カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

セルゲイ=プロコフィエフ

2008-03-17 13:41:15 | Weblog
 確たる史料を見た上で確認検証しないことには何とも言えないことですが、気になります。。

 ***

2ch「セルゲイ=プロコフィエフ(1891-1953)」32の発言
http://piza.2ch.net/classical/kako/995/995604121.html

プロコフィエフは、自分のピアノスコアに楽器用法などの詳細な指示を書き込んでいた。
後は最も多い時で三人雇っていた秘書に管弦楽総譜への清書を任せていたのさ。
移調楽器も全部ハ調で書いて、後は秘書にお任せって感じだった。
その中でも、パベル・アレクサンドロヴィチ・ラムという人は他の作曲家の楽譜の校訂とかで結構有名だよ。
プロコフィエフの使っていた五線紙は、余白が大きい特注だったのよ。
そこにいろいろ書き込むワケだ。
ショスタコの「証言」のゴーストライターの件は、その辺りが曲解されたものと思われる。
以前プロコスレがあった時も同じこと書いたよ(藁。
漫画家の仕事に似てるね。
他の作曲家は、全部自分でやっていたのだろうか。
そういうことって、どの本見ても載ってないね。

それから、ボリショイ劇場に雇われていた編曲家が、
プロコオリジナルの「ロミオとジュリエット」を踊りやすいように改竄したのも有名な話だよ。
同じ編曲家かどうか知らないけど、「石の花」も改竄されているとショスタコの「証言」にはあるね。
あの本、プロコも気の毒だけど、ショスタコ本人も誤解される原因になっちゃったね。

 ***

(以下は、2008年1月某日の日記に引用させて頂いた記事です。)

「プロコフィエフ」より
http://mkvsinter7.hp.infoseek.co.jp/prokofiev/indexp.htm

(前略)
[オーケストレーションはゴーストライター?]
プロコフィエフのオーケストレーションについてですが、実は自分でやっていなかったという説があります。具体的にはオーケストレーションに卓越していた編曲家を(数人?)雇っていて、プロコフィエフ自身は常にピアノ譜だけを書いていたとされています。そしてその原曲を元に管弦楽化される訳ですが、その際の細かい注意点なども自筆譜には記されていたとされています。
ちなみにこういうことは必ずしも珍しいことではなく、またロシアの作曲家でもそうした前例はあるようなのですが、しかし楽譜の細部にこだわる話しが多いクラシック音楽の世界では、やはりこの点はちょっと異質な感じがすることも確かです。それと詳細については当然のことながら厳重に隠ぺいされているため、なかなかその詳しい部分については分からない面もあります。
しかしブルックナーの版の問題や、マーラーの改訂版のこと、特に交響曲第十番のデリック・クックによる補筆完成版では、その信憑性をめぐって裁判沙汰にまでなっていますし、また古くはモーツァルトのレクイエムもそうですが、クラシック音楽の世界ではこうして楽譜の具体的な部分が語られることが多い中、要はそのどこまでが作曲者本人によるものなのか、あるいは意図したものなのか、もっと言えば、それが本物と言えるのかどうかが問題となるのです。
そうした観点から見ればこのプロコフィエフの方はまさに次元の違う話しで、こうなるとコメントのしようもありません。例えば漫画家が大まかな部分だけ書き、後の細かい部分についてはアシスタントたちに分担して任せるという感じでしょうか。そういう意味ではプロコフィエフ作曲というより、プロコフィエフ監修とした方がいいのかもしれません。
こうした例は他にもあると書きましたが、それでも普通に考えてオーケストレーションは作曲そのものですし、まず大抵は作曲家本人がそのすべてを自分で書き上げるものです。それが普通ですし大前提です。ですからこうしたプロコフィエフのやり方をショスタコビッチは「証言」の中で厳しく批判していますが、しかしこれについても必ずしも事実に基づいていないのではないかという意見もあり、事は複雑です。
ある研究者によればこうしたゴーストライターによる「清書」は、プロコフィエフが売れっ子作曲家だったアメリカ時代を中心としたもので、その後のソ連帰国後には再び自らの手でオーケストレーションを書き上げているとも言われますし、また一旦「清書」されたスコアについては、プロコフィエフが当然のことながら入念にチェックし、最終的な完成品に仕上げていると考えることもできます。
しかしいずれにしろ現段階ではそうした具体的な資料や考察に乏しく、つまり実際のところがどれほどのものだったのか分かりません。そこにはやはり「後ろめたさ」からくる隠匿があったことは推測できますし、また同時のそのことがこの問題をより複雑で致命的なものにしています。そして恐らくこのことが、こうした事情を知る評論家や研究者にとっての評価がどうも今一つ、その生前と現在での圧倒的な人気に比べると冴えない点にあると言えるでしょう。
(後略)
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新聞記事などからのメモ

