グレゴリー・マクドナルド「警視フリン 空中爆破」(角川文庫)32ページ。
本の訳文
「まったく」レイガン警部は目をこすった。「考えただけでも恐ろしい」
「二百年前の古い茶箱を見つけるかもしれませんね」フリンはにこりと笑った。「イギリス国王の税金をまだ払ってないやつが」
「海軍はな」デソボ警視総監は言った。「フロリダから潜水部隊を送ってくる。きょう遅くには着くはずだ」
「海軍はひじょうに色めき立っています」レイガンが言った。
「くそっ」警視総監が言った。「あの飛行機が撃ち落とされた可能性があると、どっかのくそったれ通信員がけさ報道したんだ」
「撃ち落とされたですって?」フリンが言った。
「ロケットでな」レイガン警部が笑い声をあげた。「潜水艦から発射されたんだとさ」
「夜遅くまで外にいたドーチェスターの男によると、赤い筋が港の入り口の少し向こうの海面から飛び出して、飛行機に命中するところを見たというのだ」警視総監が言った。「記者の連中はなぜ、半分もうろくした飲んだくれが言ったことをいちいち載せるのかな?-」
私訳文
「なんてこった」レイガン警部は目をこすった。「考えただけでも恐ろしい」
「潜水夫の連中はきっと二百年前のボストン紅茶事件の古い茶箱なんかを見つけるかもしれませんね」フリン警視はやや頬を緩めて言った。「イギリス国王にまだ税金を払ってないやつがね」
「海軍はな」デソボ警視総監は言った。「フロリダから潜水部隊をこちらに送ってくるんだと。きょう遅くには着くらしい」
「海軍はひじょうに色めき立っていますね」レイガンが言った。
「忌々しいことに」警視総監が言った。「あの飛行機が撃ち落とされた可能性があると、今朝方どっかのくそったれ通信員が報道しよったらしい」
「撃ち落とされたですって?」フリンが言った。
「それもロケットでだそうだよ」レイガン警部が笑い声をあげた。「潜水艦から発射されたんだとさ」
「夜遅くまで外にいたドーチェスターの男によると、赤い光の筋が港の入り口から少し先の海面から飛び出して、飛行機に命中するところを見たというのだ」警視総監が言った。「記者の連中はなぜ、半分もうろくした酔っ払いの戯言をいちいち取り上げるのか、まったく理解できん-」
高校時代の恩師(私の唯一の作曲の師匠です)が、いまの私の仕事場の近くの都立S高校で教えておられることを知ったのは、つい最近のことでした。たまたま開いた池辺さんを囲む会のサイトでそのことを知りました。仕事が終わった夕方すぎ、20年ぶりに先生に連絡をとり、お訪ねしてきました。ご挨拶をして近況をお話し、数年間寝かせ続けているヴァイオリン協奏曲のスケッチ譜面をネタに作曲の簡単なレッスンもして頂きました。短い時間でしたが、いろいろなヒントを頂けて、面白かったです。先生も、昔とおかわりなくお元気そうでなによりでした。
大阪の医学校時代の祖父や曾祖母たちが、棚橋の家としばしば行き来していたという話を聞いたことがあります。除籍謄本で辿れないので詳細はわからないのですが、伝聞によると、郁文館をつくった棚橋一郎氏、絢子氏たちと、小豆島の曾祖母の実家とは遠縁に当たる関係だったらしいです。たしかに、棚橋家の人々の写真を見てみると、小豆島の曾祖母の実家の人々と、骨太なところといい、顔つきといい、よく似ています。。。
Hisakoさんのブログ「古書の森日記」より
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/
棚橋一郎・鈴木誠一『日用舶来語便覧』(明治45年4月発行)
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/51276092.html
以下、引用させて頂きます。。。
***
案の定というか、講演会が終わって緊張が解けたのと、ここ数日の寒さもあって、風邪でダウン。寝込む寸前だったが、ヨロヨロとデスクの前に座る。座ってはいるものの、頭はモーローとして原稿はいっこうに進まない――という状態だった。こうしてはいられない……。いま、少々ピンチです。
古書展ではこんなものを安い値段で見つけるとうれしい。写真は明治最後の年に発行されたポケットサイズの『日用舶来語便覧』。表紙はかなり年季が入っているが、総革上製本で、型押しでバラの花の図案がある。当時で65銭だから、かなり高価だったといえるだろう。こういうのが意外に役に立つ。そして、読んでいても面白い。
英語でTHE JAPANIZED WORDSと書かれているように、明治時代に日本語に取り入れられた外来語、カタカナ語が五十音別に掲載され、意味が説明されている。コンパクトな本だが、英・仏・独・ポルトガル・スペイン・オランダ・ロシア・アメリカからの舶来語1500語余りを収録した、とある。
たとえば、「ハイカラ」を引いてみると、
●ハイカラ……高襟 High-collar(英) 高きカラーの義にして普通より丈高きカラー。又は其カラーを着用せる人、今は転じて時流を追ひて服装を飾る人を云ふ。其反対なるを蛮カラとも呼べり。
「ドンタク」は知らない人も多いのでは?
●ドンタク……日曜日 Zundag(蘭) 日曜日のことなれども今は転じて休日の意となる。故に土曜日のことを半ドンと呼ぶに至れり。
さらにこの便覧のすぐれているところは、一般の舶来語とは別分類で、被服の部、飲食の部、器具の部、逍遙後、交通機関、医療の部、薬品の部というように、23項目に細かく分類して舶来語を収録し、その意味を説明している点。関連のある言葉を探すのに便利だ。さらに、巻末付録が非常に充実している。
アルファベット書体
アルファベット発音法
日常会話例
書簡文例
数に関する単語
野球用語
飛行機用語
汽車用語
商用略語及び記号
英語にての掲示
英語にての看板
英語にての広告
世界各国名及び首都の表
各国度量衡貨幣
洋服着用に関する心得
洋食宴会に関する心得
通信要領
税法要領……等々。
このなかにスポーツで唯一「野球用語」があるのも面白いが、「飛行機用語」には意表を衝かれた。何かの間違いかと思ったのだが、本当に飛行機用語だった。パイロットをめざす人のために、という意味なのだろうか。水平舵とか後翼とか発火器とか注油器とか安定などという単語が載っている!(なぜ自動車ではなく、飛行機なの?)
