いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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遂に降板ですか…安倍総理(追記あり)

2007年09月12日 13時31分51秒 | 政治って?
驚きました。

先ほど速報を見たのですが、政治的混迷が起こることになるかもしれません。
今になって突然の退陣とは、一体どうしたのでしょうね。もう嫌気がさした、ということでしょうか。連日つまらん批判に晒されるというのが辛くて仕方ない、ということなのでしょうか。

前から言ってた通りになってしまいましたね。早期退陣の可能性がある、ということは。

05年9月>「ポスト小泉」を睨んだ組閣はどうなるかな?

06年7月>やっぱり書くか・・・総裁選

こうなっては、麻生親分くらいしか緊急登板はできないだろう。
組閣を行ったばかりなのに、別な内閣を作らねばならないのかな?
まあそういうことなんだろうね。
天皇陛下は何度も認証式をおやりにならねばならず、忍びないですね。「アラ、また?」みたいに思われても不思議ではないです。



ところで、私が勝手に命名した「麻生親分」の由来となったのは、この記事の時からだ。

遂にキャップ・・・と勝手に「クール・ビズ」ベスト選出

2年余りの間に、こんなに動くものなんですね、政治って。
当時は麻生親分には総裁の芽はあまりなくて、殆ど期待されていなかったもんね。それが今では、一番手に最も近いであろう。私もブログを書き始めるまでは、全然知らなかったし。

それにしても、政治の世界というのは、何が起こるのか判りませんね。


ちょっと追加。

今回の辞意表明によって、安倍ちゃんは大きな傷が付くこととなったであろう。
参院選の直後に辞めていれば、捲土重来の可能性は残されたであろう。5年か10年後か判らないけれども、再び登板するチャンスがあったかもしれない。けれども、今回のような辞め方をしてしまうと、「もうイヤになったので辞めました。自分はやりたくありません」ということだけになってしまい、無責任さだけが強く残るであろう。駄々っ子の如く、放り出したかのようになってしまう。

このような事態を招いたのは、自民党全体の迷いがあった為であろう。傷を深くする前に何とかするべきであった。
安倍総理は決意を表明したのに、テロ特措法の問題に挑まずに戦わずして自ら敗北宣言というのは、「美しくない」。バッサリ切られてしまい、身を引くというのならまだ判る。けれども、「このままじゃ切られてしまうから辞めます」ということなのだから。

安倍総理の問題だったことは、周囲から言われることに反応することが間違っていたことだろうと思う。
強気である部分とか、人の話を聞かねばならない部分とか、これがまちまちというかズレていたのだろう。「自分を信じて思いっきりやってみろ」というのは、支持率や細かい批判などは気にしても仕方がないのだから、迷いを振り切りブレずにやっていくということだと思う。政治的信念は持ち続けていけ、ということなのだと思う。だが、それを若干取り違えて「強行採決」とか、「根回しせず独断専行」とか、間違えた形で現れてしまった。
逆に、ちょっとへこむと「人の話を聞いて進めた方がよい」とか言われていることに靡いてしまい、大衆の目から見ると「単なる弱気」とか、誰かにおんぶにだっこになっているかのように映ってしまい、未熟さや若さみたいなものと捉えられてしまったかのようである。


色んな見方もあるだろうが、結局のところ、人を使うことの難しさというものを感じた。政治家ばかりではなく、官僚も含めて、多くの人間を動かしていかねばならないのだが、ここで失敗を招いたのではないかと思う。それは偏に「側近力の弱さ」にあったであろう。それは人材という面と、本人自身の甘さというか人のよさ(お人よし?)ということなのかもしれない。恐らく個人的にはいい人なのであろうと思う。だが、一国の宰相としては、優しさが多すぎであったのかもしれない。小泉さんの言っていたように、「政治とは非情なものだ」ということなのだ。厳しさ、非情さ、といったものが、足りなかったのかもしれない。


