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西尾治子 のブログ Blog Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

日本G・サンド研究会・仏文学/女性文学/ジェンダー研究
本ブログ記事の無断転載および無断引用をお断りします。
 

話す・書く・プリントする

2011年03月06日 | 授業・講義・その他

Parler est bien, écrire est mieux ; imprimer est excellente chose.
Car si votre pensée est bonne, on en profite ;
mauvaise, on la corrige et l'on profite encore..

Paul Courier(1772-1825)



「話すことはよいことだ。書くことはもっとよい。印刷することは素晴らしいことだ。というのは、もしあなたの考えがよいものであれば、人はそれを利用し、よくないものであれば、それを訂正し、人はさらにそれを利用するからである。」

                       ポール・クーリエ(1772-1825)
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G Sand Studies 2008

2011年02月18日 | 授業・講義・その他
GEORGE SAND STUDIES Vol. 27, 2008
CONTENTS
Guest Editor’s Column 1
Articles
Baron, Anne-Marie. “La critique religieuse dans Spiridion et Mlle la Quintinie: du roman à thèse au théâtre à thèse.” 4
Bara, Olivier. “Maître Favilla, ou le théâtre à la folie: illusion et hallucination.” 12
Masson, Catherine. “Féminisation et subversion du héros romantique dans le théâtre de George Sand.” 26
Laporte, Dominique. “Claudie, ou les avantages de la comédie sérieuse: De l’ ‘inconduite’ parodique (Claudine) à la reconduction intratextuelle (Le Pressoir, Les Don Juan de village).” 39
Luce, Nicole. “François le champi: représentation théâtrale et critique dramatique.”
Malkin, Shira. “George Sand et Jacques Copeau: la formation du comédien.”
Hecquet, Michèle. “À propos d’Anzoleto.”
Reviews
Sand, George. Valvèdre. Trans. Française Massardier-Kenney. Binghamton : SUNY, 2007.
63
77 95
(Aimée Boutin) 106
Amina Ben Damir, ed. La Modernité de George Sand. Actes du Colloque tenu à Tunis. Tunis: Centre d’Études et de Recherches économiques et sociales, 2007. (Monia Kallel) 108
Obituaries
Jeanne Fuchs and Natalie Datlof. “Alex Szogyi.” 112
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Sand Flaubert

2011年02月15日 | 授業・講義・その他
George Sand, Gustave Flaubert, premi醇Qre partie

En 1981, Alphonse Jacobs 醇Pditait la correspondance crois醇Pe de George Sand et Gustave Flaubert. Gr醇Cce 醇A ces lettres nous entrons dans la belle histoire de leur amiti醇P. Les autographes sont 醇A la Biblioth醇Qque de l’Institut de France.


http://www.canalacademie.com/ida956-Echanges-epistolaires-entre-amis,956.html
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寒中お見舞い申し上げます。

2011年01月17日 | 授業・講義・その他
寒中お見舞い申し上げます。

神戸震災から、すでに15年も経過したのでした。
あの日の早朝、偶々つけていたテレビの中の異様な静けさを思い出します。
6000人と言われていた被害者数が、知らぬ間にどんどん増えていたとのこと、
ご冥福をお祈りいたします。

1838年の1月は、サンドにとってもリューマチに悩まされる辛い時だったようです。19日付けの編集者フランソワ・ビュローズの手紙にも、病がひどく今後、一ヶ月は仕事ができなくて2月15日までに『スイリディオン』を終えられないのではないかと書いています。その一方で、ラムネーに関する草稿は、一両日中に何とかするとも書いているのですから、やはりサンドは相当エネルギッシュな作家だったようです。


卯年の今年は、自然が猛威を奮うことがないことを祈りつつ、画像はフランスのうさこちゃんです。お送りした画像がご覧になれなくて残念だったとのこと、すみません。こちらにアップいたしましたので、よろしかったらご覧くださいますよう。





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ジャンヌ・ダルクの画像

2011年01月13日 | 授業・講義・その他
フランス文学の授業の受講生の皆さんへ

『ジャンヌ』(Gサンド)の授業で画像が真っ白になって見られなかったジャンヌ・ダルクの画像をこちらにアップします。

 

