最近読んだ興味深い一冊。TBS出身のノンフィクションライター、鈴木明氏の書かれた「追跡―一枚の幕末写真」(集英社、1984/07)。その中に、著者の鈴木氏がパリに住んでいる「高田商会」創業者子孫に会いに行くエピソードが綴られていました。
Amazonサイトより
http://www.amazon.co.jp/%E8%BF%BD%E8%B7%A1%E2%80%95%E4%B8%80%E6%9E%9A%E3%81%AE%E5%B9%95%E6%9C%AB%E5%86%99%E7%9C%9F-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E6%98%8E/dp/4087724921
幕末戊辰戦争の最終戦・五稜郭の戦い前夜、箱館で写された一枚の写真。仏軍人と幕府士官、それぞれ4人が写っていた。8人によって醸しだされる何ともいえない信頼と親しみの雰囲気。いったい彼らは何を話したのだろうか。日本人武士とガイジンとの束の間の出会いに秘められた歴史の影にはナニがあったのか―。一枚の写真に写された男たちの会話を聴きとるために追跡が始まった。一枚の写真が明かしたもうひとつの幕末とは果して何か。
(レビュー記事)
昭和54年の冬、著者は市立函館図書館で一枚の写真に出会う。その写真は複写ではない、額の中にガラスと板の間に挟まれて大切に保管されていた本物の写真で、箱館戦争に於いて榎本軍に加担してエゾ地に集まったフランス軍人4人と旧幕府軍士官4人の集合写真だった。著者はある偶然からその中の一人の日本人が「田島応親」という人物であることを知る。この人を軸にして著者はそこに写された人物が誰であるのかを追跡していく。
その過程でわかったことは幕末に来日して日本に魅せられたフランス人と彼らと関わりを持った旧幕府の人々との明治になってからも続く濃密な関係であり、明治という時代の息吹きであった。出てくる人物は決して有名ではないが、戊辰戦争で戦い生きのび、一度は無価値と認めた「明治」という世界に生存していったのだ。箱館戦争という夢を追った男達の奇跡のような出会いを写した写真に魅せられて、著者はフランス本国まで取材に行き、その子孫を訪ね回る。あまり知られていないが、良質のノンフィクション作品です。
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国立科学博物館のサイトの中に「産業技術の歴史」というコンテンツがあります。そこには、ジョサイア・コンドルの設計で明治33年5月、東京の湯島三組町に竣工されたという「高田商会創業者高田慎蔵邸設計図」の写真があります。
高田商会創業者高田慎蔵邸設計図(ジョサイア・コンドル設計)(京都大学建築学教室所蔵)
http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?&key=102210261592&APage=543
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「系図でみる近現代」
第44回 明治・大正の世に隆盛を誇った高田商会とは?創業者・高田慎蔵、そして、その末裔・高田万由子(08.5.26記)
http://episode.kingendaikeizu.net/44.htm
(前略)
高田慎蔵は、三井物産創業者・益田孝と同様、佐渡の出身であった。
明治新政府のもと、佐渡県外務調査役兼通訳を務めたのち、明治3年、19歳で上京し、外国人商会に勤めた。以後10年間で貿易実務に習熟し、大きな働きぶりで、蓄えも増やしていった。
いづれ独立を考えていた矢先の明治13年、外国人の商売が厳しく制限され、政府は諸官庁に対して、外国商から物品を直接購入する事を禁止した。
そのため、勤めていたベア商会は行き詰まり、明治の初めより来日して貿易商を営んでいたドイツ人、ミカエル・ベアは、撤退・帰国した。
高田慎蔵は、その資産を継承し、ヨーロッパの大手メーカー数社の輸入代理店として動き出した。
当初は、先発の三井物産や大倉組との売込み競争が激しく、一時、大きな損害をこうむったが、持ち前の忍耐力で難関を切り開いて行き、明治の三大貿易商の一つとまで言われる高田商会に発展させていった。
高田商会は、機械・船舶の輸入に実力を発揮し、当時、機械輸入高では、日本の商社中、最大といわれた。
高田商会は、明治20年代には、きわめて洗練された商社へと成長を遂げて行った。東京市内の街灯のすべてが、一夜にして変わった時の施行会社は、高田商会であった。
高田商会は、大学卒の技術者を多数雇い入れ、ロンドン、ニューヨーク、上海などにも支店を置き、海運・土木建築・不動産取引・鉱山業・機械製造などにも事業を拡大した。
日清・日露両戦役では、武器・爆薬・機械の調達で巨利を博し、貿易商としての地位を磐石のものとした。
明治41(1908)年に、合資会社に改組した他、傘下の事業を高田鉱業などの株式会社にして、小規模な財閥を形成するまでになった。
第一次大戦が始まる(1914年)頃、日本で電気事業が発展したが、高田慎蔵がウェスティングハウスの日本総代理権をもっていたところから、高田商会の利益はほとんど独占的となり、機械の値上がりによる利益は莫大なものとなった。