***この記事へのコメント***
1. Posted by 2反田 2008年02月06日 17:46
前回の育英舎『日露戦争実記』ですが、編集の塚越停春も、民友社で国木田独歩の同僚でした。
停春の経歴と独歩年譜とを対照すると、かなり独歩が世話になっているらしい様子があります。
「著者来店」拝見。こっちもつられてニコニコ。Sabudaのpop-up booksに囲まれてこの笑顔なら、一見“オシャレ系”ライターですが、手に『戦時画報』、側に『新古文林』、手前に見切れる「珍世界」号...となると、もう何系とお呼びすればよいのか......。あの写真、公式ポートレートにしましょう。
2. Posted by Hisako 2008年02月06日 21:40
塚越停春と独歩が民友社時代の同僚だったとは……。またもや、盲点をつかれた感じです。そうだったのですか。やはり、どこかでつながっているのですね。
たしかに“オシャレ系”とはほど遠いラインナップですね(笑)。そうか、このなかにロバート・サブダの『不思議の国のアリス』でも持って来て、現代のポップアップ本と明治のグラフ誌の共通点について熱く語る、というのも面白かったかもしれません。
3. Posted by 2反田 2008年02月06日 22:49
塚越停春(芳太郎 1864~1947[元治元~昭和23])は、徳富蘇峰の民友社の創立同人で、『国民之友』創刊(明20.2) 『国民新聞』創刊(明23.2)ともに関り、後に『家庭雑誌』(明25刊)の編集人を務めています。国木田独歩が国民新聞に初めて入社したのは明治27年です。
民友社時代の停春は史論を本領としますが、純文学趣味も強い人で、社内では宮崎湖処子と並ぶ新体詩人であったと伝えられます(ただし変名のものが多く、詳らかでないとも)。
『家庭雑誌』が独歩の原稿をじゃんじゃん載せたのも、末期『国民之友』(明31.8終刊)が、急速に独歩や友人らの文芸同人誌と化すのを社内で容認していたのも、民友社の重鎮にこの人あってのことではないか、と僕は推測しています。
4. Posted by 2反田 2008年02月06日 22:53
塚越は明治39年以後、東京市嘱託となり、41年間にわたり『東京市史稿』を執筆。生前に刊行の『市史稿』は79巻に達しました(他に未刊原稿20数巻)。
著書『郷土東京』(市政人社 昭18)には、木村荘五編「停春樓塚越芳太郎先生書目」及び履歴聞書が付されており、これが唯一の自叙資料と思われます。
戦後、磯村英一『東京を築いた人々』(さえら書房 昭42)に、伝記が収録されました(磯村は戦前に塚越の助手でした)。ただこれは児童書なので、一般読書界にほとんど気づかれなかったのではないでしょうか。しかし磯村は後年、『東京人』(1992.4)に再び塚越について寄稿。これは単行本に収録され(東京人編集室『文化のクリエーターたち』都市出版 1993)、さらに文庫化されました(『江戸・東京を造った人々 2』ちくま学芸文庫 2003)。平成になって書残されたこの一文が、塚越を辛うじて現代につなげています。
5. Posted by Hisako 2008年02月06日 23:47
塚越停春について的確な説明をしていただいて、本当にありがとうございます。それにしても、2反田さんがなぜ塚越停春についてこれほど詳しく知っているのか、今度はその理由の方が気になってしまいました(笑)。
国木田独歩の民友社時代のことは、拙著ではさっと流してしまっただけだったので、塚越停春がそこで果たした役割については、まさに目を開かれる思いです(ご推察はおそらくその通りでしょう)。その後、東京市で41年間(!!)『東京市史稿』を執筆した、ということにも驚きました。
このブログに『日露戦争実記』について書いたことで、塚越停春について知ることができて感謝しています。今度、東京人編集室の『文化のクリエーター』を読んでみます。
6. Posted by かぐら川 2008年02月07日 00:11
このユニークな『日用舶来語便覧』の編者・棚橋一郎氏というのは、あの郁文館をつくった(かつ初代校長の)棚橋さんなんですよね。あらためて認識しました。奇しくも今日が、棚橋さんの命日になります。生まれは、文久二年ですから村井弦斎とほぼ同年になります(1862~1942.02.07)。
ところで、弦斎と棚橋さんが同時に登場する?おもしろいページを見つけました。→http://www.nikkoku.net/tomonokai/toukou_card.html?snum=695
(字数制限があるので、ゴメンナサイ、この続きは拙日記に移しました。)
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20080206
7. Posted by かぐら川 2008年02月07日 00:23
2反田さん、民声新報の独歩については有り難うございました。教えていただいた各資料はすべて、独歩全集10巻に収録されていました。民友社と霜川の関わりも――竹越三叉がらみですが――大きな魅力があります。この点、またあらためて。
8. Posted by Hisako 2008年02月07日 10:21
かぐら川さま、棚橋一郎について教えていただき、ありがとうございました。2月7日が命日なのですか。偶然とはいえ、何か不思議な気持ちになります。
郁文館をつくって初代校長になったことなど、初めて知りました。東京大学予備門の講師時代に、夏目漱石と面識があった可能性など、興味深いですね。しかも、それが『吾輩は猫である』の記述につながっているらしいとは!
「日国友の会」の「ロールキャベツ」の項目に、『日用舶来語便覧』と『食道楽』が両方引いてあるのですね。私も以前、『食道楽』で検索していて、このページにぶつかり、多くの料理用語の初出が、『食道楽』で何年も溯ることができたことを知りました。料理関係の用語で、『食道楽』を見ていない、というのは意外でした。
Hisakoさんのブログ「古書の森日記」より
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/
棚橋一郎・鈴木誠一『日用舶来語便覧』(明治45年4月発行)
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/51276092.html
以下、引用させて頂きます。。。
***
案の定というか、講演会が終わって緊張が解けたのと、ここ数日の寒さもあって、風邪でダウン。寝込む寸前だったが、ヨロヨロとデスクの前に座る。座ってはいるものの、頭はモーローとして原稿はいっこうに進まない――という状態だった。こうしてはいられない……。いま、少々ピンチです。
古書展ではこんなものを安い値段で見つけるとうれしい。写真は明治最後の年に発行されたポケットサイズの『日用舶来語便覧』。表紙はかなり年季が入っているが、総革上製本で、型押しでバラの花の図案がある。当時で65銭だから、かなり高価だったといえるだろう。こういうのが意外に役に立つ。そして、読んでいても面白い。
英語でTHE JAPANIZED WORDSと書かれているように、明治時代に日本語に取り入れられた外来語、カタカナ語が五十音別に掲載され、意味が説明されている。コンパクトな本だが、英・仏・独・ポルトガル・スペイン・オランダ・ロシア・アメリカからの舶来語1500語余りを収録した、とある。
たとえば、「ハイカラ」を引いてみると、
●ハイカラ……高襟 High-collar(英) 高きカラーの義にして普通より丈高きカラー。又は其カラーを着用せる人、今は転じて時流を追ひて服装を飾る人を云ふ。其反対なるを蛮カラとも呼べり。
「ドンタク」は知らない人も多いのでは?
●ドンタク……日曜日 Zundag(蘭) 日曜日のことなれども今は転じて休日の意となる。故に土曜日のことを半ドンと呼ぶに至れり。
さらにこの便覧のすぐれているところは、一般の舶来語とは別分類で、被服の部、飲食の部、器具の部、逍遙後、交通機関、医療の部、薬品の部というように、23項目に細かく分類して舶来語を収録し、その意味を説明している点。関連のある言葉を探すのに便利だ。さらに、巻末付録が非常に充実している。
アルファベット書体
アルファベット発音法
日常会話例
書簡文例
数に関する単語
野球用語
飛行機用語
汽車用語
商用略語及び記号
英語にての掲示
英語にての看板
英語にての広告
世界各国名及び首都の表
各国度量衡貨幣
洋服着用に関する心得
洋食宴会に関する心得
通信要領
税法要領……等々。
このなかにスポーツで唯一「野球用語」があるのも面白いが、「飛行機用語」には意表を衝かれた。何かの間違いかと思ったのだが、本当に飛行機用語だった。パイロットをめざす人のために、という意味なのだろうか。水平舵とか後翼とか発火器とか注油器とか安定などという単語が載っている!(なぜ自動車ではなく、飛行機なの?)
