西尾治子 のブログ Blog Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

日本G・サンド研究会・仏文学/女性文学/ジェンダー研究
本ブログ記事の無断転載および無断引用をお断りします。
 

Bonnes fetes de fin d'annee !

2010年12月31日 | その他 autres
 本年は当ブログをご訪問くださいまして、誠に有り難うござました。
 三年前の6月に開設した当初は両手の指を数えるほどにすぎなかったヴィジター数は、現在では毎日コンスタントに優に百名を超えるようになり、閲覧数は多いときは一日で1000をオーバーしているようです。現在のトータル訪問者数は56243、トータル閲覧数は135455を記録しております。

 必ずしも数があればよいというものでもありませんが、これはひとえにご多忙の中を厭わず、このブログを覗きに来てくださった方々の賜と感謝とうれしい気持ちでいっぱいです。ご期待にきちんと応えられていない事もあったことと思いますが、どうかご寛恕ください。応援くださいましたこと深く感謝申し上げております。

 皆さま、どうぞ楽しく愉快な大晦日をお過ごし下さいますよう
 そして
 2011年が皆さまにとって健やかな実り多きよい年となりますように!

 
    
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G.サンドの芸術感

2010年12月30日 | 授業・講義・その他
サンドの芸術に対する考え方は、作品を創造する上で、最初から最後まで不変不動のものであったのだろうか。芸術について触れているサンドの作品群を一瞥してみると、作者の芸術観は静的なものではなく、次のように時とともに少しずつ移動し変化していることが理解される。

 1830年代後半、サンドは親しい交友関係にあったフランツ・リストに芸術家の理想像を見ていた。それは、彼が「旅人」や「放浪者」であり「聖なる存在」だったからである。リストにおいては、サンドの表現に従えば、「強健で病的なところが微塵もなく」「生が情熱的で強烈であり、豊穣にすぎてゆく」からであった。『ある旅人への手紙』(1837)には、小舟に乗った仲間たちが美しい調べの曲を歌いながら理想の岸へと向かう叙情的な場面が描かれているが、この作品の「第七の手紙」はリストに宛てて書かれており、そこには「そうなのです。音楽、それは祈りなのです。それは信仰です、そして友愛なのです」とサンドの音楽に対する情熱的な思念が吐露されている。

三年後の1840年に出版された『七弦の琴』では芸術の普遍性が強調されるようになり、音楽は「普遍的な言語」であり「無限の言語」であるとされている。ところが、『七弦の琴』の二年後に出版された『コンシュエロ ルドルシュタット伯爵夫人』になると、先のハイドンとコンシュエロの会話の場面でみてきたように、個人的な幸福より「芸術家の社会的使命」が何よりも優先され、「聖なる音楽」の重要性が語られるようになる。芸術家が権力者に媚びざるを得なくなるような、一部の限定された特権階層のための個人的かつ狭隘な芸術ではなく、多くの一般の人々に幸せと慰めを提供する社会的な有益性を有する芸術を目指さなくてはならない。このようなサンドの芸術思想が形成されたのは、当時、サンドがサン=シモン主義の流れを汲む哲学者ピエール・ルルーやポーリーヌ・ヴィアルドの夫であるルイ・ヴィアルドとともに『独立評論誌』を立ち上げた時期と重なっている。つまり、男装したヒロインのコンシュエロは、作者のこの時期の芸術思想を直接的に反映しており、男装しているがゆえにより自由に芸術に対する作者の高邁自主の精神を代弁し、物語を牽引しているのである。
 他方、音楽における「神聖性」とは、天才的な芸術的存在には不可欠の「インスピレーション」を得て獲得されるものであり、したがって、事前にプログラミングされるものではなく、ショパンが非常に重視した「即興」という作品創造上の音楽技法に通底するものでもある。「芸術家の社会的使命」および「音楽の神聖性」という二つの象徴的価値が、『コンシュエロ ルドルシュタット公爵夫人』においては変装した主人公の行動、あるいは、その彼女・彼が発する言葉に具現化され、芸術の完全性を表象している。『コンシュエロ』で確認された「インスピレーション」の重要性は、1845年の『テヴェリーノ』においては「真の芸術家とは、生に対する感情を有している者であり、理を説くことなく「インスピレーション」に従順である者のことである」とされており、この作品は「インスピレーション」に関する作者の芸術観を着実に継承しているのである。
 ここまで、サンドの一連の音楽小説にみられる「芸術家の使命」および「即興」や「インスピレーション」に関する作者自身の言葉を考察してきたが、こうした考察は1830年代から1840年代におけるサンドの芸術思想の変遷を知るうえで注目すべき重要な視点を喚起していると思われる。
  
