NHKプレミアム8 「平野啓一郎と聴くショパン 魂の旋律」
ショパンの人と音楽を紹介した平野氏のNHKプレミアム8は、視聴者にとって非常に理解しやすい内容だったと思います。『葬送』のように登場人物の心理的側面に肉迫し、丹念にショパンの心の動きを追い、想像力を駆使しつつ、事実から剥離しない物語を紡ぐ平野氏の才能はさすがでした。
しかし、最も驚いたのは、冒頭のナレーションの「ショパンの愛人ジョルジュ・サンド」というサンド紹介の文言でした。しかも、少なくとも二度は使用されていたように思います。「愛人」という表現には、暗黙の裡に「囲われ者」「世の中から非難されるべき者」というニュアンスが仄かに籠められているのであり、ナレーターのサンドに対する前近代的なスタンスが感じられ、次の展開は大丈夫なのかと少々不安な気分になりました。
しかし、平野氏の語りはナレーターのような立場に立脚しているものではなく、サンドとの生活がショパンに経済的にも心理的にも平穏な安定をもたらし、二人の歳月の中からショパンの最高傑作の殆どが誕生したことを明らかにされたので、前述の不安と居心地の悪い違和感は平野氏のトークを拝聴するうちに徐々に払拭されていったように思います。
ショパンの大の親友ドラクロワがサンドのノアンの城館に滞在し、同様にショパンがインスピレーションを得るのに必要とした友人達やポーランドの親戚といった客人達もまたノアンに滞在し、サンドが彼らに極めて細やかな気配りをし面倒をみたことの細部についてまでは言及されていませんでしたが、実際、サンドはノアンで暮らす方がパリの二倍の経済的負担が必要だったと書き残しています。サンドは平野氏が述べられたように、娘ソランジュや息子モーリスが介入して巻き起こった家庭内のいざこざさえ別にすれば、ショパンの才能が開花すべく、物心両面からショパンを支え、彼に献身的に尽くしたことは間違いないといえるでしょう。
平野氏はまた、二人の別れの原因の一つは、サンドが家父長制に反対であって、ショパンが父親風を吹かした点にあったとも解説されていましたが、なぜサンドが家父長制に反対であったかについて、歴史的時代背景との相関性に言及されると、より重層的な番組になったのではないかと、その点を少し残念に思いました。
というのは、19世紀フランスの女性達が18世紀の女性たちよりずっと自由を奪われ、奴隷状態を強いられていたからです。その源はといえば、日本式では「女は男の三歩後ろを歩け」といった文言に象徴される、いわゆる家父長的な考え方を基盤とするナポレオンの民法典によるものでした(参照:民法典第213条「夫はその妻の保護義務を負い、妻はその夫に服従義務を負う」)。事実、既婚者の浮気に関し極端なまでに詳細な罰則を定めたこの法律のために、『レミゼラブル』の著者ヴィクトル・ユゴーは苦痛を味わっています。彼自身はルイ・フィリップ一世の知り合いだったことも幸いし、僅かな罰金を支払うだけで済んだのに対し、彼の浮気相手であった画家ビヤールの妻レオニーは刑務所に一時的に収監され、修道院で数ヶ月の謹慎処分にも服したのでした。その後、夫と別居した(当時は離婚が禁止されていたため)レオニーの生活の面倒をみてやらねばならず、思えばユゴーという偉大なロマン主義作家は最愛の妻アデールを友人の批評家サント・ヴーブに奪われ、その後、ジュリエット・ドゥルーエという情熱的な愛の手紙を交わした魅力的な女性に邂逅したものの、愛娘をセーヌ河の事故で失うといった悲劇にも見舞われ、その私生活には波瀾万丈の辛いものがあったようです。
話が横道にそれてしまいましたが、いずれにせよ、このように極めて不利な状態に置かれた十九世紀のフランス女性たちを弁護し、法ではなく世の慣習が社会をよりよいものにするのだ、古い慣習を変えることが作家の使命であるとする強い信念のもとに、サンドは結婚における女性の奴隷状態を告発する出世作『アンディヤナ』を書いたのでした。この小説は大ベストセラーとなって増刷が続き、ショパンと知り合った頃のサンドは、フランスはおろか、イギリスや欧州にまでその名を知られるフランスの一大女性作家でした。つまり、サンドはショパンの単なる愛人ではなく、家庭では一家の主として父親役もこなす生活力のある著名人だったわけです。また、そのような才能ある女性でなければ、ショパンのような天才を理解し、彼に傑作を次々と創出させることは不可能だったのではないかと思われます。
