映画的・絵画的・音楽的

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山河ノスタルジア

2016年05月25日 | 洋画(16年)
 『山河ノスタルジア』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)予告編で見て良さそうに思って、映画館に行ってみました。

 本作(注1)の冒頭は第1のパートで、舞台は1999年の汾陽(山西省)。
 スタジオで音楽(注2)に合わせて大勢の若者がダンスの練習をエネルギッシュにしています。
 そして、都市の夜景が映しだされ、花火が何本も打ち上げられます。

 画面は昼間となって、主人公のタオチャオ・タオ)がスクーターに乗りながら、顔見知りに「新年おめでとう」と挨拶しています(旧正月なので)。

 次いで、タオが鏡を見ながら、「自分の顔は頬骨が大きい」などと呟くと、そばにいた幼馴染のリャンズーリャン・ジンドン)が「俺の顔も研究してくれよ」と言ったりします。
 そこへ、もう一人の幼馴染のジンシェンチャン・イー)が顔を出します。
 リャンジーが「ガソリンスタンドの景気は?」と尋ねると、ジンシェンは「まあまあ」と応え、「もう行かなきゃ」と言うので、3人が連れ立って外に出ると、そこには赤い新車(注3)が置かれています。タオが「見せびらかして。でも格好いい」と言うと、ジンシェンは「新世紀も近いから」と応じます。

 画面には、リャンズーとタオが乗ったスクーターが通りを走っているところや、タオが踊ったり歌ったりする姿をリャンズーが見ているところが映し出されます。

 次いで、汾陽文峰塔(注4)が背後に見えるところで、ジンシェンの赤い車が走っています。



 タオがジンシェンの指導でその車を運転しますが、「黄河」と刻まれた石碑にぶつけてしまい、バンパーが取れてしまいます。
 リャンズーが「車は動くのか?」と言うと、ジンシェンは「大丈夫だ。ドイツの技術を信頼しろ」と強がりを言います。

 離れたところで、ジンシェンはタオに「次は2人で来よう。その方がいいだろう?」と言うと、タオは「心が狭いのね」と応えます。
 黄河の氷の上では、リャンズーが花火を上げます。



 こんな風に3人の関係が描かれていきますが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、26年間に及ぶ主人公の女性の生き様を3つのパート(1999年、2014年、そして2025年)に分けて描き出しています。といっても、主人公はずっと地方(山西省)で生活しており、それほど劇的な事件が起こるわけではありません。3番目のパートではほとんど登場しないほどです。でも、3つのパートを通じて描かれるのは、主人公と彼女を取り巻く人々との別れや再会であり、何よりも主人公の息子に対する思いといえるでしょう。それらが、黄河中流域の風景とか、オーストラリアの美しい海岸線の光景などをバックにじっくりと描き出され、見る者を感動させます。

(2)本作は、ジャ・ジャンクー監督の前作『罪の手ざわり』と比較すると、似ている点と異なる点を持っているように思われます。

 異なっている点から挙げると、前作は、4話とも自然死ではない人の死(殺人と自殺)が描かれているのに対し、本作では人との別れは描かれているものの、人の死はタオの父親の自然死が描かれるに過ぎません。

 似ている点については、例えば、2つの作品とも、チャオ・タオが重要な役柄で登場しますし、中国の地方がメインの舞台になっています(注5)。
 また、前作の第2話では花火が象徴的に映し出されますが、本作でも最初のパートでは花火が何度も打ち上げられます。
 さらには、前作が4つの話から構成されているのと同様に、本作も時点の異なる3つのパートから構成されています〔ただ、前作の場合、4つの話の関係性がゆるいのに対し、本作の場合は、3つのパートの関係はかなり緊密なものとなっています(注6)〕。

 モット言えば、前作でも本作でも、最後のエピソードでかなりの捻りが加えられている点に興味を惹かれます。
 すなわち、前作の場合、第1話から第3話においては主人公が殺人を犯すのですが、第4話では主人公の青年が飛び降り自殺をするのです。殺人ということで映画の統一感が保たれるかなと思っていたので、ちょっとはぐらかされた感じがしました(注7)。
 他方、本作の場合、3番目のパートの時点は2025年とされ、近未来ながらSFとも思わせる展開です。ですが、舞台は今のオーストラリアそのままですし、走っている車もむしろ旧式のものです。これは一体何を意味しているのかな、と考えさせます。

 もしかしたら、2025年には、タオの元夫のジンシェンと息子のダオラードン・ズージェン)は依然として上海で暮らしており、ただ、その風景が今のオーストラリアのような感じになっているのかもしれません(注8)。ダオラーが英語しか話せなくなっているというのも、タオと10年以上離れているために共通の話題がなくなってしまっていることを表しているとも受け取れるところです(注9)。

 でも、いくら距離的に・時間的に離れていても母親と息子の関係が消えることはないでしょう。それを象徴するがダオラーの首にかかる鍵であり(注10)、またダオラーが「タオ…」と呟くと、山西省の汾陽で暮らすタオに「タオ…」と呼ぶ声が聞こえたりするのでしょう。

 ラストの、汾陽文峰塔を背景にタオが踊る後ろ姿はとても感動的です。
 ただ、その寂しげな様子を見ると(注11)、タオはジンシェンと離婚する際にダオラーの親権をどうして手放してしまったのか、と思ってしまいます(注12)。
 これは、父親の葬儀の際に、ダオラーを一時的に汾陽まで呼び戻した時にも感じたことですが(注13)。