 以上は、拙稿「ジョルジュ・サンドの『コンシュエロ ルドルシュタット伯爵夫人』における変装の主題 (1)」(慶應義塾大学日吉紀要・フランス語フランス文学 No51 平成22年10月)の抜粋です。
                   (無断の転載はご容赦ください。)

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マヨルカ島

2010年12月29日 | 海外のG.サンド研究
フランスのサンド学会からお知らせが届きました。

12月10日、パリ9区の市庁舎にてフランスの国際G.サンド学会が「サンドのマヨルカ島の足跡」と題したターブル・ロンドが開催されたそうです。
サンド研究者にはお馴染みのCHOVELON女史の他、マヨルカ大学(マヨルカ島に大学があったのですね!)やバルセロナ大学の先生方の発表があったようです。
追って学会サイトに発表要旨がアップされるとのことですので、楽しみです。


L'Institut Ramon Lull qui a pour mission de promouvoir la langue catalane et l' Association Les Amis de George Sand organisent conjointement, le 10 décembre 2010 une table ronde ayant pour thème L'empreinte de George Sand à Majorque, à 18h00 salle du Conseil, Marie du 9ème Arr., 6 rue Drouot, Paris 9ème.
Animée par le président de l'Association des Amis de George Sand, Bernard HAMON.

Interventions:
Bernadette CHOVELON
Rosa CAPPLONCH-FERRÀ, présidente du Festival Chopin et directrice des musées de la Chartreuse de Valldemossa
Marie-France BOROT (Université de Barcelone)
Sebastà PERELLÒ (Université de Majorque).
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読書のアトリエ

2010年12月28日 | 授業・講義・その他



地道な文学活動を続けておられるシモンヌ・バラザールさんが、2月7日と4月4日にパリのロマン主義美術館にて、サンドの小説『ヴァランチーヌ』『捨て子フランソワ』のアトリエを開催されます。

Simone BALAZARD organise les prochains Ateliers de lecture au Musée de la vie romantique lundi 7 février 2011 à 14 h.30 pour Valentine et
lundi 4 avril 2011 à 14 h.30 pour François le Champi (roman et pièce).

連絡先: sbalazard@free.fr


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『失われたパリを求めて』

2010年12月27日 | 新刊書(国内)
『失われたパリを求めて―マルセル・プルーストが生きた街』

アンリ・ラクシモヴ著
吉川 佳英子訳
岩野 卓司訳
出版社: 春風社 (2010/10)
税込価格: \2,100 (本体 : \2,000)

20世紀の傑作『失われた時を求めて』の醍醐味を、プルーストが生きたパリの街に沿って味わうことのできる画期的な研究書です。

プルーストがサンドの『捨て子フランソワ』を文学の教養のあった母親に毎晩読んでもらうことを楽しみにしていたことについても言及されています。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉川 佳英子
パリ第三大学文学科博士課程修了。博士(文学)。現在、京都造形芸術大学芸術学部准教授。専攻はフランス文学、フェミニズム文学、ジェンダー理論

岩野 卓司
パリ第四大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。現在、明治大学法学部教授。専攻は思想史



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Anna Szabo," George Sand : Entrees d’une oeuvre"

2010年12月26日 | 新刊書(海外)




Anna Szabó," George Sand : Entrées d’une œuvre", Studia Romanica de Debrecen Fasc. XXV. Dirigé par Tivadar Gorilovics, Presses Universitaires de Debrecen, 2010, p425.


