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The wild blue yonder

木曜日、。旧暦、6月25日。

午前中に仕事を済ませて、午後から、ドイツ映画祭に出かける。今日は、わりと若い人たちの姿もあった。ヴェルナー・ヘルツォーク監督の「ワイルド・ブルー・ヨンダー」というSF。

結論から言って、つまらない。どうしてつまらないのか。それは映画に広がりがないからである。宇宙の映像や太古の地球らしき映像はでてくるが、それが一向に広がりを持たない。俳句のように、微小な空間を描いていても広大な広がりを画面に感じることはある。この映画は、地球とアンドロメダの往還の物語(時間にして850年)なのに、実に窮屈な感じを受ける。手を抜いている感じさえある。低予算で作ったからというより、どこかに、監督の驕りがあるのではないか。

この窮屈さを、もっと掘り下げてみると、社会関係が描けていないことが大きいように思う。語り部は、なんと地球人そっくりのエイリアンである。彼は、故郷の惑星ワイルド・ブルー・ヨンダーから、多くの仲間とともに、惑星が死にかけているために、宇宙に逃げ出し、数百年間何世代にも渡って航行し、どうにか地球に辿り着いたという設定だ。この語りは、観客に向けられたモノローグという形を取る。

一方、地球は、このヨンダー氏らが使用した探査機を調査中に未知ウィルスに感染、人類存亡の危機になる(らしい)。これも全部、モノローグで語られるので、いっこうに切迫感がない(語り部のヨンダー氏の英語はやけにリズミカルで軽やかであるが)。そうこうするうち、人類移住計画が持ち上がり、先発隊を乗せた宇宙船が深宇宙に飛び出す。その向かった先は、なんと、死滅しかけているワイルド・ブルー・ヨンダーである。ここを植民地にするらしい。

ストーリーを書いていて、バカバカしくなってきた。この映画は、半分以上「お笑い系」である。ヘルツォークとしては笑いを取るつもりなのだろうが、ちっとも可笑しくない。宇宙船内の宇宙飛行士たちはまったく会話しないし、移住計画を考えた科学者も、革新的な宇宙旅行技術を開発した科学者も、すべてが、モノローグで語るばかりである。

つまり、この映画の中には、社会空間がない。一方的な社会空間が、映画と観客の間にあるだけである。だから、画面に広がりが出ないのである。窮屈なのである。いくら自然や宇宙を写しても、人間と対話しない自然や宇宙は、単なる非歴史的な物質でしかない。

偶然なのか、理由があるのか、わからないが、この映画の前に上映された短編「火曜日」も会話が一切なかった。登場人物は、引退間直の中高年夫婦。この短編は、会話がなくとも、そのことが返って、夫婦の日常に倦んだ感じ、人生に疲れた感じを出していて、効果があった。寝る前に毎日、別々の部屋で、自殺しようとしては止めるのである。妻は夫のピストルの音に耳をそばだて、自殺しないと分かると、洗面の奥に睡眠剤を戻す妻。二人は眠るときには、互いの方を向いて肩を寄せ合って眠る。言葉はないが、愛がないわけではないことが分かる。二人の外部の社会の何かが二人を自殺未遂に駆り立てるのかもしれない。

ドイツ語で理性を表す「die Vernunft」という言葉の原義は、「聴き取る」ことらしい。つまりVernunftには他者の存在が前提されている。ヘルツォークの映画に決定的に欠けているのは、他者(人間の他者も含む)の言葉を聴き取るVernunftの働きであるように思われる。


Wild Blue Yonder [Import anglais]
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