2008-03-17 11:02:28 | Weblog
 新聞記事などからのメモです。。。

画像:親鸞の木像の胎内には、和紙に包まれて遺骨が納められていた=14日午後3時48分、京都市下京区の常楽寺で(朝日新聞記事)

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「親鸞の遺骨?が木像胎内から 京都・常楽寺」
(2008年03月14日22時57分朝日新聞記事)

 浄土真宗の宗祖・親鸞(1173~1262)のものとみられる遺骨が14日、同宗本願寺派の常楽寺(常楽台、京都市下京区)が所蔵する親鸞の座像の中から見つかった。寺に言い伝えがあり、根立研介・京都大教授(日本美術史)らが調べたところ、その通り中に納められていた。
 常楽寺は、親鸞の玄孫(孫の孫)の存覚(ぞんかく)(1290~1373)が開いた。存覚は父の本願寺第3世・覚如(かくにょ)から親鸞の遺骨を受け継いだとの記録が残り、寺には骨片を納めた宝塔が伝わる。親鸞が念仏を唱える姿を彫った木像は江戸中期の作とみられ、寄せ木造りで高さ24.2センチ。首をはずして胎内を調べると、胸付近に和紙にくるんだ骨粉があった。
 同寺では昨秋、所蔵する親鸞の肖像の掛け軸の軸木から、「親鸞の遺骨を銀の筒に籠め、宝永3(1706)年、遺骨を取り出し、宝塔に納めた」と記された墨書が見つかった。今小路覚真住職は「木像の胎内にも遺骨を納めたと言い伝えられてきた」という。
 根立教授は「筒から遺骨を取り出した前後に木像を作り、骨の一部を納めたのではないか」とみている。木像は、4月18日~5月25日、広島県立美術館(広島市中区)で開かれる「本願寺展」で初公開される。

http://www.asahi.com/culture/update/0314/OSK200803140137.html

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「親鸞の遺骨?発見、京都・常楽台の親鸞座像の胎内に」
(2008年3月15日読売新聞記事)

 浄土真宗の宗祖・親鸞(1173~1262)の遺骨とされる骨粉が、同宗本願寺派(本山・西本願寺)寺院、常楽台(京都市下京区)が所蔵する木造の親鸞座像の胎内から見つかった。常楽台は本願寺第3世で親鸞のひ孫、覚如(かくにょ)(1270~1351)の長男、存覚(ぞんかく)(1290~1373)が創建した寺で、親鸞座像の内部に遺骨を納めたと伝えられていた。
 親鸞座像は江戸時代中期の作とみられる。親鸞が念仏を唱える姿とされ、高さ約25センチの寄せ木造り。頭部を外したところ、紙で包まれた骨粉が胎内に納められていたという。
 常楽台では、昨年7月、所蔵する肖像画「親鸞聖人影像(花の御影)」の掛け軸の表具の軸表面に、「1667年(寛文7年)6月に高祖等身(親鸞)夢想の御真影を修復し、御骨舎利を銀筒に籠(こ)めた」「1706年(宝永3年)6月、遺骨を取り出し、宝塔に納めた」などと記されていたことがわかった。
 調査に立ち会った根立研介・京都大教授(日本美術史)は「座像の作られた江戸時代中期に、骨が納められたのではないか」としている。

http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20080315p201.htm

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「親鸞の遺骨示す墨書発見 下京・常楽台 宝塔の骨片に裏付け」
(2007年9月18日(火)京都新聞記事)