上記のAnna Szabó氏のサンド研究書については、以前にこのブログでご紹介しましたが、ANIKÓ ÁDÁM (Université Catholique Pázmány Péter )による、この本についての書評がRevue d’Études Françaises に掲載されました。
以下はその抜粋です。

Le recueil se divise en six grandes parties qui questionnent les romans les plus importants et intéressants : L’univers romanesque. Ouvertures – clôtures – dynamisme ; Fiction et réalité – Thèmes et figures ; Aspects de l’histoire ; La part de l’autobiographie ; Texte et paratexte ; Varia. Le livre se complète par une bibliographie impressionnante des publications d’Anna Szabó sur l’œuvre de George Sand, ainsi que par un Index des noms de personnes aidant les lecteurs à parcourir les pages du livre de manière dynamique.

La lecture de "L’auberge rouge" et des "Sept Cordes de la Lyre" nous initie à la problématique des intertextes, qui occupent une place majeure dans l’histoire de la littérature universelle de George Sand.

Les analyses et les réflexions d’Anna Szabó s’appuient sur un appareil critique abondant, approprié et actualisé permettant de lire son recueil d’études dans un troisième registre purement réflectif aussi.
Les lecteurs du livre, après avoir tourné la dernière page, deviennent – pour emprunter les paroles d’Anna Szabó – « plus forts, mieux instruits, plus lucides et mieux équilibrés », et ils finissent par ressembler aux personnages de George Sand en ressentant un « irrésistible désir » (26) de retourner... aux romans eux-mêmes.

ANIKÓ ÁDÁM
Université Catholique Pázmány Péter



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「平野啓一郎と聴くショパン」感想

2010年12月25日 | 授業・講義・その他
NHKプレミアム8 「平野啓一郎と聴くショパン 魂の旋律」

ショパンの人と音楽を紹介した平野氏のNHKプレミアム8は、視聴者にとって非常に理解しやすい内容だったと思います。『葬送』のように登場人物の心理的側面に肉迫し、丹念にショパンの心の動きを追い、想像力を駆使しつつ、事実から剥離しない物語を紡ぐ平野氏の才能はさすがでした。

しかし、最も驚いたのは、冒頭のナレーションの「ショパンの愛人ジョルジュ・サンド」というサンド紹介の文言でした。しかも、少なくとも二度は使用されていたように思います。「愛人」という表現には、暗黙の裡に「囲われ者」「世の中から非難されるべき者」というニュアンスが仄かに籠められているのであり、ナレーターのサンドに対する前近代的なスタンスが感じられ、次の展開は大丈夫なのかと少々不安な気分になりました。

しかし、平野氏の語りはナレーターのような立場に立脚しているものではなく、サンドとの生活がショパンに経済的にも心理的にも平穏な安定をもたらし、二人の歳月の中からショパンの最高傑作の殆どが誕生したことを明らかにされたので、前述の不安と居心地の悪い違和感は平野氏のトークを拝聴するうちに徐々に払拭されていったように思います。

ショパンの大の親友ドラクロワがサンドのノアンの城館に滞在し、同様にショパンがインスピレーションを得るのに必要とした友人達やポーランドの親戚といった客人達もまたノアンに滞在し、サンドが彼らに極めて細やかな気配りをし面倒をみたことの細部についてまでは言及されていませんでしたが、実際、サンドはノアンで暮らす方がパリの二倍の経済的負担が必要だったと書き残しています。サンドは平野氏が述べられたように、娘ソランジュや息子モーリスが介入して巻き起こった家庭内のいざこざさえ別にすれば、ショパンの才能が開花すべく、物心両面からショパンを支え、彼に献身的に尽くしたことは間違いないといえるでしょう。

