西尾治子 のブログ Blog Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

日本G・サンド研究会・仏文学/女性文学/ジェンダー研究
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【サルトゥー=ラジェによる止揚:借り】

2021年01月30日 | 覚え書き

【サルトゥー=ラジェによる止揚:借り】
 ナタリー・サルトゥー=ラジュ著(2012)高野優・小林重裕 訳(2014)『借りの哲学』(太田出版)を、本書は最後の補章で取り上げる。サルトゥー=ラジュは、贈与には「返礼を求めないとする哲学的な捉え方」(ハイデガー、レヴィナス、デリダ、マリオンなど)と、「返礼を求めるものとする社会学的な捉え方」(モースにおける贈与交換)とがあり、両者は対立するが、「借り」の概念を導入することによって、この二つの捉え方を止揚できるとする(p.283)。
 「借り」とは、贈与する側が返礼を求めようが求めまいが、贈与された方には借りが生じるということである(p.283)。返礼があろうがなかろうが借りがあるとするところが止揚となる。私たちは先祖から命を、そして大地を借り受けている。さらに、この命と大地を次世代に受け渡す責任がある。このように生まれながらに借りがあるのであり、借りのない生などありえないのだ。借りの哲学は、まるで仏教の説法を聞いているようだ。
 しかし、資本主義は贈与と返礼を金銭の貸し借りに変換してしまった。彼女は、等価交換で成り立つ経済活動(資本主義)を、また借りのない自由を標榜する新自由主義を批判する(p.279)。本書でも紹介される、デヴィット・グレーバー著(2011)『負債論-貨幣と暴力の5000年』(以文社、 2016年)も、人間の社会は負債(借り)そのものであるとのスタンスをとる。

【マリオンによる止揚:呼びかけへの応答】
 サルトゥー=ラジュにとって返礼を求めない哲学者の一人であるマリオンは、サルトゥー=ラジュとは別の形で、純粋贈与と贈与交換の止揚を図っていると思われる。マリオン自身は止揚するなどとは考えていないだろうが。
 マリオンは、デカルト以来の自己と自己、主体と主体の、自覚と選択のレベルにある贈与論を批判する(p.291)。私たちは他者に働きかける積極的な存在である以前に、他者(レヴィナスのいう他者)の「呼びかけ」を受け取る存在なのだ。贈与を自覚的に受け取り、次に返礼を選択するのではなく、私たちは「呼びかけ」を受け取ることで、自己の同一性を確立する。これがマリオンの止揚である。ここでも何やら東洋的な風が感じられる。

・マリオンのハイデガーによる補強
 マリオンは自覚と選択のレベルにある贈与ではなく、そもそも在ること自体が定かでない「呼びかけ」を受け取りなさいという。隠れてしまった存在、つまり「存在の忘却」はハイデガーの用語であるが(p.192)、これは「存在の自己贈与」から導かれる(p.191)。
 贈与されたものを忘れるとは、サルトゥー=ラジュの「借り」でいえば恩を忘れるとなる。両者はよく似ている。著者のアドバイス(p.190)に従って、存在を神に置き換えると難解なハイデガーの存在論がなんとなく分かった気になる。そこでマリオンの「呼びかけ」をハイデガー流に「神の呼びかけ」、サルトゥー=ラジェ流に「先祖の呼びかけ」としてもよいだろう。

・マリオンのデリダによる補強
 デリダの(純粋)贈与は現前しないものとして現れる。現前とは、マリオンのところでもいった自覚と選択のレベルのことであり、そのレベルにある贈与は交換のエコノミーであり、贈与と返礼の循環が延々と続くのである(p.147)。
 この贈与と返礼の循環を止めるのは、(純粋)贈与である。「目には目を、歯には歯を」ではなく、「誰かが右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい」とすることで、循環を止めることができる(p.173)。

 ひとりの父親アブラハムが、身代わりの子羊ではなく自分の息子を丘に連れて行き神に捧げる、アブラハムと神のあいだの贈与の物語はよく知られているが、デリダはこの「死の贈与」についても考察する(第9章)。我々は意識することなく、誰かを犠牲にしているのではないか。常識や法や正義自体が、彼らを犠牲にして成り立つシステムなのではないかと著者は疑問を呈する(p.185)。

岩田靖夫氏によれば、〔存在は、存在者を贈り出すことにより自己自身を隠すという形で現われる。この現われは、それを了解する現存在を必然の前提として要求する。他方、現存在は、存在者を語ることでその根拠としての存在を、深淵として、無として、無根拠として、指示するためにこの世に贈り出される、といった〕存在と現存在との「共属関係」がエルアイグニスであり、この語によって、ハイデガーは、「現存在の存在了解と存在者の存在(生起)との不可分の共属関係の到来」を意味するのである。
 語り得ざる何か根源の一者(ト・ヘン)の分岐であり、相互依存的共属関係にあるロゴスとピュシス。この、言葉を超えた根源の一者は、ハイデガーによって、同一なるものと呼ばれ、この同一なるものの差異化によって、現存在と存在が現われ、優しさと美しさと残酷さと醜さの世界が成立するという。この差異化こそがエルアイグニスなのである。
 語り得ざる同一なるもの(エス)から贈り出された現存在と存在は、相互依存関係のうちに世界の運命を形成しており、この〔差異化という〕エルアイグニスの生起は、歴史のなかで、「存在」をさまざまな姿で現わしてきたのである。すなわち、ピュシスとして、ロゴスとして、ヘン(一者)として、イデアとして、エネルゲイアとして、主体性として、力への意志として、そして、ゲシュテルとして……。〔とてもむずかしい、ですね。〕

さてさて、本書第5章の「贈与のスカトロジー」も面白い。かの山田稔先生の「スカトロジア(糞尿譚)」ものを彷彿させました。バタイユの「特殊性=非凡性」(これが、反建築なのか?)を、余す所ありながらも、見事に描写されています。

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