平野氏は、サンドとショパンの恋愛関係はミステールであるというようなことを述べておられました。が、サンドの出自は、父方はポーランド王家に繋がる家系であり、母方は貧しい階層出身であった、この点でショパンとの共通点があったものと思われます。かつて愛読したフランス語の書によれば、ショパンは母方が小貴族の家系ではあったが、父ニコラの出自は民衆階層(車大工、つまり馬車や荷車の整備をおこなう職人の息子)であった。王家と小貴族という階層のレベルが異なることや父と母が反対ではあるものの、二人とも身分違いの結婚 mesaliance から誕生した子だったというわけです。
もう一つの共通点は、二人の祖国を思う強い気持ちです。
当時のニコラの勤め先はフランス在住のポーランド貴族の城でしたが、その一家がフランス革命を逃れて故国に帰国するのに伴い、自分もポーランドに同行し、その地で結婚しフランス語を教えることを生業としたのでした。が、高校教師だけでは生計がなりたたないため寄宿舎を経営するというのが当時のポーランドの教師の常となっていたのに倣い、ニコラも男の子専用の寄宿舎の経営に乗り出しました。ニコラの先見の明があったのは、寄宿舎にはロスチャイルド家といった超富裕層の子息しか受け入れなかったことでした。彼らと一緒に遊び大きくなったショパンは、貴族以上に貴族らしい立ち居振る舞いをする貴公子となって成長したのでした。サンドは、そんなショパンに彼女が四歳の時に落馬事故で失った、ヴァイオリンを弾く音楽好きの父の面影や、父の死の二週間前に生後三ヶ月足らずで亡くなった病弱な弟の姿を垣間見ていたのかもしれません。
また、夫とともに18世紀フランスの啓蒙思想家ルソーやヴォルテールとも親交があったサンドの祖母は音楽にも造詣が深く(ジャン・ジャック・ルソーは「結んで開いて」の作曲者であり、若い頃は音楽家になる夢をもっていました)、サンドは幼い頃からプロ並みの音楽の才能を持っていた祖母からピアノを習っており、サンド自身、相当なレベルの音楽の知識をもっていたといわれています。ショパンを深く理解し、その才能を縦横無尽に伸ばす手助けをすることができたのは、高度な音楽に触れたことのあるサンドの存在のお陰だったと言っても決して過言ではないでしょう。
他方、ショパンの祖国ポーランドを思う熱い気持ちがその音楽に化身されていることは明らかだと思われます。父ニコラが青年ショパンをフランスに旅立たせた理由は、これも愛読書に書かれていたことですが、ショパンが政治に興味を抱き始めたからだったようです。当時ロシア、オーストリア、ドイツなどの強力な権力をもつ周辺諸国から迫害を受けていた小国ポーランドは独立を目指していましたが、ショパンの周囲では若者たちがコーヒーショップ・シンデレラに集結し反列強運動を推し進めていました。国を思う若者なら当然のことと思われますが、ショパンも次第にこうした仲間たちと交流をもつようになっていきます。このことを懸念したニコラは、芸術家は政治に関わってはならないとショパンをパリに向かわせたのでした。しかし、ショパン自身の気持ちはどうだったのでしょう。純粋な魂の持ち主だっただけに、国の独立のために戦う友人達と別れ、敵国の男たちの犠牲となるかもしれない優しい姉妹たちを守ってやることも出来ず、一人、異国の地を踏まなければならなかったショパンの気持ちには並々ならぬものがあったと推測されます。強大な権力に立ち向かうか弱い祖国や革命の中で危険迫りくる家族を思う気持ちや、このときのショパンの焦燥感は、彼が書いた有名な「シュツットガルトの手紙」に迸り出ています。
一方、サンドが1848年にフランスで起きた二月革命に奔走したことは、よく知られています。『愛の妖精』や『魔の沼』を代表とする有名な田園小説は、サンドも書き残しているように、二月革命が失敗に終わり、挫折し希望を失った人々のために書いたものでした。作家自らの絶望感を和らげるためという個人的な理由ではないところに、サンドらしい一面が認められます。
いずれにせよ、少なくとも、出自や自国を思う気持ちに関しては、二人の間に似通ったものがあったのではないかと思われます。このような共通項をもつ二人だったのですから、ショパンとサンドの恋愛は、二人にとってはミステリアスなものではなかったのではないでしょうか。ショパンは自らの傑作を誕生させるには生活の安定と音楽上のインスピレーションを与えてくれる身近な存在が必要だったのであり、ショパンの人生の伴侶はサンドでなければならない歴史的必然性があったという結論が導き出されても不思議はないと思われるのです。
素晴らしかった番組に誘われ、他にも次々といろんな想念にとらわれましたが、今日はこの辺にしておくことにしましょう。
