露にしている点だと思う。各新聞も天皇を戦争部外者にしてしまっている。人が人に敬意を抱くのは、その人の占める生得的な社会的地位に対してではない。その人の行為と思想に対してである。天皇が自らの戦争責任を認めたとき、本来の意味で「人」になれたと思う。昭和天皇は「奇妙な神」のまま逝った。



【Individualisierung(個人化)】

この概念は、ベックの『世界リスク社会論』には、直接出てこなかったように思うが、訳者解説で、ベックの中核概念として、適切に説明されているので、少しまとめておきたい。

「…個人化は、近代化と密接にかかわっている。個人化とは、一般的には近代化によって、身分や地域の拘束から諸個人が解き放たれること、いわゆる近代社会の出現による個人の析出のことであると理解されている。ベックは、個人化を3つの次元に分けて考えている。1)伝統的な拘束からの解放 2)伝統が持っていた確実性の喪失 3) 新しい社会統合 伝統的拘束からの解放については、説明を要しないであろう。伝統が持っていた確実性の喪失とは、行為の拠り所となるような規範が失われることを指している。新しい社会統合の次元とは、個人化によってバラバラになったはずの諸個人が、逆に労働市場や教育制度、社会福祉制度のようなマクロな次元の制度に、まさに一人一人がバラバラになったことによって依存するようになり、組み込まれ、統制されるようになることを指している。パラドキシカルなことに、解体化は逆に統合化を生み出すというわけである。ベックは、近代化が進めば進むほど、この個人化も進展していくと考える…」(ウルリッヒ・ベック著『世界リスク社会論』(平凡社2003年)の訳者解説(島村賢一)を基にした)

【個人化の弁証法の事例】ベックは、「個人化の弁証法」の具体的な事例として、家族やジェンダーをめぐる問題状況を述べている。近代化の初期段階では、生産と家族の分離および核家族の登場によって、「専業主婦」という存在が作り出された。これは拘束からの解放という意味での近代化に逆行する、性別による新たな身分固定化を生み出す。近代がもっと進むと、家族の解体も進み、社会全体としての個人化も進む。近代化後期の社会福祉国家は、その意味で個人化の結果である。諸個人の生活史があたかもすべて自らの選択にゆだねられ、ミクロ化が進展し、社会が完全流動社会になっていくということは、逆にマクロな制度に諸個人が統合化されていくこと、マクロ化を意味し、その結果、ミクロとマクロとの中間に位置する家族・地域・階級といったメゾ的なものが消滅していく。(同上)

【コメント】

面白い考え方だと思うし、実感とも一致する。たとえば、天皇制といった制度も、近代化の進展の裏返しの統合化の機能を果たしているのだろう。最近、とみに、自民党の若手議員などが、靖国参拝や天皇制、伝統、道徳教育などを強調する背景には、近代化の進展による個人化という現象がある。戦後教育や民主主義教育が、現代の個人主義的な傾向を生んだのではなく、社会全体の近代化が新しい段階に入ったということだろう。

個人主義的傾向に対抗して愛国心を説くことは、実は、社会全体の近代化に愛国心で対抗しようとしているということになる。これは、ベックの言うマクロ・レベルへの国民統合を上から行おうとする行為だろう。逆に、「愛国心は強制するものではない」と反対するだけでは、この後期近代化の個人化の流れに有効な回答を提示できないだけではなく、諸個人の中にある統合化への志向を巧く権力側に利用されてしまうことにもなるのではないか。

ぼくは、ベックが否定的なメゾ的領域を下から活性化することが、統合的志向を権力に利用されないために必要だと思う。家族や地域、何らかの社会運動を下から活性化するという方向である。このとき、インターネットというメディアが非常に重要になると思う。時間的・空間的な拘束が少ないからだ。ただ、この道具は、上からの統合化にも同じように利用され得る。

もう一つ、ベックの議論に関連して、指摘したいのは、統合化のあり方に関する議論である。ベックの議論では、マクロな統合化の先はおもに労働市場や教育制度、社会福祉制度や国家だと考えられている。ぼくが思うに、マクロな社会認識枠組みや感覚枠組み、行為基準枠組みのようなものがあるのではないだろうか。たとえば、テレビなどのメディアである。テレビの影響は国家レベルのもので、ある年代を共通の感覚や価値で統合しているように思う。社会認識枠組みが認識レベルに留まらず、行動にも出た例として、先の小泉の郵政改革選挙が上げられるだろう。個人化された諸個人が、テレビなどのメディアのワンフレーズに統合されて投票所に出かけたわけである。



世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 (ちくま学芸文庫)
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筑摩書房







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