 鎌倉時代の高僧で浄土真宗の宗祖・親鸞の遺骨を、塔の形をした容器(宝塔)に納めたと記した墨書が18日までに、京都市下京区の浄土真宗本願寺派の寺院・常楽台で見つかった。実際に骨片とみられるものが常楽台の宝塔(高さ約35センチ)に納められている。墨書は江戸時代に書かれたものだが、宗派の本願寺史料研究所(下京区)は「状況からして、親鸞の遺骨である可能性が極めて高い」としている。
 常楽台は親鸞の曾孫(ひまご)・覚如の長男の存覚が開いた。墨書は存覚が南北朝時代に画工に描かせたといわれる「親鸞聖人影像(花の御影(ごえい))」(縦約130センチ、横約80センチ)の下部の軸木にあった。「高祖等身夢想の御真影を修復し奉る 則ち御骨舎利を銀筒に収めた」「宝永三年六月十七日に遺骨を取り出し、宝塔に納めた」と書かれていた。当初使われていた筒状の軸木の中に入れられていた遺骨を、修復当時の常楽台住職・寂恵が取り出し、宝塔に納めたとみられる。
 親鸞の血筋に当たる存覚は覚如に勘当されたが、一時期は本願寺教団の後継者の立場にあり、また宗祖の遺骨をあえて見えないところに納めていたという状況から、調査した研究所は親鸞の遺骨の可能性が高いと判断したという。
 親鸞の遺骨は各地にあるといわれる。親鸞の直弟子が開いた三重県津市の専修寺(真宗高田派本山)や新潟県上越市の浄興寺にあるものが有力とされている。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007091800082&genre=M2&area=K1F

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「親鸞聖人の遺骨を示す墨書を調査 2007/09/10」
安楽寺住職 千葉乗隆先生(本願寺史料研究所所長)
http://www.anrakuji.net/topics/07syoninikotu.html

(この調査の概要は2007/09/18付け毎日新聞朝刊第一面に、また同日付け京都新聞等々の夕刊に、また2007/09/19付け朝日新聞、徳島新聞等々の朝刊に掲載されました。また、2007/11/24付け京都新聞夕刊に、常楽台今小路覚真住職による「秘するべきか 公開すべきか 常楽台・親鸞聖人の御遺骨」が掲載されました。)

 浄土真宗本願寺派の寺院、常楽台が所蔵する「親鸞聖人御影」の修理を始めたところ下部の軸木内に墨書が在り、
「寛文七(1667)年六月下旬 高祖等身夢想の御真影を修復し奉る 則ち御骨舎利を銀の筒に納めた」
「宝永三(1706)年六月一七日 遺骨を取り出し宝塔に納めた」
と記されていました。これらを調査すると共に諸般の状況から常楽台に伝わる宝塔の骨片は 親鸞聖人の遺骨である可能性が高いという調査結果となりました。

 ***

本願寺展のことなど
http://www2.hongwanji.or.jp/daionki/ka_honganjiten.html
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「塔」3月号掲載歌。

2008-03-17 04:34:14 | Weblog
 「塔」3月号・澤辺元一先生の選歌欄から。私が提出した物語短歌連作「かつぱ沼事件」より、掲載歌です。四首。

駐在所のノートに「みたり、ふたり」等あり 日ごとに増え行くかつぱ沼死者

パトカーに潜水艦エンジン搭載す うたかたのかつぱ沼を目指して

かつぱ沼に蒼き木々あり ぬらりぬらりと触手のやうに伸びる枝枝

ブルードーザーは止まれもせねば飛ぶ術もなし ゆくりと落とし穴に消えたり


 ***

「かつぱ沼事件」 (改稿版)

平凡な陽光(ひかり)に時計もくしやみする 机の縁(ふち)なる鼻毛のひとやま

ある晴れた朝駐在所に届きたる緑のサインのかつぱの予告状(よこく)

駐在所のノートに「みたり、ふたり」等あり 日ごとに増え行くかつぱ沼死者

会議室でかつぱ捕獲は決められぬ 本庁九階赤じゆうたんの部屋

パトカーに潜水艦エンジン搭載す うたかたのかつぱ沼を目指して

かつぱ沼に蒼き木々あり ぬらりぬらりと触手のように伸びる枝枝

しづかなるパトカー三台 山道を踏み分ける音 鹿の鳴き声

ブルドーザーは止まれもせねば飛ぶ術もなし ゆくりと落とし穴に消えたり

Date ... 2007年12月13日
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