ショパンの人と音楽を紹介した平野氏のNHKプレミアム8は、視聴者にとって非常に理解しやすい内容だったと思います。『葬送』のように登場人物の心理的側面に肉迫し、丹念にショパンの心の動きを追い、想像力を駆使しつつ、事実から剥離しない物語を紡ぐ平野氏の才能はさすがでした。
しかし、最も驚いたのは、冒頭のナレーションの「ショパンの愛人ジョルジュ・サンド」というサンド紹介の文言でした。しかも、少なくとも二度は使用されていたように思います。「愛人」という表現には、暗黙の裡に「囲われ者」「世の中から非難されるべき者」というニュアンスが仄かに籠められているのであり、ナレーターのサンドに対する前近代的なスタンスが感じられ、次の展開は大丈夫なのかと少々不安な気分になりました。
しかし、平野氏の語りはナレーターのような立場に立脚しているものではなく、サンドとの生活がショパンに経済的にも心理的にも平穏な安定をもたらし、二人の歳月の中からショパンの最高傑作の殆どが誕生したことを明らかにされたので、前述の不安と居心地の悪い違和感は平野氏のトークを拝聴するうちに徐々に払拭されていったように思います。
ショパンの大の親友ドラクロワがサンドのノアンの城館に滞在し、同様にショパンがインスピレーションを得るのに必要とした友人達やポーランドの親戚といった客人達もまたノアンに滞在し、サンドが彼らに極めて細やかな気配りをし面倒をみたことの細部についてまでは言及されていませんでしたが、実際、サンドはノアンで暮らす方がパリの二倍の経済的負担が必要だったと書き残しています。サンドは平野氏が述べられたように、娘ソランジュや息子モーリスが介入して巻き起こった家庭内のいざこざさえ別にすれば、ショパンの才能が開花すべく、物心両面からショパンを支え、彼に献身的に尽くしたことは間違いないといえるでしょう。
平野氏はまた、二人の別れの原因の一つは、サンドが家父長制に反対であって、ショパンが父親風を吹かした点にあったとも解説されていましたが、なぜサンドが家父長制に反対であったかについて、歴史的時代背景との相関性に言及されると、より重層的な番組になったのではないかと、その点を少し残念に思いました。
というのは、19世紀フランスの女性達が18世紀の女性たちよりずっと自由を奪われ、奴隷状態を強いられていたからです。その源はといえば、日本式では「女は男の三歩後ろを歩け」といった文言に象徴される、いわゆる家父長的な考え方を基盤とするナポレオンの民法典によるものでした(参照:民法典第213条「夫はその妻の保護義務を負い、妻はその夫に服従義務を負う」)。事実、既婚者の浮気に関し極端なまでに詳細な罰則を定めたこの法律のために、『レミゼラブル』の著者ヴィクトル・ユゴーは苦痛を味わっています。彼自身はルイ・フィリップ一世の知り合いだったことも幸いし、僅かな罰金を支払うだけで済んだのに対し、彼の浮気相手であった画家ビヤールの妻レオニーは刑務所に一時的に収監され、修道院で数ヶ月の謹慎処分にも服したのでした。その後、夫と別居した(当時は離婚が禁止されていたため)レオニーの生活の面倒をみてやらねばならず、思えばユゴーという偉大なロマン主義作家は最愛の妻アデールを友人の批評家サント・ヴーブに奪われ、その後、ジュリエット・ドゥルーエという情熱的な愛の手紙を交わした魅力的な女性に邂逅したものの、愛娘をセーヌ河の事故で失うといった悲劇にも見舞われ、その私生活には波瀾万丈の辛いものがあったようです。
話が横道にそれてしまいましたが、いずれにせよ、このように極めて不利な状態に置かれた十九世紀のフランス女性たちを弁護し、法ではなく世の慣習が社会をよりよいものにするのだ、古い慣習を変えることが作家の使命であるとする強い信念のもとに、サンドは結婚における女性の奴隷状態を告発する出世作『アンディヤナ』を書いたのでした。この小説は大ベストセラーとなって増刷が続き、ショパンと知り合った頃のサンドは、フランスはおろか、イギリスや欧州にまでその名を知られるフランスの一大女性作家でした。つまり、サンドはショパンの単なる愛人ではなく、家庭では一家の主として父親役もこなす生活力のある著名人だったわけです。また、そのような才能ある女性でなければ、ショパンのような天才を理解し、彼に傑作を次々と創出させることは不可能だったのではないかと思われます。
