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赤木智弘は戦争に行けばよろしい

2007年09月19日 22時26分31秒 | 社会全般
もういい加減ウンザリというか、出尽くし感が漂うのだが、「そろそろ一言いっとくか」(笑、全て敬称略)。
例の論座に掲載された記事だが、当該号は我が家でも偶然購入していた。「ネットカフェ難民」が広くマスメディアに取り上げられる以前に、どこかのブログで貧困ビジネスについて読んだからだった。初めは立ち読みしたのだが(笑)、「読書空間」の佐藤俊樹、池内恵とか山形浩生が出ていて面白そうだったから購入した。妻や子どもも読んだのだが、赤木論文には一切共感などないとのことだった。置かれる立場とか環境などもあるだろうから、おんな子どもの意見がどうということでもないのではあるが、取り上げる価値などない、としか思えなかった。

ところがその後、意外にも多方面からの反論があったり、ネット上でもしつこく取り上げられているのを見るに、彼の戦略が効果的であったことを知った。喩えて言えば「北朝鮮戦略」とでも言おうか。「~をしてくれなければ、○○しちゃうよ」というような、ゴネ得っぽい感じがした。彼を救うことなど誰にもできないのに、彼の言説にお付き合いをしなければならないとすれば、これはもう徒労という他ない。「働いたら負け」というのと同じく、相手にすればするほど周囲が疲弊していくだけなので、赤木論文に言及するのはこれっきりにしようと思う。


これまで散々書いてきたので、一応記事を挙げておく。「イス取りゲーム」についても、何度も書いてしまったのだけれどね(笑)。

少子化と労働問題3

所得格差が子供を下層階級にするのか

続・所得格差が子供を下層階級にするのか

雇用、労働政策とか・・・

若年層の就業問題(追加しました)

続・幸せは何処にあるか


「憧れのハワイ航路」(笑)なんかの庶民の夢を手にできた、過去の人たちは良かった、けど、自分たちは違うんだ、と。だから?
赤木論文の核心というのは、オレが不幸ならお前らも不幸になれ、だ。ただの恨み節に過ぎない。結論をズバリ言おう。
「社会を変えたきゃ、自分が変われ」―by 少佐 だ。
赤木論文では、お前らは何もしてくれなかった、どうしてくれるんだ、オレ達が不幸ならば、「本気でやっちゃうよ?」という取引を強いているに過ぎない。これが北朝鮮っぽい感じを受けるのだ。金をくれなきゃミサイル撃っちゃうよ、援助してくれなきゃ核保有しちゃうよ、という恫喝と何ら違いがない。貧困が続けば犯罪に走ってやる、嫌なら金くれ、というのと同じこと。浮かび上がれなければ戦争に突っ走るよ、それでもいいのか?という取引を求めているということ。それが本意ではないにせよ、言ってはいけない部分に踏み込んでしまったであろう。

赤木の真意がわかるわけではないが、敢えて言えば「反戦平和」を金科玉条のように唱える市民グループとか左派勢力などの「持てる者たち」=既得権者たちへの、痛烈な批判ということなのだろうと思う。「丸山眞男」を持ち出してきたのは多分そういう意図ではないかと思った。そういう左派勢力が何をしてくれたかといえば、政治的には何ら成果をもたらすことがなかった、若年者たちをどん底に追い込む片棒を担いでいたに過ぎないではないか、という苛立ちのようなものがあるのだろうと思うのだ。それは気持ち的には判らないではない。しかし、自分が不幸だから皆も不幸になれ、という意思を表現することは、タブーを超えてしまっているのではないか。

ボートがあって、「持てる者」がボートに乗っているとする。持てない者たちは、ボートに乗りたいが乗れない時、どうせ助からないならオマエらのボートの底に穴を開けてやるぜ、それでもいいのか、と言っているのと同じようなものである。ボートに乗っている人たちは、乗っていない人たちを何とか助けようと努力することはあると思う。それは船底に穴を開けてやるぜ、という脅しとは無関係にあるべきものである。助けを請う側が、助けないなら穴を開けてやる、という恨みをぶつけることは禁忌だということ。ボートに乗っている人たちは乗れない人たちを目の当たりにするので、苦悩を強いられているのである。そこに向かって、助けろという取引を強要するのは本来的にオカシイのである。募金しないと暴れてやるぜ、嫌なら募金しろ、と言うことが良い方法であるとは思えないのである。募金を受ける側が、金をくれないのはおかしい、などと言うことも有り得ないのである。

自ら脱出の努力をする者以外には、支援は意味がないのである。努力するものが報われる、ということ以外には、出口を見出すことなどできないのである。そもそも五体満足で生きていることだけでも、有り難いと思うべきだろう。実際にどれ程の努力をしたというのか。努力している人たちはたくさんいるのである。これ以上できない、もう無理だ、という程頑張っている人たちだっているのである。それほどの努力というものを本当にやったのだろうか。やってないなら、まだ足りないといわれるのは甘受せねばならないのである。

かつての開拓民たちが希望がまるでなかったかどうかは判らないが、それでも何かを求めて外に向かって行った。ただ現状に愚痴をこぼし、誰かを恨み、持てる者たちを呪ってみたところで、自分の問題など何らも解決できないのである。希望の灯を心にともせるのは、自らの努力以外にはないと思う。自らの体を張り、努力を積み重ねた者たちこそが救済される権利を有するのであると思う。そういう人々には、助けろなどと要求されずとも手が差し延べられてしかるべき、ということであって、他人の親切を強要するというものではないのである。


赤木が真に戦争を望むなら、何処かの外人部隊にでも入るべきだろう。持てない者であっても、成功できる余地があるかもしれない。それをやって見せた時、赤木の意見を若干は認め、支援が不足していたと反省しよう。だが、取引に応じ気も、ブラフを信じる気も更々ない。誰でもいいので一緒に不幸になれ、と願うような人間の言うことなど、聞き入れたくはないということだ。