***この記事へのコメント***
1. Posted by 2反田 2008年02月06日 17:46
前回の育英舎『日露戦争実記』ですが、編集の塚越停春も、民友社で国木田独歩の同僚でした。
停春の経歴と独歩年譜とを対照すると、かなり独歩が世話になっているらしい様子があります。
「著者来店」拝見。こっちもつられてニコニコ。Sabudaのpop-up booksに囲まれてこの笑顔なら、一見“オシャレ系”ライターですが、手に『戦時画報』、側に『新古文林』、手前に見切れる「珍世界」号...となると、もう何系とお呼びすればよいのか......。あの写真、公式ポートレートにしましょう。
2. Posted by Hisako 2008年02月06日 21:40
塚越停春と独歩が民友社時代の同僚だったとは……。またもや、盲点をつかれた感じです。そうだったのですか。やはり、どこかでつながっているのですね。
たしかに“オシャレ系”とはほど遠いラインナップですね(笑)。そうか、このなかにロバート・サブダの『不思議の国のアリス』でも持って来て、現代のポップアップ本と明治のグラフ誌の共通点について熱く語る、というのも面白かったかもしれません。
3. Posted by 2反田 2008年02月06日 22:49
塚越停春(芳太郎 1864~1947[元治元~昭和23])は、徳富蘇峰の民友社の創立同人で、『国民之友』創刊(明20.2) 『国民新聞』創刊(明23.2)ともに関り、後に『家庭雑誌』(明25刊)の編集人を務めています。国木田独歩が国民新聞に初めて入社したのは明治27年です。
民友社時代の停春は史論を本領としますが、純文学趣味も強い人で、社内では宮崎湖処子と並ぶ新体詩人であったと伝えられます(ただし変名のものが多く、詳らかでないとも)。
『家庭雑誌』が独歩の原稿をじゃんじゃん載せたのも、末期『国民之友』(明31.8終刊)が、急速に独歩や友人らの文芸同人誌と化すのを社内で容認していたのも、民友社の重鎮にこの人あってのことではないか、と僕は推測しています。
4. Posted by 2反田 2008年02月06日 22:53
塚越は明治39年以後、東京市嘱託となり、41年間にわたり『東京市史稿』を執筆。生前に刊行の『市史稿』は79巻に達しました(他に未刊原稿20数巻)。
著書『郷土東京』(市政人社 昭18)には、木村荘五編「停春樓塚越芳太郎先生書目」及び履歴聞書が付されており、これが唯一の自叙資料と思われます。
戦後、磯村英一『東京を築いた人々』(さえら書房 昭42)に、伝記が収録されました(磯村は戦前に塚越の助手でした)。ただこれは児童書なので、一般読書界にほとんど気づかれなかったのではないでしょうか。しかし磯村は後年、『東京人』(1992.4)に再び塚越について寄稿。これは単行本に収録され(東京人編集室『文化のクリエーターたち』都市出版 1993)、さらに文庫化されました(『江戸・東京を造った人々 2』ちくま学芸文庫 2003)。平成になって書残されたこの一文が、塚越を辛うじて現代につなげています。
5. Posted by Hisako 2008年02月06日 23:47
塚越停春について的確な説明をしていただいて、本当にありがとうございます。それにしても、2反田さんがなぜ塚越停春についてこれほど詳しく知っているのか、今度はその理由の方が気になってしまいました(笑)。
国木田独歩の民友社時代のことは、拙著ではさっと流してしまっただけだったので、塚越停春がそこで果たした役割については、まさに目を開かれる思いです(ご推察はおそらくその通りでしょう)。その後、東京市で41年間(!!)『東京市史稿』を執筆した、ということにも驚きました。
このブログに『日露戦争実記』について書いたことで、塚越停春について知ることができて感謝しています。今度、東京人編集室の『文化のクリエーター』を読んでみます。
6. Posted by かぐら川 2008年02月07日 00:11
このユニークな『日用舶来語便覧』の編者・棚橋一郎氏というのは、あの郁文館をつくった(かつ初代校長の)棚橋さんなんですよね。あらためて認識しました。奇しくも今日が、棚橋さんの命日になります。生まれは、文久二年ですから村井弦斎とほぼ同年になります(1862~1942.02.07)。
ところで、弦斎と棚橋さんが同時に登場する?おもしろいページを見つけました。→http://www.nikkoku.net/tomonokai/toukou_card.html?snum=695
(字数制限があるので、ゴメンナサイ、この続きは拙日記に移しました。)
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20080206
7. Posted by かぐら川 2008年02月07日 00:23
2反田さん、民声新報の独歩については有り難うございました。教えていただいた各資料はすべて、独歩全集10巻に収録されていました。民友社と霜川の関わりも――竹越三叉がらみですが――大きな魅力があります。この点、またあらためて。
8. Posted by Hisako 2008年02月07日 10:21
かぐら川さま、棚橋一郎について教えていただき、ありがとうございました。2月7日が命日なのですか。偶然とはいえ、何か不思議な気持ちになります。
郁文館をつくって初代校長になったことなど、初めて知りました。東京大学予備門の講師時代に、夏目漱石と面識があった可能性など、興味深いですね。しかも、それが『吾輩は猫である』の記述につながっているらしいとは!
「日国友の会」の「ロールキャベツ」の項目に、『日用舶来語便覧』と『食道楽』が両方引いてあるのですね。私も以前、『食道楽』で検索していて、このページにぶつかり、多くの料理用語の初出が、『食道楽』で何年も溯ることができたことを知りました。料理関係の用語で、『食道楽』を見ていない、というのは意外でした。
大柳賢太氏の作品
http://www.creatorsbank.com/portfolio/?id=atorie2960
見ているひとのインスピレーションを刺激する、不思議な匂いのする作品が面白いです。
http://www.creatorsbank.com/portfolio/?id=atorie2960
見ているひとのインスピレーションを刺激する、不思議な匂いのする作品が面白いです。
新聞記事からメモです。。。
» 2008-03-17 17:16(ANSA)
FANTASMI IN CASA, PROPRIETARIO VUOLE ANNULLARE CONTRATTO
http://www.ansa.it/opencms/export/site/notizie/rubriche/daassociare/visualizza_new.html_41015661.html
SPOLETO (PERUGIA) - Non ha trovato in giurisprudenza alcun precedente utile ma l'avvocato Antonio Francesconi sta ancora valutando la possibilità di rivolgersi al tribunale di Spoleto per chiedere l'annullamento dell'acquisto di un casale da parte di un suo cliente il quale sostiene che l' edificio è infestato dagli spiriti.