政財界の大物との交遊も広がり、同郷の益田孝(三井財閥大番頭)がつくった、美術品を鑑賞しながら茶をたしなむ大師会の重要メンバーとしても重きをなした。
益田の三井が、鉄・食糧など基幹産業に集中していたのに対し、高田商会は精密機械、電気の絶縁材料などに集中し、東京の都市電化へ貢献した。特に建築に力を注ぎ、高田商会本店(麹町)、自邸(本郷湯島)、別邸(赤坂表町)は、鹿鳴館を設計したコンドルの設計であった。
さて、高田慎蔵の後継者のことに話を移そう。
田中平八、「天下の糸平」と称された彼は、一般的に“相場師”として知られるが、実のところ、明治初期の大実業家であり、財界の大物でもあった。
明治39年、高田慎蔵は二女・雪子に、その田中平八の三男、田中釜吉を婿養子に向かえ、高田釜吉とした。
高田釜吉(明治9年生)は、明治25年、ドイツに留学し、ベルリン工科大学で機械工学を学んだ技術者で、34年に帰国後は、芝浦製作所に入社。さらには、東京電灯(現・東京電力)に招かれ、技術部副部長の要職に就き、技師として売り出し中であった。
慎蔵は釜吉に一目惚れして、この男こそ高田商会を任すに足る人物と見抜き、娘婿にするとともに、明治42年、副社長に就任させた。そして、大正元年には、采配を譲り、56歳で慎蔵自らは、顧問に退いた。
高田釜吉は、妻・雪子との間に一女・愛子をもうけた。
一技師であった高田釜吉は、いきなり、副社長、そして、大正元年、大商社の二代目経営トップとなった。
事業の拡充を図る一方で、花柳界に出撃する回数も増え、その豪遊ぶりから、花柳界では、「釜大尽」と称された。
また、社員たちが、取引先を接待するという名目で料亭に繰り込む風潮が広がり、驕りの気風が高田商会を蝕み始めていた。
欧州大戦中(大正3~7年)は、時の勢いも手伝って、業績は大いに伸びたが、大正10年12月、慎蔵が69歳で病没、この辺りから、高田商会の雲行きが怪しくなっていく。
大正12年4月、基幹鉱山であった高田鉱業深田銅山の工場が全焼する事故が起き、そして、9月の関東大震災で、屋台骨が大きく揺らぐ。
輸入品在庫は焼失し、欧米から思惑輸入した各種物資がその後の円相場急騰によって暴落。加えて、帝都復興には、膨大な木材が必要になると睨んで、秩父の山林を買い占めたが、アメリカ等から、大量の安い材木が日本に流入、大赤字となった。
明治・大正と隆盛を誇った高田商会の経営危機がささやかれるようになり、そして、大正14(1925)年2月21日、高田商会は破綻・休業するに至るのである。
現在では、高田商会という大商社があったこと自体、知る人は少ないであろう。
(後略)
Amazonサイトより
http://www.amazon.co.jp/%E8%BF%BD%E8%B7%A1%E2%80%95%E4%B8%80%E6%9E%9A%E3%81%AE%E5%B9%95%E6%9C%AB%E5%86%99%E7%9C%9F-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E6%98%8E/dp/4087724921
幕末戊辰戦争の最終戦・五稜郭の戦い前夜、箱館で写された一枚の写真。仏軍人と幕府士官、それぞれ4人が写っていた。8人によって醸しだされる何ともいえない信頼と親しみの雰囲気。いったい彼らは何を話したのだろうか。日本人武士とガイジンとの束の間の出会いに秘められた歴史の影にはナニがあったのか―。一枚の写真に写された男たちの会話を聴きとるために追跡が始まった。一枚の写真が明かしたもうひとつの幕末とは果して何か。
(レビュー記事)
昭和54年の冬、著者は市立函館図書館で一枚の写真に出会う。その写真は複写ではない、額の中にガラスと板の間に挟まれて大切に保管されていた本物の写真で、箱館戦争に於いて榎本軍に加担してエゾ地に集まったフランス軍人4人と旧幕府軍士官4人の集合写真だった。著者はある偶然からその中の一人の日本人が「田島応親」という人物であることを知る。この人を軸にして著者はそこに写された人物が誰であるのかを追跡していく。
その過程でわかったことは幕末に来日して日本に魅せられたフランス人と彼らと関わりを持った旧幕府の人々との明治になってからも続く濃密な関係であり、明治という時代の息吹きであった。出てくる人物は決して有名ではないが、戊辰戦争で戦い生きのび、一度は無価値と認めた「明治」という世界に生存していったのだ。箱館戦争という夢を追った男達の奇跡のような出会いを写した写真に魅せられて、著者はフランス本国まで取材に行き、その子孫を訪ね回る。あまり知られていないが、良質のノンフィクション作品です。
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国立科学博物館のサイトの中に「産業技術の歴史」というコンテンツがあります。そこには、ジョサイア・コンドルの設計で明治33年5月、東京の湯島三組町に竣工されたという「高田商会創業者高田慎蔵邸設計図」の写真があります。
高田商会創業者高田慎蔵邸設計図(ジョサイア・コンドル設計)(京都大学建築学教室所蔵)