ルーアンの町


アングルが描いたジャンヌ・ダルク (1854年)


銅像


オルレアンの解放


尋問  P・ドラルーシュ


ジャンヌの塔


銅像
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サンド学会会員の皆さまへ

2011年01月07日 | 授業・講義・その他



サンド学会会員の皆さまへ

 お元気にて新年をお迎えのことと存じます。
 遅ればせながら、新春のお慶びを申し上げます。
 
 いくつかのお知らせです。

 サンド出版企画は本年の刊行を目指し、着実に進められております。
この1月7日が執筆者にとっては正念場でした。というのは、この日がこれまでに何らかの形で発表してきた内容をもとにして書き上げた原稿提出の締め切りの日だったからです。年末もお正月も気分的にゆっくり出来なかった執筆者の方が多かったことと思われます。今後、2月、3月と様々な調整や数回の原稿校正を経たのち、最終的に3月末に編集者に完全原稿を渡す予定で鋭意努力しているところですので、ご報告申し上げます。

 また、出版企画を耳にされたチュニジアのサンド研究者の方から、ご自分も共同出版に参加されたいが可能かという問い合わせのメールを頂戴しました。今回は日本のサンド研究者の日本語による共同出版である旨お伝えし、丁寧にお断りさせて頂きました。
 
 昨年暮れにアメリカのサンド学会会長の改選選挙がおこなわれ、Cathrine Nesciさんが選出されました。お祝いのメールを差しあげたところ、日本のサンド学会会員の皆さまにくれぐれもよろしくお伝えくださいとのことでした。

 またフランスのサンド学会会長のBernard Hamonさんからも日本のサンド研究者に新年のお慶びを申し上げますというメッセージを頂戴しましたので、お知らせいたします。

 今年の仏文学会春季大会は、5月28日、29日に一橋大学にて行われます。坂本先生がすでに仏文学会でのサンド研究会開催の申し込みをして下さっています。また大会が近づきましたら、詳しいご案内を差し上げられることと思います。

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

西尾治子
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Boris Vian

2011年01月02日 | 授業・講義・その他



"Les belles-lettres"

Article publié le 25 Décembre 2010
Par Constantin Kaïtéris Montreuil (Seine-Saint-Denis)

Source : LE MONDE
Taille de l'article : 585 mots
Extrait :

Averti de la parution des romans de Boris Vian dans « La Pléiade », j'ai eu l'oeil attiré, à la première page du Monde du 18 décembre, par cette accroche annonçant un article dans Le Monde des livres : « Boris Vian dans «La Pléiade» : légitime consécration ou supercherie littéraire ? » Diable ! Supercherie littéraire ? Pour tout amateur de littérature, cela peut renvoyer à Ajar, Clara Gazul ou, concernant le nouveau « pléiadisé », à Vernon Sullivan, mais en quoi la parution de Vian dans « La Pléiade » pouvait-elle en être une, de supercherie ?


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G.サンドの芸術感

2010年12月30日 | 授業・講義・その他
サンドの芸術に対する考え方は、作品を創造する上で、最初から最後まで不変不動のものであったのだろうか。芸術について触れているサンドの作品群を一瞥してみると、作者の芸術観は静的なものではなく、次のように時とともに少しずつ移動し変化していることが理解される。

 1830年代後半、サンドは親しい交友関係にあったフランツ・リストに芸術家の理想像を見ていた。それは、彼が「旅人」や「放浪者」であり「聖なる存在」だったからである。リストにおいては、サンドの表現に従えば、「強健で病的なところが微塵もなく」「生が情熱的で強烈であり、豊穣にすぎてゆく」からであった。『ある旅人への手紙』(1837)には、小舟に乗った仲間たちが美しい調べの曲を歌いながら理想の岸へと向かう叙情的な場面が描かれているが、この作品の「第七の手紙」はリストに宛てて書かれており、そこには「そうなのです。音楽、それは祈りなのです。それは信仰です、そして友愛なのです」とサンドの音楽に対する情熱的な思念が吐露されている。