Vicenda sulla quale ha preso posizione oggi anche la diocesi spoletina escludendo che lì si sia mai svolto alcun esorcismo. Al centro della storia uno stabile di circa 200 metri quadrati su due piani, con oltre tremila metri di terreno annesso, a Santo Chiodo di Spoleto. Gaetano Bastianelli, 57 anni, nell'ottobre del 2005 lo acquistò per 120 mila euro, considerandolo "l'affare della vita", come ha detto al suo legale. Subito dopo però, secondo la sua versione, cominciarono a manifestarsi "strane presenze": rumori di passi, colpi sui muri, mobili caduti senza essere toccati, arnesi andati in fiamme. Tanto da decidere di rivolgersi a un legale per valutare la possibilità di annullare il contratto di acquisto pur di lasciare quella casa. Secondo Bastianelli, infatti, i precedenti proprietari sapevano delle presenze ma non ne avrebbero parlato al momento dell'acquisto.
Oggi l'avvocato Francesconi ha spiegato che "da un punto di vista legale sarebbe astrattamente configurabile un vizio della cosa venduta, secondo l'articolo 1490 del codice civile". "In teoria - ha aggiunto - è come per un vicino fastidioso. Se non informo della sua presenza gli acquirenti questi potrebbero ottenere la risoluzione del contratto". Il legale ha comunque spiegato che finora "nessuna causa è stata avviata, siamo solo in una fase di valutazione della fattibilità", legata anche a questioni strettamente giuridiche come i tempi di prescrizione. Al suo avvocato, Bastianelli ha ribadito che le 'presenze' nella casa erano note ai precedenti proprietari e agli abitanti della zona, tanto che negli anni Settanta - secondo la sua versione - nel casale si erano svolti diversi esorcismi.
Circostanza però negata dalla diocesi spoletina. "A questa Curia - si legge in un comunicato - è noto che i sacerdoti del nostro presbiterio abbiano assistito, nella malattia e nel dolore, chi nella casa in questione abitò. La carità della comunità cristiana non è mancata accanto a chi era nelle difficoltà e nella tribolazione. Non risulta, invece, che sia stato richiesto il ministero dell'Esorcista diocesano. Le disgrazie occorse agli abitanti della casa meritano rispetto e discrezione. Non riguardano, invece, la Curia le questioni giudiziarie ed economiche che sono state sollevate e che hanno sedi proprie per essere esaminate, senza il coinvolgimento degli organi della Chiesa e artate citazioni letterarie". Intanto però l'avvocato Francesconi è convinto che la vicenda integri astrattamente il vizio della cosa venduta e nei prossimi giorni deciderà se avviare l'azione presso il tribunale di Spoleto.
ANSA通信によると、イタリア中部ウンブリア州の男性(57)が、購入した家に幽霊が出るとして売買契約解約の訴訟を起こす準備を始めた。2005年に12万ユーロ(約1800万円)で買ったが、足音や壁をたたく音、家の中の物が燃えるなどの“怪奇現象”に悩まされるようになった。男性側は、法律では「問題のある隣人などの情報を契約時に伝えていなければ、契約を解除できる」とし、これを「幽霊」にも適用できるかどうか検討している。(共同 2008/03/18)
» 2008-03-17 17:16(ANSA)
FANTASMI IN CASA, PROPRIETARIO VUOLE ANNULLARE CONTRATTO
http://www.ansa.it/opencms/export/site/notizie/rubriche/daassociare/visualizza_new.html_41015661.html
SPOLETO (PERUGIA) - Non ha trovato in giurisprudenza alcun precedente utile ma l'avvocato Antonio Francesconi sta ancora valutando la possibilità di rivolgersi al tribunale di Spoleto per chiedere l'annullamento dell'acquisto di un casale da parte di un suo cliente il quale sostiene che l' edificio è infestato dagli spiriti.
Vicenda sulla quale ha preso posizione oggi anche la diocesi spoletina escludendo che lì si sia mai svolto alcun esorcismo. Al centro della storia uno stabile di circa 200 metri quadrati su due piani, con oltre tremila metri di terreno annesso, a Santo Chiodo di Spoleto. Gaetano Bastianelli, 57 anni, nell'ottobre del 2005 lo acquistò per 120 mila euro, considerandolo "l'affare della vita", come ha detto al suo legale. Subito dopo però, secondo la sua versione, cominciarono a manifestarsi "strane presenze": rumori di passi, colpi sui muri, mobili caduti senza essere toccati, arnesi andati in fiamme. Tanto da decidere di rivolgersi a un legale per valutare la possibilità di annullare il contratto di acquisto pur di lasciare quella casa. Secondo Bastianelli, infatti, i precedenti proprietari sapevano delle presenze ma non ne avrebbero parlato al momento dell'acquisto.
Oggi l'avvocato Francesconi ha spiegato che "da un punto di vista legale sarebbe astrattamente configurabile un vizio della cosa venduta, secondo l'articolo 1490 del codice civile". "In teoria - ha aggiunto - è come per un vicino fastidioso. Se non informo della sua presenza gli acquirenti questi potrebbero ottenere la risoluzione del contratto". Il legale ha comunque spiegato che finora "nessuna causa è stata avviata, siamo solo in una fase di valutazione della fattibilità", legata anche a questioni strettamente giuridiche come i tempi di prescrizione. Al suo avvocato, Bastianelli ha ribadito che le 'presenze' nella casa erano note ai precedenti proprietari e agli abitanti della zona, tanto che negli anni Settanta - secondo la sua versione - nel casale si erano svolti diversi esorcismi.
Circostanza però negata dalla diocesi spoletina. "A questa Curia - si legge in un comunicato - è noto che i sacerdoti del nostro presbiterio abbiano assistito, nella malattia e nel dolore, chi nella casa in questione abitò. La carità della comunità cristiana non è mancata accanto a chi era nelle difficoltà e nella tribolazione. Non risulta, invece, che sia stato richiesto il ministero dell'Esorcista diocesano. Le disgrazie occorse agli abitanti della casa meritano rispetto e discrezione. Non riguardano, invece, la Curia le questioni giudiziarie ed economiche che sono state sollevate e che hanno sedi proprie per essere esaminate, senza il coinvolgimento degli organi della Chiesa e artate citazioni letterarie". Intanto però l'avvocato Francesconi è convinto che la vicenda integri astrattamente il vizio della cosa venduta e nei prossimi giorni deciderà se avviare l'azione presso il tribunale di Spoleto.
