菅野光亮氏に11年間師事されたジャズピアニスト竹内晴美さんのHPより
http://homepage2.nifty.com/cwo/index.html
竹内さんのご主人が綴られる「つぶやき」コーナーから引用させて頂きます。
***以下、引用部分です***
●菅野先生の国分寺にあるお宅に私たち二人で遊びに行ったら「今日は銀座で仕事だ」という訳で、銀座にあるライブハウス「サイセリア」まで連れていかれた。トリオだったがベースは青島信幸さんで晴美は数曲弾かされた。松竹と東映の人が来ていて「菅野さんは裏番組でもやってるんだからヒドイよ」「俺の所為じゃないよ」なんて言っている。当時火曜サスペンス、木曜サスペンスとか土曜ワイド劇場なんかで必ず菅野さんの名前がクレジットされていた、超売れていた頃である。前にも書いたが作曲することはストレスの溜まる作業なのである、美しい作品を残してくれたが命を縮めたのは確かなのである。そうまでして書いた曲だ、菅野節を聞くと泣けてきて当たり前なのかも知れない。
up date 2000.8.26
●菅野さんのお嬢さんの香里ちゃんが5年振りにフランスから帰国し電話で話した。「フランスはロックに毒されもうだめだ」と言っていた。あとはベルリンかニューヨークしか無いといっている。絵の世界でも駄目になって来ているそうだ。東京のほうがまだましだとも言っていた。彼女はロックの世代である、その彼女がそう思うのだ。世界中病んでいるのかも知れない、我々がシャンソンだタンゴだジャズだと言ってもラジオをつければロックしか流れてこない。30年前は考えられなかった、当時は色々のジャンルの音楽がそこそこで聞けた、だからリスナーは選択することが出来た。現代この状況でジャズの隆盛を叫んでみたところで焼け石に水だろう。此の世にはもっと素晴らしい音楽はいっぱい有るのに今の若者は可哀想だと思う。発信する人、それに携わっている側の責任かも知れない。昔の音楽ディレクターは良く知っていてポリシーを持っていた。この現状を悲しいと思うのはオジンの証拠だと言われるだろうが「何とでも言ってくれ」と開き直っているのである。
up date 2000.8.25
●私たちが菅野先生のレッスンを受けている時、「砂の器」を晴美がコピーしてきた。何とB♭マイナーと転調したところがC♯マイナーだった。菅野さんが譜面を見て「俺がこんな難しい曲書く訳ないだろう馬鹿」と言った。(オリジナルキーはAmとCmである)レコードプレーヤーの回転が早くて半音上で採ってしまったのだ。今はCDの時代だからそんな事はないだろうがあれにゃ参ったよ。カセットはいいかげんだからピッチが合わないことがある。機械を信用しちゃだめだよ。
up date 2000.8.16
●毎年8月15日が来ると悲しい思いがします。1983年8月15日、それは菅野光亮先生の命日だからです。私たちは11年の長きに渡って先生の指導を受けていました。というより仲の良い兄弟という間柄だった。彼の音楽を素晴らしいと思うのは勿論ですが人柄がとても好きでした。夜中によく電話が掛かってきました、八丈島からも掛かってきました。亡くなる数日前「今やってる仕事を片ずけたら、浜松へ行くからな」それが最後の会話でした。浦川へ虹鱒を釣りに行く約束をしてたのです、楽しい期待は早朝の電話連絡で暗転しました。折りしも台風が来ていてホームでしばらく待たされ新幹線に飛び乗ったのです。忘れたくても忘れられない思い出です。今年は7月の義兄の死に続き宮沢さんが亡くなりました、夏はあまり好きな季節に感じられなくなりました。「翳」という菅野先生のオリジナルを聞いて彼を偲びます。
up date 2000.8.15