三年後の1840年に出版された『七弦の琴』では芸術の普遍性が強調されるようになり、音楽は「普遍的な言語」であり「無限の言語」であるとされている。ところが、『七弦の琴』の二年後に出版された『コンシュエロ ルドルシュタット伯爵夫人』になると、先のハイドンとコンシュエロの会話の場面でみてきたように、個人的な幸福より「芸術家の社会的使命」が何よりも優先され、「聖なる音楽」の重要性が語られるようになる。芸術家が権力者に媚びざるを得なくなるような、一部の限定された特権階層のための個人的かつ狭隘な芸術ではなく、多くの一般の人々に幸せと慰めを提供する社会的な有益性を有する芸術を目指さなくてはならない。このようなサンドの芸術思想が形成されたのは、当時、サンドがサン=シモン主義の流れを汲む哲学者ピエール・ルルーやポーリーヌ・ヴィアルドの夫であるルイ・ヴィアルドとともに『独立評論誌』を立ち上げた時期と重なっている。つまり、男装したヒロインのコンシュエロは、作者のこの時期の芸術思想を直接的に反映しており、男装しているがゆえにより自由に芸術に対する作者の高邁自主の精神を代弁し、物語を牽引しているのである。
 他方、音楽における「神聖性」とは、天才的な芸術的存在には不可欠の「インスピレーション」を得て獲得されるものであり、したがって、事前にプログラミングされるものではなく、ショパンが非常に重視した「即興」という作品創造上の音楽技法に通底するものでもある。「芸術家の社会的使命」および「音楽の神聖性」という二つの象徴的価値が、『コンシュエロ ルドルシュタット公爵夫人』においては変装した主人公の行動、あるいは、その彼女・彼が発する言葉に具現化され、芸術の完全性を表象している。『コンシュエロ』で確認された「インスピレーション」の重要性は、1845年の『テヴェリーノ』においては「真の芸術家とは、生に対する感情を有している者であり、理を説くことなく「インスピレーション」に従順である者のことである」とされており、この作品は「インスピレーション」に関する作者の芸術観を着実に継承しているのである。
 ここまで、サンドの一連の音楽小説にみられる「芸術家の使命」および「即興」や「インスピレーション」に関する作者自身の言葉を考察してきたが、こうした考察は1830年代から1840年代におけるサンドの芸術思想の変遷を知るうえで注目すべき重要な視点を喚起していると思われる。
  
 以上は、拙稿「ジョルジュ・サンドの『コンシュエロ ルドルシュタット伯爵夫人』における変装の主題 (1)」(慶應義塾大学日吉紀要・フランス語フランス文学 No51 平成22年10月)の抜粋です。
                   (無断の転載はご容赦ください。)

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読書のアトリエ

2010年12月28日 | 授業・講義・その他



地道な文学活動を続けておられるシモンヌ・バラザールさんが、2月7日と4月4日にパリのロマン主義美術館にて、サンドの小説『ヴァランチーヌ』『捨て子フランソワ』のアトリエを開催されます。

Simone BALAZARD organise les prochains Ateliers de lecture au Musée de la vie romantique lundi 7 février 2011 à 14 h.30 pour Valentine et
lundi 4 avril 2011 à 14 h.30 pour François le Champi (roman et pièce).

連絡先: sbalazard@free.fr


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「平野啓一郎と聴くショパン」感想

2010年12月25日 | 授業・講義・その他
NHKプレミアム8 「平野啓一郎と聴くショパン 魂の旋律」

ショパンの人と音楽を紹介した平野氏のNHKプレミアム8は、視聴者にとって非常に理解しやすい内容だったと思います。『葬送』のように登場人物の心理的側面に肉迫し、丹念にショパンの心の動きを追い、想像力を駆使しつつ、事実から剥離しない物語を紡ぐ平野氏の才能はさすがでした。

しかし、最も驚いたのは、冒頭のナレーションの「ショパンの愛人ジョルジュ・サンド」というサンド紹介の文言でした。しかも、少なくとも二度は使用されていたように思います。「愛人」という表現には、暗黙の裡に「囲われ者」「世の中から非難されるべき者」というニュアンスが仄かに籠められているのであり、ナレーターのサンドに対する前近代的なスタンスが感じられ、次の展開は大丈夫なのかと少々不安な気分になりました。