ANSA通信によると、イタリア中部ウンブリア州の男性(57)が、購入した家に幽霊が出るとして売買契約解約の訴訟を起こす準備を始めた。2005年に12万ユーロ(約1800万円)で買ったが、足音や壁をたたく音、家の中の物が燃えるなどの“怪奇現象”に悩まされるようになった。男性側は、法律では「問題のある隣人などの情報を契約時に伝えていなければ、契約を解除できる」とし、これを「幽霊」にも適用できるかどうか検討している。(共同 2008/03/18)
今日は朝からいつもお世話になっているお寺でお彼岸のお手伝いをさせて頂きました。穏やかな日和だったせいかお参りのかたがたくさんありました。
このお寺には、じつは我が家の六代前、五代前の先祖たちの墓があります。計算上、ひとりのひとに対して六代前の先祖は「2の5乗=32」名いることになります。が、歴史が好きな私にしても、残念ながら、32名すべてのお墓にお参りすることはできません。お墓がどこにあるかという情報はおろか、名前すらわからなくなってしまっているひともいるからです。そもそも、亡くなったひとはお墓にいるわけではなさそうです。「千の風」のうたのように遍在しているような気がします。だから、名前はわからなくとも自然に対する感謝や愛の気持ちをいつも持っていることが大切なのかもしれません。そうではありますが、このお寺に、たまたま名前の伝わっている先祖たちが眠っているので、仕事の合間、昼御飯前後の手の空いたときにお参りを済ませ、あとは墓地へのお参りのかたにお線香やおしきびを渡す対応をしていました。そうした仕事をしていましたら、ご住職から「きみの親戚がお参りに来られたよ」と呼ばれました。思いがけなく、曾祖父の弟のお孫さんに当たる方が、六代前、五代前の先祖たちのお墓にお参りに来られたのでした。もちろん初対面です。世代の近い親戚どうしとして名刺交換をし、挨拶を交わしました。
お墓参りにはいろいろ面白いことがあるものです。
このお寺には、じつは我が家の六代前、五代前の先祖たちの墓があります。計算上、ひとりのひとに対して六代前の先祖は「2の5乗=32」名いることになります。が、歴史が好きな私にしても、残念ながら、32名すべてのお墓にお参りすることはできません。お墓がどこにあるかという情報はおろか、名前すらわからなくなってしまっているひともいるからです。そもそも、亡くなったひとはお墓にいるわけではなさそうです。「千の風」のうたのように遍在しているような気がします。だから、名前はわからなくとも自然に対する感謝や愛の気持ちをいつも持っていることが大切なのかもしれません。そうではありますが、このお寺に、たまたま名前の伝わっている先祖たちが眠っているので、仕事の合間、昼御飯前後の手の空いたときにお参りを済ませ、あとは墓地へのお参りのかたにお線香やおしきびを渡す対応をしていました。そうした仕事をしていましたら、ご住職から「きみの親戚がお参りに来られたよ」と呼ばれました。思いがけなく、曾祖父の弟のお孫さんに当たる方が、六代前、五代前の先祖たちのお墓にお参りに来られたのでした。もちろん初対面です。世代の近い親戚どうしとして名刺交換をし、挨拶を交わしました。
お墓参りにはいろいろ面白いことがあるものです。
今日は仕事の方1日休みを頂いて、お彼岸中のお寺に朝からお手伝いに行く予定です。最近、鼻が詰まる所為で早くから目が覚めてしまい、今朝もラジオニュースを聴きながら、歌誌「塔」3月号を読んでいます。心配なチベットのこと、アメリカドル安のこと、日銀総裁のこと、花粉飛散量のことなどが気になります。
「塔」3月号。まず、河野美砂子さんの韻律論がすごく面白いです。そして江戸雪さんの連作「耳底」の三首目、四首目。引かせていただきます。
曇天の過剰な深さに眩(くら)みたるいちにち青いハンカチ失くす 江戸雪
迷いたるわれの耳へと風の吹く正しいことを選ぶのではない 江戸雪
風。中原中也の詩の、
ここが私の故郷(ふるさと)だ
吹きくる風が私に言ふ
お前はなにをしてきた、と
を思い出します。
「塔」3月号。まず、河野美砂子さんの韻律論がすごく面白いです。そして江戸雪さんの連作「耳底」の三首目、四首目。引かせていただきます。
曇天の過剰な深さに眩(くら)みたるいちにち青いハンカチ失くす 江戸雪
迷いたるわれの耳へと風の吹く正しいことを選ぶのではない 江戸雪
風。中原中也の詩の、
ここが私の故郷(ふるさと)だ
吹きくる風が私に言ふ
お前はなにをしてきた、と
を思い出します。
確たる史料を見た上で確認検証しないことには何とも言えないことですが、気になります。。
***
2ch「セルゲイ=プロコフィエフ(1891-1953)」32の発言
http://piza.2ch.net/classical/kako/995/995604121.html
プロコフィエフは、自分のピアノスコアに楽器用法などの詳細な指示を書き込んでいた。
後は最も多い時で三人雇っていた秘書に管弦楽総譜への清書を任せていたのさ。
移調楽器も全部ハ調で書いて、後は秘書にお任せって感じだった。
その中でも、パベル・アレクサンドロヴィチ・ラムという人は他の作曲家の楽譜の校訂とかで結構有名だよ。
プロコフィエフの使っていた五線紙は、余白が大きい特注だったのよ。
そこにいろいろ書き込むワケだ。
ショスタコの「証言」のゴーストライターの件は、その辺りが曲解されたものと思われる。
以前プロコスレがあった時も同じこと書いたよ(藁。
漫画家の仕事に似てるね。
他の作曲家は、全部自分でやっていたのだろうか。
そういうことって、どの本見ても載ってないね。
それから、ボリショイ劇場に雇われていた編曲家が、
プロコオリジナルの「ロミオとジュリエット」を踊りやすいように改竄したのも有名な話だよ。
同じ編曲家かどうか知らないけど、「石の花」も改竄されているとショスタコの「証言」にはあるね。
あの本、プロコも気の毒だけど、ショスタコ本人も誤解される原因になっちゃったね。
***
(以下は、2008年1月某日の日記に引用させて頂いた記事です。)
「プロコフィエフ」より
http://mkvsinter7.hp.infoseek.co.jp/prokofiev/indexp.htm
(前略)
[オーケストレーションはゴーストライター?]