●菅野さんの音楽は多彩で「シャガールの絵のようだ」と称した頃があった。こんな言い方では解らないかも知れないが、解る人には解る。他の言い方より的確に言い得ていると思う。僕は絵が好きで高校生まで描いていたから少しは解る。菅野先生の母親は画家だった、お宅にお邪魔するとお母さんの何10号かの作品が壁に架けてあった。先生と話す時はレンブラント風とか印象派の誰それ風とかいう表現を使った。お嬢さんはフランスに渡ってもう長い、絵の勉強をしている。未亡人はもともとバイオリニストである、菅野先生の作品はバイオリンの使い方がすごくいい、「泣きのバイオリン」と我々は言っていた。ピアノは勿論本人が弾いていたが泣かせていたもんなあ。あれだけピアノを鳴らせる人はいなかった。スコアと劇伴のオープンテープはほとんど私たちの手許にある。
up date 2000.8.10
●メールで菅野光亮作品集「愛のバラ」の問い合わせがあった。その方は何年も前から「砂の器」の楽譜を探していたそうで、その曲集に載っているかとの問い合わせであった。菅野先生が亡くなって程なく未亡人の紀代さんがピアノ曲集を出版することを計画した。我々弟子たちはすでにアレンジャーとか演奏家になっていたが出版にあたってその編曲を担当することになった。「砂の器」を始め劇伴やLPで発表した曲から12曲を選び、それぞれがアレンジして一冊の曲集が出来上がった。表紙はお嬢さんの香里さんがデザインした。晴美が担当した5曲のうち「砂の器」は難しく書き過ぎて本人も上手く弾けないという難曲に仕上がり「翳」は校正ミスで嘘が書いてある。でも菅野節が感じられるとても良い曲集だと思う。ホームページに載せておいて良かった、こうして問い合わせがあるということは菅野光亮がみんなの心の中に生きているということだ。私たちは菅野さんの曲を演奏している、本当にロマンチックな曲で涙が出てくることがある、美しい曲を残してくれて感謝している。8月15日は菅野先生の命日である。
up date 2000.8.8
***以上で引用終わります***
http://homepage2.nifty.com/cwo/index.html
竹内さんのご主人が綴られる「つぶやき」コーナーから引用させて頂きます。
***以下、引用部分です***
●菅野先生の国分寺にあるお宅に私たち二人で遊びに行ったら「今日は銀座で仕事だ」という訳で、銀座にあるライブハウス「サイセリア」まで連れていかれた。トリオだったがベースは青島信幸さんで晴美は数曲弾かされた。松竹と東映の人が来ていて「菅野さんは裏番組でもやってるんだからヒドイよ」「俺の所為じゃないよ」なんて言っている。当時火曜サスペンス、木曜サスペンスとか土曜ワイド劇場なんかで必ず菅野さんの名前がクレジットされていた、超売れていた頃である。前にも書いたが作曲することはストレスの溜まる作業なのである、美しい作品を残してくれたが命を縮めたのは確かなのである。そうまでして書いた曲だ、菅野節を聞くと泣けてきて当たり前なのかも知れない。
up date 2000.8.26
●菅野さんのお嬢さんの香里ちゃんが5年振りにフランスから帰国し電話で話した。「フランスはロックに毒されもうだめだ」と言っていた。あとはベルリンかニューヨークしか無いといっている。絵の世界でも駄目になって来ているそうだ。東京のほうがまだましだとも言っていた。彼女はロックの世代である、その彼女がそう思うのだ。世界中病んでいるのかも知れない、我々がシャンソンだタンゴだジャズだと言ってもラジオをつければロックしか流れてこない。30年前は考えられなかった、当時は色々のジャンルの音楽がそこそこで聞けた、だからリスナーは選択することが出来た。現代この状況でジャズの隆盛を叫んでみたところで焼け石に水だろう。此の世にはもっと素晴らしい音楽はいっぱい有るのに今の若者は可哀想だと思う。発信する人、それに携わっている側の責任かも知れない。昔の音楽ディレクターは良く知っていてポリシーを持っていた。この現状を悲しいと思うのはオジンの証拠だと言われるだろうが「何とでも言ってくれ」と開き直っているのである。