しかし、平野氏の語りはナレーターのような立場に立脚しているものではなく、サンドとの生活がショパンに経済的にも心理的にも平穏な安定をもたらし、二人の歳月の中からショパンの最高傑作の殆どが誕生したことを明らかにされたので、前述の不安と居心地の悪い違和感は平野氏のトークを拝聴するうちに徐々に払拭されていったように思います。

ショパンの大の親友ドラクロワがサンドのノアンの城館に滞在し、同様にショパンがインスピレーションを得るのに必要とした友人達やポーランドの親戚といった客人達もまたノアンに滞在し、サンドが彼らに極めて細やかな気配りをし面倒をみたことの細部についてまでは言及されていませんでしたが、実際、サンドはノアンで暮らす方がパリの二倍の経済的負担が必要だったと書き残しています。サンドは平野氏が述べられたように、娘ソランジュや息子モーリスが介入して巻き起こった家庭内のいざこざさえ別にすれば、ショパンの才能が開花すべく、物心両面からショパンを支え、彼に献身的に尽くしたことは間違いないといえるでしょう。

平野氏はまた、二人の別れの原因の一つは、サンドが家父長制に反対であって、ショパンが父親風を吹かした点にあったとも解説されていましたが、なぜサンドが家父長制に反対であったかについて、歴史的時代背景との相関性に言及されると、より重層的な番組になったのではないかと、その点を少し残念に思いました。

というのは、19世紀フランスの女性達が18世紀の女性たちよりずっと自由を奪われ、奴隷状態を強いられていたからです。その源はといえば、日本式では「女は男の三歩後ろを歩け」といった文言に象徴される、いわゆる家父長的な考え方を基盤とするナポレオンの民法典によるものでした(参照:民法典第213条「夫はその妻の保護義務を負い、妻はその夫に服従義務を負う」)。事実、既婚者の浮気に関し極端なまでに詳細な罰則を定めたこの法律のために、『レミゼラブル』の著者ヴィクトル・ユゴーは苦痛を味わっています。彼自身はルイ・フィリップ一世の知り合いだったことも幸いし、僅かな罰金を支払うだけで済んだのに対し、彼の浮気相手であった画家ビヤールの妻レオニーは刑務所に一時的に収監され、修道院で数ヶ月の謹慎処分にも服したのでした。その後、夫と別居した(当時は離婚が禁止されていたため)レオニーの生活の面倒をみてやらねばならず、思えばユゴーという偉大なロマン主義作家は最愛の妻アデールを友人の批評家サント・ヴーブに奪われ、その後、ジュリエット・ドゥルーエという情熱的な愛の手紙を交わした魅力的な女性に邂逅したものの、愛娘をセーヌ河の事故で失うといった悲劇にも見舞われ、その私生活には波瀾万丈の辛いものがあったようです。

話が横道にそれてしまいましたが、いずれにせよ、このように極めて不利な状態に置かれた十九世紀のフランス女性たちを弁護し、法ではなく世の慣習が社会をよりよいものにするのだ、古い慣習を変えることが作家の使命であるとする強い信念のもとに、サンドは結婚における女性の奴隷状態を告発する出世作『アンディヤナ』を書いたのでした。この小説は大ベストセラーとなって増刷が続き、ショパンと知り合った頃のサンドは、フランスはおろか、イギリスや欧州にまでその名を知られるフランスの一大女性作家でした。つまり、サンドはショパンの単なる愛人ではなく、家庭では一家の主として父親役もこなす生活力のある著名人だったわけです。また、そのような才能ある女性でなければ、ショパンのような天才を理解し、彼に傑作を次々と創出させることは不可能だったのではないかと思われます。

平野氏は、サンドとショパンの恋愛関係はミステールであるというようなことを述べておられました。が、サンドの出自は、父方はポーランド王家に繋がる家系であり、母方は貧しい階層出身であった、この点でショパンとの共通点があったものと思われます。かつて愛読したフランス語の書によれば、ショパンは母方が小貴族の家系ではあったが、父ニコラの出自は民衆階層(車大工、つまり馬車や荷車の整備をおこなう職人の息子)であった。王家と小貴族という階層のレベルが異なることや父と母が反対ではあるものの、二人とも身分違いの結婚 mesaliance から誕生した子だったというわけです。