プロコフィエフのオーケストレーションについてですが、実は自分でやっていなかったという説があります。具体的にはオーケストレーションに卓越していた編曲家を(数人?)雇っていて、プロコフィエフ自身は常にピアノ譜だけを書いていたとされています。そしてその原曲を元に管弦楽化される訳ですが、その際の細かい注意点なども自筆譜には記されていたとされています。
ちなみにこういうことは必ずしも珍しいことではなく、またロシアの作曲家でもそうした前例はあるようなのですが、しかし楽譜の細部にこだわる話しが多いクラシック音楽の世界では、やはりこの点はちょっと異質な感じがすることも確かです。それと詳細については当然のことながら厳重に隠ぺいされているため、なかなかその詳しい部分については分からない面もあります。
しかしブルックナーの版の問題や、マーラーの改訂版のこと、特に交響曲第十番のデリック・クックによる補筆完成版では、その信憑性をめぐって裁判沙汰にまでなっていますし、また古くはモーツァルトのレクイエムもそうですが、クラシック音楽の世界ではこうして楽譜の具体的な部分が語られることが多い中、要はそのどこまでが作曲者本人によるものなのか、あるいは意図したものなのか、もっと言えば、それが本物と言えるのかどうかが問題となるのです。
そうした観点から見ればこのプロコフィエフの方はまさに次元の違う話しで、こうなるとコメントのしようもありません。例えば漫画家が大まかな部分だけ書き、後の細かい部分についてはアシスタントたちに分担して任せるという感じでしょうか。そういう意味ではプロコフィエフ作曲というより、プロコフィエフ監修とした方がいいのかもしれません。
こうした例は他にもあると書きましたが、それでも普通に考えてオーケストレーションは作曲そのものですし、まず大抵は作曲家本人がそのすべてを自分で書き上げるものです。それが普通ですし大前提です。ですからこうしたプロコフィエフのやり方をショスタコビッチは「証言」の中で厳しく批判していますが、しかしこれについても必ずしも事実に基づいていないのではないかという意見もあり、事は複雑です。
ある研究者によればこうしたゴーストライターによる「清書」は、プロコフィエフが売れっ子作曲家だったアメリカ時代を中心としたもので、その後のソ連帰国後には再び自らの手でオーケストレーションを書き上げているとも言われますし、また一旦「清書」されたスコアについては、プロコフィエフが当然のことながら入念にチェックし、最終的な完成品に仕上げていると考えることもできます。
しかしいずれにしろ現段階ではそうした具体的な資料や考察に乏しく、つまり実際のところがどれほどのものだったのか分かりません。そこにはやはり「後ろめたさ」からくる隠匿があったことは推測できますし、また同時のそのことがこの問題をより複雑で致命的なものにしています。そして恐らくこのことが、こうした事情を知る評論家や研究者にとっての評価がどうも今一つ、その生前と現在での圧倒的な人気に比べると冴えない点にあると言えるでしょう。
(後略)
***
2ch「セルゲイ=プロコフィエフ(1891-1953)」32の発言
http://piza.2ch.net/classical/kako/995/995604121.html
プロコフィエフは、自分のピアノスコアに楽器用法などの詳細な指示を書き込んでいた。
後は最も多い時で三人雇っていた秘書に管弦楽総譜への清書を任せていたのさ。
移調楽器も全部ハ調で書いて、後は秘書にお任せって感じだった。
その中でも、パベル・アレクサンドロヴィチ・ラムという人は他の作曲家の楽譜の校訂とかで結構有名だよ。
プロコフィエフの使っていた五線紙は、余白が大きい特注だったのよ。
そこにいろいろ書き込むワケだ。
ショスタコの「証言」のゴーストライターの件は、その辺りが曲解されたものと思われる。
以前プロコスレがあった時も同じこと書いたよ(藁。
漫画家の仕事に似てるね。
他の作曲家は、全部自分でやっていたのだろうか。
そういうことって、どの本見ても載ってないね。
それから、ボリショイ劇場に雇われていた編曲家が、
プロコオリジナルの「ロミオとジュリエット」を踊りやすいように改竄したのも有名な話だよ。
同じ編曲家かどうか知らないけど、「石の花」も改竄されているとショスタコの「証言」にはあるね。
あの本、プロコも気の毒だけど、ショスタコ本人も誤解される原因になっちゃったね。
***
(以下は、2008年1月某日の日記に引用させて頂いた記事です。)
「プロコフィエフ」より
http://mkvsinter7.hp.infoseek.co.jp/prokofiev/indexp.htm
(前略)
[オーケストレーションはゴーストライター?]
プロコフィエフのオーケストレーションについてですが、実は自分でやっていなかったという説があります。具体的にはオーケストレーションに卓越していた編曲家を(数人?)雇っていて、プロコフィエフ自身は常にピアノ譜だけを書いていたとされています。そしてその原曲を元に管弦楽化される訳ですが、その際の細かい注意点なども自筆譜には記されていたとされています。
ちなみにこういうことは必ずしも珍しいことではなく、またロシアの作曲家でもそうした前例はあるようなのですが、しかし楽譜の細部にこだわる話しが多いクラシック音楽の世界では、やはりこの点はちょっと異質な感じがすることも確かです。それと詳細については当然のことながら厳重に隠ぺいされているため、なかなかその詳しい部分については分からない面もあります。
しかしブルックナーの版の問題や、マーラーの改訂版のこと、特に交響曲第十番のデリック・クックによる補筆完成版では、その信憑性をめぐって裁判沙汰にまでなっていますし、また古くはモーツァルトのレクイエムもそうですが、クラシック音楽の世界ではこうして楽譜の具体的な部分が語られることが多い中、要はそのどこまでが作曲者本人によるものなのか、あるいは意図したものなのか、もっと言えば、それが本物と言えるのかどうかが問題となるのです。
そうした観点から見ればこのプロコフィエフの方はまさに次元の違う話しで、こうなるとコメントのしようもありません。例えば漫画家が大まかな部分だけ書き、後の細かい部分についてはアシスタントたちに分担して任せるという感じでしょうか。そういう意味ではプロコフィエフ作曲というより、プロコフィエフ監修とした方がいいのかもしれません。
こうした例は他にもあると書きましたが、それでも普通に考えてオーケストレーションは作曲そのものですし、まず大抵は作曲家本人がそのすべてを自分で書き上げるものです。それが普通ですし大前提です。ですからこうしたプロコフィエフのやり方をショスタコビッチは「証言」の中で厳しく批判していますが、しかしこれについても必ずしも事実に基づいていないのではないかという意見もあり、事は複雑です。
ある研究者によればこうしたゴーストライターによる「清書」は、プロコフィエフが売れっ子作曲家だったアメリカ時代を中心としたもので、その後のソ連帰国後には再び自らの手でオーケストレーションを書き上げているとも言われますし、また一旦「清書」されたスコアについては、プロコフィエフが当然のことながら入念にチェックし、最終的な完成品に仕上げていると考えることもできます。
