サンドの芸術に対する考え方は、作品を創造する上で、最初から最後まで不変不動のものであったのだろうか。芸術について触れているサンドの作品群を一瞥してみると、作者の芸術観は静的なものではなく、次のように時とともに少しずつ移動し変化していることが理解される。
1830年代後半、サンドは親しい交友関係にあったフランツ・リストに芸術家の理想像を見ていた。それは、彼が「旅人」や「放浪者」であり「聖なる存在」だったからである。リストにおいては、サンドの表現に従えば、「強健で病的なところが微塵もなく」「生が情熱的で強烈であり、豊穣にすぎてゆく」からであった。『ある旅人への手紙』(1837)には、小舟に乗った仲間たちが美しい調べの曲を歌いながら理想の岸へと向かう叙情的な場面が描かれているが、この作品の「第七の手紙」はリストに宛てて書かれており、そこには「そうなのです。音楽、それは祈りなのです。それは信仰です、そして友愛なのです」とサンドの音楽に対する情熱的な思念が吐露されている。
三年後の1840年に出版された『七弦の琴』では芸術の普遍性が強調されるようになり、音楽は「普遍的な言語」であり「無限の言語」であるとされている。ところが、『七弦の琴』の二年後に出版された『コンシュエロ ルドルシュタット伯爵夫人』になると、先のハイドンとコンシュエロの会話の場面でみてきたように、個人的な幸福より「芸術家の社会的使命」が何よりも優先され、「聖なる音楽」の重要性が語られるようになる。芸術家が権力者に媚びざるを得なくなるような、一部の限定された特権階層のための個人的かつ狭隘な芸術ではなく、多くの一般の人々に幸せと慰めを提供する社会的な有益性を有する芸術を目指さなくてはならない。このようなサンドの芸術思想が形成されたのは、当時、サンドがサン=シモン主義の流れを汲む哲学者ピエール・ルルーやポーリーヌ・ヴィアルドの夫であるルイ・ヴィアルドとともに『独立評論誌』を立ち上げた時期と重なっている。つまり、男装したヒロインのコンシュエロは、作者のこの時期の芸術思想を直接的に反映しており、男装しているがゆえにより自由に芸術に対する作者の高邁自主の精神を代弁し、物語を牽引しているのである。
他方、音楽における「神聖性」とは、天才的な芸術的存在には不可欠の「インスピレーション」を得て獲得されるものであり、したがって、事前にプログラミングされるものではなく、ショパンが非常に重視した「即興」という作品創造上の音楽技法に通底するものでもある。「芸術家の社会的使命」および「音楽の神聖性」という二つの象徴的価値が、『コンシュエロ ルドルシュタット公爵夫人』においては変装した主人公の行動、あるいは、その彼女・彼が発する言葉に具現化され、芸術の完全性を表象している。『コンシュエロ』で確認された「インスピレーション」の重要性は、1845年の『テヴェリーノ』においては「真の芸術家とは、生に対する感情を有している者であり、理を説くことなく「インスピレーション」に従順である者のことである」とされており、この作品は「インスピレーション」に関する作者の芸術観を着実に継承しているのである。
ここまで、サンドの一連の音楽小説にみられる「芸術家の使命」および「即興」や「インスピレーション」に関する作者自身の言葉を考察してきたが、こうした考察は1830年代から1840年代におけるサンドの芸術思想の変遷を知るうえで注目すべき重要な視点を喚起していると思われる。
以上は、拙稿「ジョルジュ・サンドの『コンシュエロ ルドルシュタット伯爵夫人』における変装の主題 (1)」(慶應義塾大学日吉紀要・フランス語フランス文学 No51 平成22年10月)の抜粋です。
(無断の転載はご容赦ください。)
1830年代後半、サンドは親しい交友関係にあったフランツ・リストに芸術家の理想像を見ていた。それは、彼が「旅人」や「放浪者」であり「聖なる存在」だったからである。リストにおいては、サンドの表現に従えば、「強健で病的なところが微塵もなく」「生が情熱的で強烈であり、豊穣にすぎてゆく」からであった。『ある旅人への手紙』(1837)には、小舟に乗った仲間たちが美しい調べの曲を歌いながら理想の岸へと向かう叙情的な場面が描かれているが、この作品の「第七の手紙」はリストに宛てて書かれており、そこには「そうなのです。音楽、それは祈りなのです。それは信仰です、そして友愛なのです」とサンドの音楽に対する情熱的な思念が吐露されている。
三年後の1840年に出版された『七弦の琴』では芸術の普遍性が強調されるようになり、音楽は「普遍的な言語」であり「無限の言語」であるとされている。ところが、『七弦の琴』の二年後に出版された『コンシュエロ ルドルシュタット伯爵夫人』になると、先のハイドンとコンシュエロの会話の場面でみてきたように、個人的な幸福より「芸術家の社会的使命」が何よりも優先され、「聖なる音楽」の重要性が語られるようになる。芸術家が権力者に媚びざるを得なくなるような、一部の限定された特権階層のための個人的かつ狭隘な芸術ではなく、多くの一般の人々に幸せと慰めを提供する社会的な有益性を有する芸術を目指さなくてはならない。このようなサンドの芸術思想が形成されたのは、当時、サンドがサン=シモン主義の流れを汲む哲学者ピエール・ルルーやポーリーヌ・ヴィアルドの夫であるルイ・ヴィアルドとともに『独立評論誌』を立ち上げた時期と重なっている。つまり、男装したヒロインのコンシュエロは、作者のこの時期の芸術思想を直接的に反映しており、男装しているがゆえにより自由に芸術に対する作者の高邁自主の精神を代弁し、物語を牽引しているのである。
他方、音楽における「神聖性」とは、天才的な芸術的存在には不可欠の「インスピレーション」を得て獲得されるものであり、したがって、事前にプログラミングされるものではなく、ショパンが非常に重視した「即興」という作品創造上の音楽技法に通底するものでもある。「芸術家の社会的使命」および「音楽の神聖性」という二つの象徴的価値が、『コンシュエロ ルドルシュタット公爵夫人』においては変装した主人公の行動、あるいは、その彼女・彼が発する言葉に具現化され、芸術の完全性を表象している。『コンシュエロ』で確認された「インスピレーション」の重要性は、1845年の『テヴェリーノ』においては「真の芸術家とは、生に対する感情を有している者であり、理を説くことなく「インスピレーション」に従順である者のことである」とされており、この作品は「インスピレーション」に関する作者の芸術観を着実に継承しているのである。
ここまで、サンドの一連の音楽小説にみられる「芸術家の使命」および「即興」や「インスピレーション」に関する作者自身の言葉を考察してきたが、こうした考察は1830年代から1840年代におけるサンドの芸術思想の変遷を知るうえで注目すべき重要な視点を喚起していると思われる。
以上は、拙稿「ジョルジュ・サンドの『コンシュエロ ルドルシュタット伯爵夫人』における変装の主題 (1)」(慶應義塾大学日吉紀要・フランス語フランス文学 No51 平成22年10月)の抜粋です。
(無断の転載はご容赦ください。)