平野氏は、サンドとショパンの恋愛関係はミステールであるというようなことを述べておられました。が、サンドの出自は、父方はポーランド王家に繋がる家系であり、母方は貧しい階層出身であった、この点でショパンとの共通点があったものと思われます。かつて愛読したフランス語の書によれば、ショパンは母方が小貴族の家系ではあったが、父ニコラの出自は民衆階層(車大工、つまり馬車や荷車の整備をおこなう職人の息子)であった。王家と小貴族という階層のレベルが異なることや父と母が反対ではあるものの、二人とも身分違いの結婚 mesaliance から誕生した子だったというわけです。
もう一つの共通点は、二人の祖国を思う強い気持ちです。
当時のニコラの勤め先はフランス在住のポーランド貴族の城でしたが、その一家がフランス革命を逃れて故国に帰国するのに伴い、自分もポーランドに同行し、その地で結婚しフランス語を教えることを生業としたのでした。が、高校教師だけでは生計がなりたたないため寄宿舎を経営するというのが当時のポーランドの教師の常となっていたのに倣い、ニコラも男の子専用の寄宿舎の経営に乗り出しました。ニコラの先見の明があったのは、寄宿舎にはロスチャイルド家といった超富裕層の子息しか受け入れなかったことでした。彼らと一緒に遊び大きくなったショパンは、貴族以上に貴族らしい立ち居振る舞いをする貴公子となって成長したのでした。サンドは、そんなショパンに彼女が四歳の時に落馬事故で失った、ヴァイオリンを弾く音楽好きの父の面影や、父の死の二週間前に生後三ヶ月足らずで亡くなった病弱な弟の姿を垣間見ていたのかもしれません。
また、夫とともに18世紀フランスの啓蒙思想家ルソーやヴォルテールとも親交があったサンドの祖母は音楽にも造詣が深く(ジャン・ジャック・ルソーは「結んで開いて」の作曲者であり、若い頃は音楽家になる夢をもっていました)、サンドは幼い頃からプロ並みの音楽の才能を持っていた祖母からピアノを習っており、サンド自身、相当なレベルの音楽の知識をもっていたといわれています。ショパンを深く理解し、その才能を縦横無尽に伸ばす手助けをすることができたのは、高度な音楽に触れたことのあるサンドの存在のお陰だったと言っても決して過言ではないでしょう。
他方、ショパンの祖国ポーランドを思う熱い気持ちがその音楽に化身されていることは明らかだと思われます。父ニコラが青年ショパンをフランスに旅立たせた理由は、これも愛読書に書かれていたことですが、ショパンが政治に興味を抱き始めたからだったようです。当時ロシア、オーストリア、ドイツなどの強力な権力をもつ周辺諸国から迫害を受けていた小国ポーランドは独立を目指していましたが、ショパンの周囲では若者たちがコーヒーショップ・シンデレラに集結し反列強運動を推し進めていました。国を思う若者なら当然のことと思われますが、ショパンも次第にこうした仲間たちと交流をもつようになっていきます。このことを懸念したニコラは、芸術家は政治に関わってはならないとショパンをパリに向かわせたのでした。しかし、ショパン自身の気持ちはどうだったのでしょう。純粋な魂の持ち主だっただけに、国の独立のために戦う友人達と別れ、敵国の男たちの犠牲となるかもしれない優しい姉妹たちを守ってやることも出来ず、一人、異国の地を踏まなければならなかったショパンの気持ちには並々ならぬものがあったと推測されます。強大な権力に立ち向かうか弱い祖国や革命の中で危険迫りくる家族を思う気持ちや、このときのショパンの焦燥感は、彼が書いた有名な「シュツットガルトの手紙」に迸り出ています。
一方、サンドが1848年にフランスで起きた二月革命に奔走したことは、よく知られています。『愛の妖精』や『魔の沼』を代表とする有名な田園小説は、サンドも書き残しているように、二月革命が失敗に終わり、挫折し希望を失った人々のために書いたものでした。作家自らの絶望感を和らげるためという個人的な理由ではないところに、サンドらしい一面が認められます。
いずれにせよ、少なくとも、出自や自国を思う気持ちに関しては、二人の間に似通ったものがあったのではないかと思われます。このような共通項をもつ二人だったのですから、ショパンとサンドの恋愛は、二人にとってはミステリアスなものではなかったのではないでしょうか。ショパンは自らの傑作を誕生させるには生活の安定と音楽上のインスピレーションを与えてくれる身近な存在が必要だったのであり、ショパンの人生の伴侶はサンドでなければならない歴史的必然性があったという結論が導き出されても不思議はないと思われるのです。
素晴らしかった番組に誘われ、他にも次々といろんな想念にとらわれましたが、今日はこの辺にしておくことにしましょう。