しかしいずれにしろ現段階ではそうした具体的な資料や考察に乏しく、つまり実際のところがどれほどのものだったのか分かりません。そこにはやはり「後ろめたさ」からくる隠匿があったことは推測できますし、また同時のそのことがこの問題をより複雑で致命的なものにしています。そして恐らくこのことが、こうした事情を知る評論家や研究者にとっての評価がどうも今一つ、その生前と現在での圧倒的な人気に比べると冴えない点にあると言えるでしょう。
(後略)
新聞記事などからのメモです。。。
画像:親鸞の木像の胎内には、和紙に包まれて遺骨が納められていた=14日午後3時48分、京都市下京区の常楽寺で(朝日新聞記事)
***
「親鸞の遺骨?が木像胎内から 京都・常楽寺」
(2008年03月14日22時57分朝日新聞記事)
浄土真宗の宗祖・親鸞(1173~1262)のものとみられる遺骨が14日、同宗本願寺派の常楽寺(常楽台、京都市下京区)が所蔵する親鸞の座像の中から見つかった。寺に言い伝えがあり、根立研介・京都大教授(日本美術史)らが調べたところ、その通り中に納められていた。
常楽寺は、親鸞の玄孫(孫の孫)の存覚(ぞんかく)(1290~1373)が開いた。存覚は父の本願寺第3世・覚如(かくにょ)から親鸞の遺骨を受け継いだとの記録が残り、寺には骨片を納めた宝塔が伝わる。親鸞が念仏を唱える姿を彫った木像は江戸中期の作とみられ、寄せ木造りで高さ24.2センチ。首をはずして胎内を調べると、胸付近に和紙にくるんだ骨粉があった。
同寺では昨秋、所蔵する親鸞の肖像の掛け軸の軸木から、「親鸞の遺骨を銀の筒に籠め、宝永3(1706)年、遺骨を取り出し、宝塔に納めた」と記された墨書が見つかった。今小路覚真住職は「木像の胎内にも遺骨を納めたと言い伝えられてきた」という。
根立教授は「筒から遺骨を取り出した前後に木像を作り、骨の一部を納めたのではないか」とみている。木像は、4月18日~5月25日、広島県立美術館(広島市中区)で開かれる「本願寺展」で初公開される。
http://www.asahi.com/culture/update/0314/OSK200803140137.html
***
「親鸞の遺骨?発見、京都・常楽台の親鸞座像の胎内に」
(2008年3月15日読売新聞記事)
浄土真宗の宗祖・親鸞(1173~1262)の遺骨とされる骨粉が、同宗本願寺派(本山・西本願寺)寺院、常楽台(京都市下京区)が所蔵する木造の親鸞座像の胎内から見つかった。常楽台は本願寺第3世で親鸞のひ孫、覚如(かくにょ)(1270~1351)の長男、存覚(ぞんかく)(1290~1373)が創建した寺で、親鸞座像の内部に遺骨を納めたと伝えられていた。
親鸞座像は江戸時代中期の作とみられる。親鸞が念仏を唱える姿とされ、高さ約25センチの寄せ木造り。頭部を外したところ、紙で包まれた骨粉が胎内に納められていたという。
常楽台では、昨年7月、所蔵する肖像画「親鸞聖人影像(花の御影)」の掛け軸の表具の軸表面に、「1667年(寛文7年)6月に高祖等身(親鸞)夢想の御真影を修復し、御骨舎利を銀筒に籠(こ)めた」「1706年(宝永3年)6月、遺骨を取り出し、宝塔に納めた」などと記されていたことがわかった。
調査に立ち会った根立研介・京都大教授(日本美術史)は「座像の作られた江戸時代中期に、骨が納められたのではないか」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20080315p201.htm
***
「親鸞の遺骨示す墨書発見 下京・常楽台 宝塔の骨片に裏付け」
(2007年9月18日(火)京都新聞記事)
鎌倉時代の高僧で浄土真宗の宗祖・親鸞の遺骨を、塔の形をした容器(宝塔)に納めたと記した墨書が18日までに、京都市下京区の浄土真宗本願寺派の寺院・常楽台で見つかった。実際に骨片とみられるものが常楽台の宝塔(高さ約35センチ)に納められている。墨書は江戸時代に書かれたものだが、宗派の本願寺史料研究所(下京区)は「状況からして、親鸞の遺骨である可能性が極めて高い」としている。
常楽台は親鸞の曾孫(ひまご)・覚如の長男の存覚が開いた。墨書は存覚が南北朝時代に画工に描かせたといわれる「親鸞聖人影像(花の御影(ごえい))」(縦約130センチ、横約80センチ)の下部の軸木にあった。「高祖等身夢想の御真影を修復し奉る 則ち御骨舎利を銀筒に収めた」「宝永三年六月十七日に遺骨を取り出し、宝塔に納めた」と書かれていた。当初使われていた筒状の軸木の中に入れられていた遺骨を、修復当時の常楽台住職・寂恵が取り出し、宝塔に納めたとみられる。
親鸞の血筋に当たる存覚は覚如に勘当されたが、一時期は本願寺教団の後継者の立場にあり、また宗祖の遺骨をあえて見えないところに納めていたという状況から、調査した研究所は親鸞の遺骨の可能性が高いと判断したという。
親鸞の遺骨は各地にあるといわれる。親鸞の直弟子が開いた三重県津市の専修寺(真宗高田派本山)や新潟県上越市の浄興寺にあるものが有力とされている。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007091800082&genre=M2&area=K1F
***
「親鸞聖人の遺骨を示す墨書を調査 2007/09/10」
安楽寺住職 千葉乗隆先生(本願寺史料研究所所長)
http://www.anrakuji.net/topics/07syoninikotu.html
(この調査の概要は2007/09/18付け毎日新聞朝刊第一面に、また同日付け京都新聞等々の夕刊に、また2007/09/19付け朝日新聞、徳島新聞等々の朝刊に掲載されました。また、2007/11/24付け京都新聞夕刊に、常楽台今小路覚真住職による「秘するべきか 公開すべきか 常楽台・親鸞聖人の御遺骨」が掲載されました。)
浄土真宗本願寺派の寺院、常楽台が所蔵する「親鸞聖人御影」の修理を始めたところ下部の軸木内に墨書が在り、
「寛文七(1667)年六月下旬 高祖等身夢想の御真影を修復し奉る 則ち御骨舎利を銀の筒に納めた」
「宝永三(1706)年六月一七日 遺骨を取り出し宝塔に納めた」
と記されていました。これらを調査すると共に諸般の状況から常楽台に伝わる宝塔の骨片は 親鸞聖人の遺骨である可能性が高いという調査結果となりました。
***
本願寺展のことなど
http://www2.hongwanji.or.jp/daionki/ka_honganjiten.html
画像:親鸞の木像の胎内には、和紙に包まれて遺骨が納められていた=14日午後3時48分、京都市下京区の常楽寺で(朝日新聞記事)
***
「親鸞の遺骨?が木像胎内から 京都・常楽寺」
(2008年03月14日22時57分朝日新聞記事)
浄土真宗の宗祖・親鸞(1173~1262)のものとみられる遺骨が14日、同宗本願寺派の常楽寺(常楽台、京都市下京区)が所蔵する親鸞の座像の中から見つかった。寺に言い伝えがあり、根立研介・京都大教授(日本美術史)らが調べたところ、その通り中に納められていた。
常楽寺は、親鸞の玄孫(孫の孫)の存覚(ぞんかく)(1290~1373)が開いた。存覚は父の本願寺第3世・覚如(かくにょ)から親鸞の遺骨を受け継いだとの記録が残り、寺には骨片を納めた宝塔が伝わる。親鸞が念仏を唱える姿を彫った木像は江戸中期の作とみられ、寄せ木造りで高さ24.2センチ。首をはずして胎内を調べると、胸付近に和紙にくるんだ骨粉があった。
