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芭蕉の俳句(104)

月曜日、。旧暦、6月22日。外はそうでもないが、室内は蒸し暑かった。終日、仕事。新作詩のための作業リストを作成。作りながら思ったのだが、芭蕉は俳人だけではなく詩人にとってもさまざまな意味でアクチャルではないか。俳句の詩への応用について、いずれ、まとめて書いてみたいと思っている。

金子光晴の梅雨に関するエッセイを読んでいたら、次のフレーズに出会った。

梅雨は男も妊娠しそうな季節だ―金子光晴

なるほど、梅雨は過剰な生命の力の現れという気もする。



蛤のふたみに別れ行く秋ぞ    (奥の細道)

■奥の細道の結びの句。見送りの人々への挨拶が込められている。これだけ取り出して読むと、何のことかわからない。「蛤のふたみ」とは、楸邨他によれば、「蛤の蓋・身」と「蛤で有名な伊勢の二見が浦(これから行く場所)」が掛けてある。蛤の蓋と身となって別れて行く別れがたさを言い、これから向かう二見が浦も詠み込んでいる。「行く秋」は晩秋の季語であり、「別れ行く」と「行く秋」を掛けている。と同時に「奥の細道」の冒頭の旅立ちの句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の「行く春」と呼応している。

こんな複雑な句は英訳できるのだろうか。キーンはどう訳しているのだろうか。


Dividing like clam
And shell, I leave for Futami-
Autumn is passing by.


(日本語訳)
蛤とその貝殻のように分かれて
わたしは二見が浦に旅立つ―
秋は過ぎていく。

■掛詞は分解して説明的に訳している。他に手はないだろう。

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