up date 2000.8.25
●私たちが菅野先生のレッスンを受けている時、「砂の器」を晴美がコピーしてきた。何とB♭マイナーと転調したところがC♯マイナーだった。菅野さんが譜面を見て「俺がこんな難しい曲書く訳ないだろう馬鹿」と言った。(オリジナルキーはAmとCmである)レコードプレーヤーの回転が早くて半音上で採ってしまったのだ。今はCDの時代だからそんな事はないだろうがあれにゃ参ったよ。カセットはいいかげんだからピッチが合わないことがある。機械を信用しちゃだめだよ。
up date 2000.8.16
●毎年8月15日が来ると悲しい思いがします。1983年8月15日、それは菅野光亮先生の命日だからです。私たちは11年の長きに渡って先生の指導を受けていました。というより仲の良い兄弟という間柄だった。彼の音楽を素晴らしいと思うのは勿論ですが人柄がとても好きでした。夜中によく電話が掛かってきました、八丈島からも掛かってきました。亡くなる数日前「今やってる仕事を片ずけたら、浜松へ行くからな」それが最後の会話でした。浦川へ虹鱒を釣りに行く約束をしてたのです、楽しい期待は早朝の電話連絡で暗転しました。折りしも台風が来ていてホームでしばらく待たされ新幹線に飛び乗ったのです。忘れたくても忘れられない思い出です。今年は7月の義兄の死に続き宮沢さんが亡くなりました、夏はあまり好きな季節に感じられなくなりました。「翳」という菅野先生のオリジナルを聞いて彼を偲びます。
up date 2000.8.15
●菅野さんの音楽は多彩で「シャガールの絵のようだ」と称した頃があった。こんな言い方では解らないかも知れないが、解る人には解る。他の言い方より的確に言い得ていると思う。僕は絵が好きで高校生まで描いていたから少しは解る。菅野先生の母親は画家だった、お宅にお邪魔するとお母さんの何10号かの作品が壁に架けてあった。先生と話す時はレンブラント風とか印象派の誰それ風とかいう表現を使った。お嬢さんはフランスに渡ってもう長い、絵の勉強をしている。未亡人はもともとバイオリニストである、菅野先生の作品はバイオリンの使い方がすごくいい、「泣きのバイオリン」と我々は言っていた。ピアノは勿論本人が弾いていたが泣かせていたもんなあ。あれだけピアノを鳴らせる人はいなかった。スコアと劇伴のオープンテープはほとんど私たちの手許にある。
up date 2000.8.10
●メールで菅野光亮作品集「愛のバラ」の問い合わせがあった。その方は何年も前から「砂の器」の楽譜を探していたそうで、その曲集に載っているかとの問い合わせであった。菅野先生が亡くなって程なく未亡人の紀代さんがピアノ曲集を出版することを計画した。我々弟子たちはすでにアレンジャーとか演奏家になっていたが出版にあたってその編曲を担当することになった。「砂の器」を始め劇伴やLPで発表した曲から12曲を選び、それぞれがアレンジして一冊の曲集が出来上がった。表紙はお嬢さんの香里さんがデザインした。晴美が担当した5曲のうち「砂の器」は難しく書き過ぎて本人も上手く弾けないという難曲に仕上がり「翳」は校正ミスで嘘が書いてある。でも菅野節が感じられるとても良い曲集だと思う。ホームページに載せておいて良かった、こうして問い合わせがあるということは菅野光亮がみんなの心の中に生きているということだ。私たちは菅野さんの曲を演奏している、本当にロマンチックな曲で涙が出てくることがある、美しい曲を残してくれて感謝している。8月15日は菅野先生の命日である。
up date 2000.8.8
***以上で引用終わります***