会見では「テロとの戦い」ということを強調していたが、テロとの戦いに挑む前に、残念ながら「自分との戦い」に敗れ去ってしまった、ということなのであろう。倒閣運動で追い込まれたわけでもなく、大規模決戦を挑んで敗れたわけでもないのに、消えていったのである。



続・教育の牢獄

2007年09月12日 09時27分23秒 | 教育問題
フランス人にとって何故国防が権利なのか、という問いに対する良さそうな答えというものが思い浮かばなかったのだが、前の記事を書いていて、おぼろげながら感じるところがあったので、それについて書いておきたい。

いつもの如くかなり変な喩えであるが、具体的に考えてみた。

ある寮があるとする。周辺には似たような寮がたくさんあって、A寮、B寮、C寮…とあるとする。
君主制の国の場合にはどうなっていたかというと、国王が支配者兼所有者みたいなものなので、国王=「寮長」とすると、寮の支配者として君臨するのが寮長(国王)で、寮のメンバー(市民)は寮にいるけれど、特にこれといった権限は持っていない。こういう場合だと、寮長が独裁的な支配を可能にするし、寮長が掃除当番や食事当番を勝手に決定して、寮のメンバーにやらせることができる。寮長が立派な人物で賢明である場合には、他のメンバーがどんなに使えない人たちばかりであろうとも、寮の運営は大体上手くいく。悪い寮長だと、メンバーのバイト代の1割を上納せよ、とか酷い命令を出したりするかもしれない。嫌なら出て行けとか、逆らえば寮から追い出されるとか、そうしたことも可能になってしまう。

今、A寮で君臨していた寮長の横暴があまりにも酷い、ということで、メンバーたちは反乱を起しました。メンバーは寮長をボコボコにして寮外に追放することに成功したとしましょう。まさに市民革命みたいなものですね。追放だけでは飽き足らず、「寮長を処刑せよ!」というのがフランス革命的ですかね(コワイ)。こうなると、A寮ではこれまでの寮長に代わって別な運営方針を作らねばならない。寮長時代には、トイレ掃除は寮長の気に入らない人だけにやらせて、媚びへつらうとかご機嫌とりのウマイ人は逃れていた、という状態だったとしても、今度はそういう差別はできなくなり、「みんな平等にやるんだよ」ということになって、均等な当番表が作られるということになるであろう。平等の原理はこうして現れてくるのかもしれない。A寮は独裁(君主)制から共和制へと変わった、と。

隣のB寮の寮長はA寮の寮長が粛清されたことを知って、もの凄く焦ったことだろう。自分の支配しているB寮のメンバーがA寮の異変に気付いて、自分たちも「寮長の不当支配から解放されよう!」みたいなことを企む危険性があるからだ。B寮の寮長は手っ取り早くA寮を乗っ取るとか破壊してしまうとかをやって、これまでの「寮長」支配体制を維持しようとするわけだ。そこで、B寮の寮長はどこかの不良グループを連れてきて、「A寮をぶっ壊すとか、財宝分捕りなんかをやっちゃってくれ」と依頼する、と。

さて、A寮はこの暴れ者たちに襲撃されるわけだ。果たしてどうなってしまうであろうか?
寮の部屋に敵軍(B寮に雇われた悪者たち)が侵入してくる。で、部屋にあったパソコンとかデジカメとか、「オラオラ」とか力ずくで持っていかれる。部屋のドアも蹴破られて、滅茶苦茶に荒らされる。A寮のメンバーはみんな弱いので敵軍を怖がってばかりいて、各自の部屋に閉じこもって震えているわけだ。そうしていると、次々に部屋が襲われていく。自分のところには来ないでくれ、などと祈りながら布団をかぶっているだけなのだ……でも、ここで勇気あるものが現れるのである。
「みんなで戦えばいいんだ!戦おう!寮を守るんだ!
さあ、友よ、立ち上がろう!僕らの寮は僕らで守るんだ!!」

