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Klang der Ewigkeit

火曜日、。旧暦、6月23日。

昨日、遅くまで仕事しすぎて朝起きられず。11時ごろ起床。シャワーを浴びて、午後から、ドイツ映画祭にでかける。今日観たのは、バスチャン・クレーヴ監督の「Klang der Ewigkeit」(永遠の音)

解説によれば、映画のコンセプトは、バッハの「ロ短調ミサ曲」の27のパートを27本の短編映画に翻訳することであるらしい。107分間、ずっとロ短調ミサが流れ、そのパートごとに異なった映像が流れる。絵画の映像あり、自然の映像あり、宇宙の映像あり、誕生の映像あり、死の映像あり、婚礼の映像あり、巡礼の映像あり、戦争の映像あり、ドイツの壁の崩壊の映像あり、万華鏡あり、NHKの名曲アルバムみたいな映像あり...。共通するのは、一切科白がないことである。バッハのロ短調ミサだけが流れる。

この映画を観て、感じたのは、27本の短編はどれもバッハに敵わないということである。圧倒的にロ短調ミサ曲の方がいい。唯一、ロ短調ミサ曲に拮抗できたと感じたのは、宇宙の映像だった。バッハのロ短調ミサは、地球の風景では太刀打ちできない広がりと深さを持っているように感じた。

音楽を映像に変換しようという試みは、ぼくは他に知らない。ロ短調ミサも、きっと何かの映画のバックグラウンドに使われたことがあるだろう。だが、この映画のように、真正面から、映像に変換しようとした試みとは本質的に異なる。バックグランドミュージックは、それがどんなに効果的であっても、映像が主であり、計算された時間だけ、計算された場面に従属的に使われる。クレーヴは、音楽と映像の初期条件を対等にして、両者を真っ向からぶつけてみたのだ。トーキーとももちろん違う。初期条件を同じにするために、映像から言語をいっさい消し去った。言語が入れば、そこに意味のある物語が立ち上がり、たちまち、ロ短調ミサはバックグラウンドミュージックになるからだ。

映像はどこまで抽象化できるか。これが、この映画の隠れたテーマだったように思う。音楽をバックグラウンドにせず、その本質的な抽象性と拮抗するには、どうすべきか。結論から言えば、ここで使われた映像はどれも音楽に拮抗できていない。その結果、映画というよりも映像付きのコンサートになっている。監督の意図から外れるかどうかわからないが、この作品はバッハへの映像的オマージュだと思うのである。

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