もう一つの共通点は、二人の祖国を思う強い気持ちです。
当時のニコラの勤め先はフランス在住のポーランド貴族の城でしたが、その一家がフランス革命を逃れて故国に帰国するのに伴い、自分もポーランドに同行し、その地で結婚しフランス語を教えることを生業としたのでした。が、高校教師だけでは生計がなりたたないため寄宿舎を経営するというのが当時のポーランドの教師の常となっていたのに倣い、ニコラも男の子専用の寄宿舎の経営に乗り出しました。ニコラの先見の明があったのは、寄宿舎にはロスチャイルド家といった超富裕層の子息しか受け入れなかったことでした。彼らと一緒に遊び大きくなったショパンは、貴族以上に貴族らしい立ち居振る舞いをする貴公子となって成長したのでした。サンドは、そんなショパンに彼女が四歳の時に落馬事故で失った、ヴァイオリンを弾く音楽好きの父の面影や、父の死の二週間前に生後三ヶ月足らずで亡くなった病弱な弟の姿を垣間見ていたのかもしれません。

また、夫とともに18世紀フランスの啓蒙思想家ルソーやヴォルテールとも親交があったサンドの祖母は音楽にも造詣が深く(ジャン・ジャック・ルソーは「結んで開いて」の作曲者であり、若い頃は音楽家になる夢をもっていました)、サンドは幼い頃からプロ並みの音楽の才能を持っていた祖母からピアノを習っており、サンド自身、相当なレベルの音楽の知識をもっていたといわれています。ショパンを深く理解し、その才能を縦横無尽に伸ばす手助けをすることができたのは、高度な音楽に触れたことのあるサンドの存在のお陰だったと言っても決して過言ではないでしょう。

他方、ショパンの祖国ポーランドを思う熱い気持ちがその音楽に化身されていることは明らかだと思われます。父ニコラが青年ショパンをフランスに旅立たせた理由は、これも愛読書に書かれていたことですが、ショパンが政治に興味を抱き始めたからだったようです。当時ロシア、オーストリア、ドイツなどの強力な権力をもつ周辺諸国から迫害を受けていた小国ポーランドは独立を目指していましたが、ショパンの周囲では若者たちがコーヒーショップ・シンデレラに集結し反列強運動を推し進めていました。国を思う若者なら当然のことと思われますが、ショパンも次第にこうした仲間たちと交流をもつようになっていきます。このことを懸念したニコラは、芸術家は政治に関わってはならないとショパンをパリに向かわせたのでした。しかし、ショパン自身の気持ちはどうだったのでしょう。純粋な魂の持ち主だっただけに、国の独立のために戦う友人達と別れ、敵国の男たちの犠牲となるかもしれない優しい姉妹たちを守ってやることも出来ず、一人、異国の地を踏まなければならなかったショパンの気持ちには並々ならぬものがあったと推測されます。強大な権力に立ち向かうか弱い祖国や革命の中で危険迫りくる家族を思う気持ちや、このときのショパンの焦燥感は、彼が書いた有名な「シュツットガルトの手紙」に迸り出ています。

一方、サンドが1848年にフランスで起きた二月革命に奔走したことは、よく知られています。『愛の妖精』や『魔の沼』を代表とする有名な田園小説は、サンドも書き残しているように、二月革命が失敗に終わり、挫折し希望を失った人々のために書いたものでした。作家自らの絶望感を和らげるためという個人的な理由ではないところに、サンドらしい一面が認められます。

いずれにせよ、少なくとも、出自や自国を思う気持ちに関しては、二人の間に似通ったものがあったのではないかと思われます。このような共通項をもつ二人だったのですから、ショパンとサンドの恋愛は、二人にとってはミステリアスなものではなかったのではないでしょうか。ショパンは自らの傑作を誕生させるには生活の安定と音楽上のインスピレーションを与えてくれる身近な存在が必要だったのであり、ショパンの人生の伴侶はサンドでなければならない歴史的必然性があったという結論が導き出されても不思議はないと思われるのです。

素晴らしかった番組に誘われ、他にも次々といろんな想念にとらわれましたが、今日はこの辺にしておくことにしましょう。


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