平野氏はまた、二人の別れの原因の一つは、サンドが家父長制に反対であって、ショパンが父親風を吹かした点にあったとも解説されていましたが、なぜサンドが家父長制に反対であったかについて、歴史的時代背景との相関性に言及されると、より重層的な番組になったのではないかと、その点を少し残念に思いました。

というのは、19世紀フランスの女性達が18世紀の女性たちよりずっと自由を奪われ、奴隷状態を強いられていたからです。その源はといえば、日本式では「女は男の三歩後ろを歩け」といった文言に象徴される、いわゆる家父長的な考え方を基盤とするナポレオンの民法典によるものでした(参照:民法典第213条「夫はその妻の保護義務を負い、妻はその夫に服従義務を負う」)。事実、既婚者の浮気に関し極端なまでに詳細な罰則を定めたこの法律のために、『レミゼラブル』の著者ヴィクトル・ユゴーは苦痛を味わっています。彼自身はルイ・フィリップ一世の知り合いだったことも幸いし、僅かな罰金を支払うだけで済んだのに対し、彼の浮気相手であった画家ビヤールの妻レオニーは刑務所に一時的に収監され、修道院で数ヶ月の謹慎処分にも服したのでした。その後、夫と別居した(当時は離婚が禁止されていたため)レオニーの生活の面倒をみてやらねばならず、思えばユゴーという偉大なロマン主義作家は最愛の妻アデールを友人の批評家サント・ヴーブに奪われ、その後、ジュリエット・ドゥルーエという情熱的な愛の手紙を交わした魅力的な女性に邂逅したものの、愛娘をセーヌ河の事故で失うといった悲劇にも見舞われ、その私生活には波瀾万丈の辛いものがあったようです。

話が横道にそれてしまいましたが、いずれにせよ、このように極めて不利な状態に置かれた十九世紀のフランス女性たちを弁護し、法ではなく世の慣習が社会をよりよいものにするのだ、古い慣習を変えることが作家の使命であるとする強い信念のもとに、サンドは結婚における女性の奴隷状態を告発する出世作『アンディヤナ』を書いたのでした。この小説は大ベストセラーとなって増刷が続き、ショパンと知り合った頃のサンドは、フランスはおろか、イギリスや欧州にまでその名を知られるフランスの一大女性作家でした。つまり、サンドはショパンの単なる愛人ではなく、家庭では一家の主として父親役もこなす生活力のある著名人だったわけです。また、そのような才能ある女性でなければ、ショパンのような天才を理解し、彼に傑作を次々と創出させることは不可能だったのではないかと思われます。

平野氏は、サンドとショパンの恋愛関係はミステールであるというようなことを述べておられました。が、サンドの出自は、父方はポーランド王家に繋がる家系であり、母方は貧しい階層出身であった、この点でショパンとの共通点があったものと思われます。かつて愛読したフランス語の書によれば、ショパンは母方が小貴族の家系ではあったが、父ニコラの出自は民衆階層(車大工、つまり馬車や荷車の整備をおこなう職人の息子)であった。王家と小貴族という階層のレベルが異なることや父と母が反対ではあるものの、二人とも身分違いの結婚 mesaliance から誕生した子だったというわけです。

もう一つの共通点は、二人の祖国を思う強い気持ちです。
当時のニコラの勤め先はフランス在住のポーランド貴族の城でしたが、その一家がフランス革命を逃れて故国に帰国するのに伴い、自分もポーランドに同行し、その地で結婚しフランス語を教えることを生業としたのでした。が、高校教師だけでは生計がなりたたないため寄宿舎を経営するというのが当時のポーランドの教師の常となっていたのに倣い、ニコラも男の子専用の寄宿舎の経営に乗り出しました。ニコラの先見の明があったのは、寄宿舎にはロスチャイルド家といった超富裕層の子息しか受け入れなかったことでした。彼らと一緒に遊び大きくなったショパンは、貴族以上に貴族らしい立ち居振る舞いをする貴公子となって成長したのでした。サンドは、そんなショパンに彼女が四歳の時に落馬事故で失った、ヴァイオリンを弾く音楽好きの父の面影や、父の死の二週間前に生後三ヶ月足らずで亡くなった病弱な弟の姿を垣間見ていたのかもしれません。

