西尾治子 のブログ Blog Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

日本G・サンド研究会・仏文学/女性文学/ジェンダー研究
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「母なる声」と「両性具有のヴォーカル」

2015年05月20日 | 手帳・覚え書き
フェリシア・ミラー=フランクは、「声は精神の根本的な基盤をなす」と強調し、
「主体の構成過程における母的声の重要性」を主張する。

 リュス・イリガライは、「父権的な文化は聴覚よりも視覚に対しより多くの労力を注いでいる」
と述べ、エレーヌ・シクスー等とともに女性的なるものの表象の本質がもつ意義を再確認すべく、
「女性のエクリチュール」を提唱した。というのは、「西洋形而上学は、女性的なるものと母なる
ものの連関を前提としつつ、しかも両者を否定している」からであり、「母なるものは、女性と相
等しいものとされ、経済システムの中で抑圧されてきた」からであった。曖昧なままにされ象徴体系
に呑み込まれ不可視となっているものを脱構築する必要性から生まれた主張であった。このような
考え方を出発点とし、70年代から80年代にかけて活発化した「女性のエクリチュール」は、とりわけ、
アメリカのフェミニストたちから「女性に与えられている言説的、社会的位置に関する本質主義的
あるいは規範的な捉え方をゲットー化する」と激しく批判された。

 しかしながら、このイリガライ等の主張は、換言すれば、失われた女性の声に対する積極的な価値
付与と失われた声を聞き取る試みと理解しうる。 さらに、ジュリア・クリステヴァの「視覚的メタ
ファーが果たす役割の優先性を脱構築する」試みとも呼応する。これまで、女性の主体性を無視する
表象体系によって構造化されてしまい、その結果、真の意味での女性の主体性、声としての主体性は
消されてしまい木霊のように反響しているのみだった。これに対し、例えば精神分析などの分野では、
幼児期の自己愛が構築される段階の「鏡像現象」モデルに対するラカンへの異議申し立てとして、精神
分析と哲学的アプローチを統合したディディエ・アンズューは、聴覚体験である「音響の鏡」の必要性
を唱え、その分野の研究を推進してきた。つまり、ラカンは子どもの発達における鏡を通した自己認識
の重要性を提唱したが、アンズューは、視覚だけではなく、視覚に加え聴覚もまた自己形成の発達段階
において重要な役割を果たすことを論証したのである。  

 女性の声に限定してみると、「母なる声」が作家に多大な意味作用を及ぼした事例として、ジャン=
ジャック・ルソーとマルセル・プルーストの場合が挙げられる。ルソーは、母親代わりだったド・ヴァ
ランス夫人の「銀鈴のように美しい声」を耳にし、彼女が教えてくれる音楽と「母なる声」のもたらす
幸福な日々を送っていたが、夫人が彼を愛人とするやいなや「ママンの声そのもの」を失い、ライヴァ
ルであった夫人の夫の病死により、さらなるエディプス的罪悪感と「深い喪失感」を味わう。ルソーは
これまでの「坊や」としての役割、それに付随していた快楽の真の対象を失ってしまったのだった。
プルーストの『失われた時を求めて』の第二巻に収録されている「ゲルマントの方へ」には、マルセル
が当時は目新しかった電話の向こうの祖母の優しい声を聴き、心地よさを覚えると同時に別離の強烈な
不安を抱いた経験が記されている。
 これらの例は、「母なる声」あるいは「音響の鏡」が幼少年期の自己形成において重要な役割を果た
していたことを明示している。
しかし、ドナ・スタントンは、「芸術を典型的な転覆的実践であると唱えるクリステヴァの芸術理論
にとって、母的/原記号なるものは重要であるが、母は依然として男根的テクストが定義するような、
もの言わぬ、しかし物語られる受動的で本能的な一つの力にとどまる」と指摘する。  

 

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