この呼びかけに応じるA寮のメンバーたちが集まってきた。
レアなフィギュアを持っていかれたり、大好きなゲームを奪われたり、お気に入りだった写真を破り捨てられたり、そういう恨みもあって(笑)、不良グループは怖かったけど、これ以上好き放題やらせる訳にはいかないと考えるメンバーが続々と戦闘に参加した。
「オレも戦うぜ!」
「オレはこの入り口を死守するぜ!」
こうして、A寮のメンバーたちは自発的に戦いを選択した。

ハッ、これこそが、この選択こそが、寮長から強制されたわけでもなく当番表でもなく、「戦う」ことを「自ら選ぶ」ということなのだ。「オレも戦うぜ」というのが、「国防の権利」ということなのだろうか。「オレにも戦わせろ」という自発的意思が、国防の権利なのかもしれない。

そして、「僕らの寮」というものが、「国家」(国体?)というようなものなのだ。寮は誰かのものではないけどみんなのものだ、とみんなは考えている、と。以前は寮長のものだったけど。で、「僕らの寮は僕らで守る」という考え方が、ナショナリズムっぽいとか、国民軍当然とか、国防は権利とかに通じているものなのかもしれない。


昔の寮長時代であれば、
乙:「なんでオレだけが便所掃除ばかりなんだよ」
寮長:「これは命令だからだ」
乙:「何で命令はきかなけりゃならないんだよ」
寮長:「それはオレが寮長だからだ。寮長の命令は絶対だ」
乙:「何で寮長の命令は絶対なんだよ」
寮長:「寮長が一番偉いって決まっている」
乙:「そんなこと誰が決めたんだよ」
寮長:「そ、それは、昔からそうだからだ」
乙:「昔の誰が決めたのかよ」
寮長:「…判らないが、決まってんだよ」
乙:「本当は決まってなかったんじゃね?」
寮長:「…うぐggg、オレの命令は絶対なんだYO!!」
という具合に、権威の正統性みたいなものが、あまりはっきりしてなかったのかもしれない。あるとしても、それは物語的というか、神話的世界とか、宗教的世界とか、曖昧な理由付けみたいなものかもしれない。それを共和制とするということは、物語とかではない、「寮とは何か」「”僕ら”とは誰か」「当番表の決め方」みたいなものを人工的に正統性を与える必要があった、ということかな。

教育の意味というのは、上の乙が投げかける疑問、「何でだよ」ということだろうと思う。「寮長の命令は絶対だ」ということへの根源的疑問みたいな考え方を自分できるようにせよ、というのが教育ということかと。「誰が決めたんだよ」への解答が、「法に書いてあるからだ」というものを用意したのが「共和制」ということかな。フランスの「教育と哲学が重要だ」というのは、きっとそういうことなんだろう。上の寮の例で言えば、寮長を追い出した後のA寮の運営をする場合、掃除当番や食事当番とかを決めるのに、「何らかのルール」が必要だからね。寮のメンバーの半分以上が賛成すればルールを作れる、とか決めておかないと、誰かが「オレは知らねーよ」「守りたくねーよ」とか言い出して秩序の混乱を来たすことがあるかもしれないからだ。共同生活をするのは大変なんですよ。夫婦でもルールがないために、紛争の原因となってしまったりするわけで、「寮長の命令は絶対だ」とか「法(ルール)に書いてあるからだ」とかに匹敵するような権威がないと、秩序維持に混乱を来たす可能性はあるだろう。それは「父ちゃんの決定は絶対だ」みたいなものかな、と(笑、我が家でもそこまでオーバーではないな。絶対性は持ってないけど、一番優先されると思う…)。


こうして見ると、国防が権利であっても理解できなくはないかな。「僕らの寮」の正統性は、哲学と教育から生み出されるというようなことなのであろう。