また、夫とともに18世紀フランスの啓蒙思想家ルソーやヴォルテールとも親交があったサンドの祖母は音楽にも造詣が深く(ジャン・ジャック・ルソーは「結んで開いて」の作曲者であり、若い頃は音楽家になる夢をもっていました)、サンドは幼い頃からプロ並みの音楽の才能を持っていた祖母からピアノを習っており、サンド自身、相当なレベルの音楽の知識をもっていたといわれています。ショパンを深く理解し、その才能を縦横無尽に伸ばす手助けをすることができたのは、高度な音楽に触れたことのあるサンドの存在のお陰だったと言っても決して過言ではないでしょう。

他方、ショパンの祖国ポーランドを思う熱い気持ちがその音楽に化身されていることは明らかだと思われます。父ニコラが青年ショパンをフランスに旅立たせた理由は、これも愛読書に書かれていたことですが、ショパンが政治に興味を抱き始めたからだったようです。当時ロシア、オーストリア、ドイツなどの強力な権力をもつ周辺諸国から迫害を受けていた小国ポーランドは独立を目指していましたが、ショパンの周囲では若者たちがコーヒーショップ・シンデレラに集結し反列強運動を推し進めていました。国を思う若者なら当然のことと思われますが、ショパンも次第にこうした仲間たちと交流をもつようになっていきます。このことを懸念したニコラは、芸術家は政治に関わってはならないとショパンをパリに向かわせたのでした。しかし、ショパン自身の気持ちはどうだったのでしょう。純粋な魂の持ち主だっただけに、国の独立のために戦う友人達と別れ、敵国の男たちの犠牲となるかもしれない優しい姉妹たちを守ってやることも出来ず、一人、異国の地を踏まなければならなかったショパンの気持ちには並々ならぬものがあったと推測されます。強大な権力に立ち向かうか弱い祖国や革命の中で危険迫りくる家族を思う気持ちや、このときのショパンの焦燥感は、彼が書いた有名な「シュツットガルトの手紙」に迸り出ています。

一方、サンドが1848年にフランスで起きた二月革命に奔走したことは、よく知られています。『愛の妖精』や『魔の沼』を代表とする有名な田園小説は、サンドも書き残しているように、二月革命が失敗に終わり、挫折し希望を失った人々のために書いたものでした。作家自らの絶望感を和らげるためという個人的な理由ではないところに、サンドらしい一面が認められます。

いずれにせよ、少なくとも、出自や自国を思う気持ちに関しては、二人の間に似通ったものがあったのではないかと思われます。このような共通項をもつ二人だったのですから、ショパンとサンドの恋愛は、二人にとってはミステリアスなものではなかったのではないでしょうか。ショパンは自らの傑作を誕生させるには生活の安定と音楽上のインスピレーションを与えてくれる身近な存在が必要だったのであり、ショパンの人生の伴侶はサンドでなければならない歴史的必然性があったという結論が導き出されても不思議はないと思われるのです。

素晴らしかった番組に誘われ、他にも次々といろんな想念にとらわれましたが、今日はこの辺にしておくことにしましょう。


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クリスマス・イヴ

2010年12月24日 | 授業・講義・その他
12月に入ったと思っていたら、あっという間に今年も余すところ一週間を欠くこととなってしまいました。

クリスマス・イヴをいかがお過ごしでしょうか?