同寺では昨秋、所蔵する親鸞の肖像の掛け軸の軸木から、「親鸞の遺骨を銀の筒に籠め、宝永3(1706)年、遺骨を取り出し、宝塔に納めた」と記された墨書が見つかった。今小路覚真住職は「木像の胎内にも遺骨を納めたと言い伝えられてきた」という。
根立教授は「筒から遺骨を取り出した前後に木像を作り、骨の一部を納めたのではないか」とみている。木像は、4月18日~5月25日、広島県立美術館(広島市中区)で開かれる「本願寺展」で初公開される。
http://www.asahi.com/culture/update/0314/OSK200803140137.html
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「親鸞の遺骨?発見、京都・常楽台の親鸞座像の胎内に」
(2008年3月15日読売新聞記事)
浄土真宗の宗祖・親鸞(1173~1262)の遺骨とされる骨粉が、同宗本願寺派(本山・西本願寺)寺院、常楽台(京都市下京区)が所蔵する木造の親鸞座像の胎内から見つかった。常楽台は本願寺第3世で親鸞のひ孫、覚如(かくにょ)(1270~1351)の長男、存覚(ぞんかく)(1290~1373)が創建した寺で、親鸞座像の内部に遺骨を納めたと伝えられていた。
親鸞座像は江戸時代中期の作とみられる。親鸞が念仏を唱える姿とされ、高さ約25センチの寄せ木造り。頭部を外したところ、紙で包まれた骨粉が胎内に納められていたという。
常楽台では、昨年7月、所蔵する肖像画「親鸞聖人影像(花の御影)」の掛け軸の表具の軸表面に、「1667年(寛文7年)6月に高祖等身(親鸞)夢想の御真影を修復し、御骨舎利を銀筒に籠(こ)めた」「1706年(宝永3年)6月、遺骨を取り出し、宝塔に納めた」などと記されていたことがわかった。
調査に立ち会った根立研介・京都大教授(日本美術史)は「座像の作られた江戸時代中期に、骨が納められたのではないか」としている。
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20080315p201.htm
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「親鸞の遺骨示す墨書発見 下京・常楽台 宝塔の骨片に裏付け」
(2007年9月18日(火)京都新聞記事)
鎌倉時代の高僧で浄土真宗の宗祖・親鸞の遺骨を、塔の形をした容器(宝塔)に納めたと記した墨書が18日までに、京都市下京区の浄土真宗本願寺派の寺院・常楽台で見つかった。実際に骨片とみられるものが常楽台の宝塔(高さ約35センチ)に納められている。墨書は江戸時代に書かれたものだが、宗派の本願寺史料研究所(下京区)は「状況からして、親鸞の遺骨である可能性が極めて高い」としている。
常楽台は親鸞の曾孫(ひまご)・覚如の長男の存覚が開いた。墨書は存覚が南北朝時代に画工に描かせたといわれる「親鸞聖人影像(花の御影(ごえい))」(縦約130センチ、横約80センチ)の下部の軸木にあった。「高祖等身夢想の御真影を修復し奉る 則ち御骨舎利を銀筒に収めた」「宝永三年六月十七日に遺骨を取り出し、宝塔に納めた」と書かれていた。当初使われていた筒状の軸木の中に入れられていた遺骨を、修復当時の常楽台住職・寂恵が取り出し、宝塔に納めたとみられる。
親鸞の血筋に当たる存覚は覚如に勘当されたが、一時期は本願寺教団の後継者の立場にあり、また宗祖の遺骨をあえて見えないところに納めていたという状況から、調査した研究所は親鸞の遺骨の可能性が高いと判断したという。
親鸞の遺骨は各地にあるといわれる。親鸞の直弟子が開いた三重県津市の専修寺(真宗高田派本山)や新潟県上越市の浄興寺にあるものが有力とされている。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007091800082&genre=M2&area=K1F
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「親鸞聖人の遺骨を示す墨書を調査 2007/09/10」
安楽寺住職 千葉乗隆先生(本願寺史料研究所所長)
http://www.anrakuji.net/topics/07syoninikotu.html
(この調査の概要は2007/09/18付け毎日新聞朝刊第一面に、また同日付け京都新聞等々の夕刊に、また2007/09/19付け朝日新聞、徳島新聞等々の朝刊に掲載されました。また、2007/11/24付け京都新聞夕刊に、常楽台今小路覚真住職による「秘するべきか 公開すべきか 常楽台・親鸞聖人の御遺骨」が掲載されました。)
浄土真宗本願寺派の寺院、常楽台が所蔵する「親鸞聖人御影」の修理を始めたところ下部の軸木内に墨書が在り、
「寛文七(1667)年六月下旬 高祖等身夢想の御真影を修復し奉る 則ち御骨舎利を銀の筒に納めた」
「宝永三(1706)年六月一七日 遺骨を取り出し宝塔に納めた」
と記されていました。これらを調査すると共に諸般の状況から常楽台に伝わる宝塔の骨片は 親鸞聖人の遺骨である可能性が高いという調査結果となりました。
***
本願寺展のことなど
http://www2.hongwanji.or.jp/daionki/ka_honganjiten.html
「塔」3月号・澤辺元一先生の選歌欄から。私が提出した物語短歌連作「かつぱ沼事件」より、掲載歌です。四首。
駐在所のノートに「みたり、ふたり」等あり 日ごとに増え行くかつぱ沼死者
パトカーに潜水艦エンジン搭載す うたかたのかつぱ沼を目指して
かつぱ沼に蒼き木々あり ぬらりぬらりと触手のやうに伸びる枝枝
ブルードーザーは止まれもせねば飛ぶ術もなし ゆくりと落とし穴に消えたり
***
「かつぱ沼事件」 (改稿版)
平凡な陽光(ひかり)に時計もくしやみする 机の縁(ふち)なる鼻毛のひとやま
ある晴れた朝駐在所に届きたる緑のサインのかつぱの予告状(よこく)
駐在所のノートに「みたり、ふたり」等あり 日ごとに増え行くかつぱ沼死者
会議室でかつぱ捕獲は決められぬ 本庁九階赤じゆうたんの部屋
パトカーに潜水艦エンジン搭載す うたかたのかつぱ沼を目指して
かつぱ沼に蒼き木々あり ぬらりぬらりと触手のように伸びる枝枝
しづかなるパトカー三台 山道を踏み分ける音 鹿の鳴き声
ブルドーザーは止まれもせねば飛ぶ術もなし ゆくりと落とし穴に消えたり
Date ... 2007年12月13日
駐在所のノートに「みたり、ふたり」等あり 日ごとに増え行くかつぱ沼死者
パトカーに潜水艦エンジン搭載す うたかたのかつぱ沼を目指して
かつぱ沼に蒼き木々あり ぬらりぬらりと触手のやうに伸びる枝枝
ブルードーザーは止まれもせねば飛ぶ術もなし ゆくりと落とし穴に消えたり
***
「かつぱ沼事件」 (改稿版)
平凡な陽光(ひかり)に時計もくしやみする 机の縁(ふち)なる鼻毛のひとやま
ある晴れた朝駐在所に届きたる緑のサインのかつぱの予告状(よこく)
駐在所のノートに「みたり、ふたり」等あり 日ごとに増え行くかつぱ沼死者
会議室でかつぱ捕獲は決められぬ 本庁九階赤じゆうたんの部屋
パトカーに潜水艦エンジン搭載す うたかたのかつぱ沼を目指して
かつぱ沼に蒼き木々あり ぬらりぬらりと触手のように伸びる枝枝
しづかなるパトカー三台 山道を踏み分ける音 鹿の鳴き声
ブルドーザーは止まれもせねば飛ぶ術もなし ゆくりと落とし穴に消えたり
Date ... 2007年12月13日