http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?&key=102210261592&APage=543
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「系図でみる近現代」
第44回 明治・大正の世に隆盛を誇った高田商会とは?創業者・高田慎蔵、そして、その末裔・高田万由子(08.5.26記)
http://episode.kingendaikeizu.net/44.htm
(前略)
高田慎蔵は、三井物産創業者・益田孝と同様、佐渡の出身であった。
明治新政府のもと、佐渡県外務調査役兼通訳を務めたのち、明治3年、19歳で上京し、外国人商会に勤めた。以後10年間で貿易実務に習熟し、大きな働きぶりで、蓄えも増やしていった。
いづれ独立を考えていた矢先の明治13年、外国人の商売が厳しく制限され、政府は諸官庁に対して、外国商から物品を直接購入する事を禁止した。
そのため、勤めていたベア商会は行き詰まり、明治の初めより来日して貿易商を営んでいたドイツ人、ミカエル・ベアは、撤退・帰国した。
高田慎蔵は、その資産を継承し、ヨーロッパの大手メーカー数社の輸入代理店として動き出した。
当初は、先発の三井物産や大倉組との売込み競争が激しく、一時、大きな損害をこうむったが、持ち前の忍耐力で難関を切り開いて行き、明治の三大貿易商の一つとまで言われる高田商会に発展させていった。
高田商会は、機械・船舶の輸入に実力を発揮し、当時、機械輸入高では、日本の商社中、最大といわれた。
高田商会は、明治20年代には、きわめて洗練された商社へと成長を遂げて行った。東京市内の街灯のすべてが、一夜にして変わった時の施行会社は、高田商会であった。
高田商会は、大学卒の技術者を多数雇い入れ、ロンドン、ニューヨーク、上海などにも支店を置き、海運・土木建築・不動産取引・鉱山業・機械製造などにも事業を拡大した。
日清・日露両戦役では、武器・爆薬・機械の調達で巨利を博し、貿易商としての地位を磐石のものとした。
明治41(1908)年に、合資会社に改組した他、傘下の事業を高田鉱業などの株式会社にして、小規模な財閥を形成するまでになった。
第一次大戦が始まる(1914年)頃、日本で電気事業が発展したが、高田慎蔵がウェスティングハウスの日本総代理権をもっていたところから、高田商会の利益はほとんど独占的となり、機械の値上がりによる利益は莫大なものとなった。
政財界の大物との交遊も広がり、同郷の益田孝(三井財閥大番頭)がつくった、美術品を鑑賞しながら茶をたしなむ大師会の重要メンバーとしても重きをなした。
益田の三井が、鉄・食糧など基幹産業に集中していたのに対し、高田商会は精密機械、電気の絶縁材料などに集中し、東京の都市電化へ貢献した。特に建築に力を注ぎ、高田商会本店(麹町)、自邸(本郷湯島)、別邸(赤坂表町)は、鹿鳴館を設計したコンドルの設計であった。
さて、高田慎蔵の後継者のことに話を移そう。
田中平八、「天下の糸平」と称された彼は、一般的に“相場師”として知られるが、実のところ、明治初期の大実業家であり、財界の大物でもあった。
明治39年、高田慎蔵は二女・雪子に、その田中平八の三男、田中釜吉を婿養子に向かえ、高田釜吉とした。
高田釜吉(明治9年生)は、明治25年、ドイツに留学し、ベルリン工科大学で機械工学を学んだ技術者で、34年に帰国後は、芝浦製作所に入社。さらには、東京電灯(現・東京電力)に招かれ、技術部副部長の要職に就き、技師として売り出し中であった。
慎蔵は釜吉に一目惚れして、この男こそ高田商会を任すに足る人物と見抜き、娘婿にするとともに、明治42年、副社長に就任させた。そして、大正元年には、采配を譲り、56歳で慎蔵自らは、顧問に退いた。
高田釜吉は、妻・雪子との間に一女・愛子をもうけた。
一技師であった高田釜吉は、いきなり、副社長、そして、大正元年、大商社の二代目経営トップとなった。
事業の拡充を図る一方で、花柳界に出撃する回数も増え、その豪遊ぶりから、花柳界では、「釜大尽」と称された。
また、社員たちが、取引先を接待するという名目で料亭に繰り込む風潮が広がり、驕りの気風が高田商会を蝕み始めていた。
欧州大戦中(大正3~7年)は、時の勢いも手伝って、業績は大いに伸びたが、大正10年12月、慎蔵が69歳で病没、この辺りから、高田商会の雲行きが怪しくなっていく。
大正12年4月、基幹鉱山であった高田鉱業深田銅山の工場が全焼する事故が起き、そして、9月の関東大震災で、屋台骨が大きく揺らぐ。
輸入品在庫は焼失し、欧米から思惑輸入した各種物資がその後の円相場急騰によって暴落。加えて、帝都復興には、膨大な木材が必要になると睨んで、秩父の山林を買い占めたが、アメリカ等から、大量の安い材木が日本に流入、大赤字となった。
明治・大正と隆盛を誇った高田商会の経営危機がささやかれるようになり、そして、大正14(1925)年2月21日、高田商会は破綻・休業するに至るのである。
現在では、高田商会という大商社があったこと自体、知る人は少ないであろう。
(後略)