イブの夜、日本では、地方により通話殺到ドコモ一時つながりにくくなったとか。待ち合わせの電話連絡をするために、通話が殺到したせいだったようです。

http://www.asahi.com/digital/mobile/SEB201012240057.html

24日夕、大分県内全域でNTTドコモの携帯電話での通話がつながりにくくなった。同社九州支社によると、午後5時19分以降に受信装置の容量を上回る発信数があったため、地域ごとに順次通信規制をかけ、規制をすべて解除したのは同7時13分だった。例年、クリスマスイブの12月24日の夕方は通話が多くなる傾向はあり、仕事を終えて待ち合わせの電話をする人が多かったと推測される。ただ、この日に規制をかけたことはこれまでなかったという。


「東京国際フォーラム」では、フランス最古のクリスマス・マーケットを開いた町、ストラスブールのマーケット・フェアが開催されており(昨年は58万人の集客数を誇ったとのこと)、フランスやアルザス・ストラスブール地方の美味なものも買い求めることができるようです。

http://www.t-i-forum.co.jp/noel/



また、横浜のみなとみらいでもクリスマス・マーケットが人気のようです。

http://kerorijournal.blog.so-net.ne.jp/2010-12-15


皆さま、楽しいイヴとクリスマスをお過ごし下さいますよう。







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BeaudelaireとSand

2010年12月23日 | 十九世紀の文学
ボードレールがサンドに罵詈雑言に近い言葉を浴びせ、彼女を侮辱したことは
よく知られていますが、気に入らない相手を中傷する現象はヴォルテール以来のことでドゴールを最後に沈静化していったとのこと。19世紀は特に多かったようです。現代では、人々はこのような場合には黙り込み沈黙するとのこと。人々が心優しくなってきているのか、あるいは人間が進歩したのか?という記事です。


Ecrasantes injures

Article publié le 17 Septembre 2010
Par Robert Solé

AUJOURD'HUI, la critique littéraire est faite d'exercices d'admiration : on parle plutôt des livres que l'on a aimés. Rares sont les éreintements en règle, comme la France en a connu à d'autres époques. Au XIXe siècle, des écrivains se faisaient souvent brocarder par des confrères, qui n'y allaient pas de main morte. Si Baudelaire qualifiait George Sand de « latrine », il n'était lui-même qu'une « mouche à merde » aux yeux des frères Goncourt... L'an dernier, deux jeunes normaliens, Anne Boquel et Etienne Kern, nous proposaient "Une histoire des haines d'écrivains" (Flammarion) qui ne manquait pas de sel.

Dans la même veine, Pierre Chalmin publie le 23 septembre "Ta gueule, Bukowski !" " Dictionnaire des injures littéraires" (L'Editeur, 736 p., 29 €). Pour ceux qui l'auraient oublié, l'écrivain américain Charles Bukowski avait fait scandale, le 22 septembre 1978, sur le plateau d'"Apostrophes", après avoir vidé au goulot une ou deux bouteilles de sancerre. Il s'était attiré cette exclamation de Cavanna, autre invité de l'émission. C'était moins une injure que l'expression d'un agacement. Mais ça fait un bon titre pour un "dictionnaire" qui n'en est pas vraiment un. Sauf à considérer que le genre s'applique à toute compilation de citations classées par ordre alphabétique.

  (......)

En France, "les plus écrasantes injures datent de Voltaire et finissent sous de Gaulle", constate Pierre Chalmin. Est-ce à dire que les moeurs sont devenues plus douces et les gens plus tolérants ? "On insulte aujourd'hui en se taisant, conspirant les silences", estime l'auteur du dictionnaire. En tout cas, si les polémiques littéraires sont moins virulentes qu'autrefois, Internet peut leur donner un immense écho. L'heure n'est plus aux duels sanglants, mais au grand bourdonnement de la Toile. Un progrés ?

Robert Solé

http://www.lemonde.fr/livres/article/2010/09/16/ecrasantes-injures_1411844_3260.html

画像は作者自筆の書き込み付き『悪の華』とのことです。



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La chatre

2010年12月22日 | 授業・講義・その他
Auberge "A la découverte de George Sand" de La Châtre

http://www.monnuage.fr/point-d-interet/auberge-a-la-decouverte-de-george-sand-de-la-chatre-a97890
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