 でも、それだけ中国は激しく変化しているのであり(注14)、それをなんとか乗り切ろうとすればどうしても個人の感情などはぐっと我慢していかざるをえないのかもしれないとも思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「世界的に評価が高いジャ・ジャンクー監督は、前作「罪の手触り」で激しいバイオレンスをテーマにしたが、本作では一転、家族の、とりわけ母子のヒューマンドラマをじっくりと描いている」として70点をつけています。
 野崎歓氏は、「近未来篇の透徹したセンスに驚嘆する。現在と地続きの未来を垣間見た思いだ。世の中がいかに進歩しようとも、過去を追慕し、自らのルーツを求める想いはむしろ募ることを示して、深々とした感銘を与える。監督の成熟を示す傑作だ」として★5つ(「今年有数の傑作」)をつけています。
 藤原帰一氏は、「経済成長によって中国が得たものもあれば失ったものもある。ジャ・ジャンクーは、中国が失ったものを一人の女性の姿に刻みました。傷はあるけれど、いいところは飛び切りすばらしい映画です」と述べています。
 稲垣都々世氏は、「誰にでもわかる感情を平明に語って、山西省出身、45歳になった監督の真情がじわっと伝わってくる」と述べています。
 菊地成孔氏は、本作においては、「中国人が、まるでアメリカ人のようによく踊る。という事、もう一つ、中国人は、何かと言うと、爆竹やダイナマイトや、日本の花火など比べ物にならないほどのマッシヴで危険な「花火」をやたらと爆発させる。という、知っている人にはよく知っている2点」が、「(音楽で言えば)メロディーであるかの如き重要性」を与えられている、と述べています。



(注1)監督・脚本は、『罪の手ざわり』のジャ・ジャンクー
 原題は「山河故人」(この記事によれば、ジャ・ジャンクー監督は、「中国語の原題『山河故人』の“山河”は日本語の“山河”と同じ意味で、空間を指し、“故人”は日本語と違い、死んだ人の意味ではなく、古い友人を意味します」と答えています)。
 ちなみに、英題は「Mountains May Depart」(劇場用パンフレットのP.11記載の「注1」によれば、出典は旧約聖書イザヤ書54章10の一節で、「山は移り、丘は動いても、わが慈しみはあなたから移ることはない」という意味)。

 なお、主演のチャオ・タオは、『罪の手ざわり』で見ました。

(注2)ペット・ショップ・ボーイズの『Go West』(1993年)。

(注3)フォルクスワーゲンのサンタナ

(注4)例えば、このサイトに画像があります。

(注5)特に、前作の第1話は、本作と同じように山西省が舞台になっています。但し、本作の場合、3番目のパート(2025年)ではオーストラリアがメインの舞台となっています(それでも、ラストに、山西省の汾陽で暮らすタオが登場します!)。

(注6)前作の場合、異なるエピソードに顔を出す人物が若干いるものの、4つの話に登場する人物はそれぞれ異なっていますが、本作の場合は、主人公のタオが3つの時点に登場しますし、それぞれの時点に現れるその他の人物もタオの関係者といえるでしょう。

(注7)『罪の手ざわり』についての拙エントリの「注10」で申し上げましたように、ジャ・ジャンクー監督は、映画全体を「暴力」という観点から捉えているようです。

(注8)ダオラーが父親のジンシェンに、突然「大学を辞めたい。何にも興味がわかない」と言ったりするのも、異国のオーストラリアのことというより、むしろ経済発展を遂げたながらも様々な矛盾が渦巻く上海でのこととした方がわかりやすいのではないでしょうか?

(注9)中国語の先生のミアシルヴィア・チャン)が、「あなたのお母さんの名前は?」と尋ねた時に、ダオラーは「いない。僕は試験官ベビーだ」と答えるくらいなのです。

(注10)下記の「注12」を御覧ください。
 鍵といえば、本作ではもう一つの鍵も登場します。
 第1のパート(1999年)で、タオがジンシェンとの結婚を決めると、リャンズーは汾陽の街から出ていきますが、その際、リャンズーはタオの目の前で自分の家の鍵を遠くに投げ捨てるのです。その鍵をタオは拾ってとっておいたのでしょう、第2のパート(2014年)で、汾陽に戻ってきたリャンズーにその鍵を手渡します。
 リャンズーとは汾陽でずっと友だちでいたかったというタオの気持ちの表れでしょうか?
 ダオラーが持つ鍵と言い、このリャンズーの鍵と言い、本作では鍵が変わらない人間関係をうまく表現しているように思います。

(注11)ただ、荻野洋一氏は、ラストのシーンについて、「彼女は彼女の人生を主体性をもって選択している。犬を連れた趙濤の雪の中の姿を、ただそれじたいとして受容しなければならない。そのことを、あのラストの、再び大音量を取りもどすペット・ショップ・ボーイズ『ゴー・ウェスト』の陳腐なビートが、全面肯定していたのではないだろうか?」と述べていますが。

(注12)タオを演じるチャオ・タオは、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事で、「もし彼女と小さな町で暮らし続けると、ダオラーにはほとんど成功の機会は訪れないでしょう。ある意味、彼女は息子の未来のために自分の幸福を犠牲にしたのです」と述べていますが、中国の母親はそのように現実的に利害損得で考えるものなのでしょうか、日本の母親のように、高校生くらいまで自分の手元で育てて、見極めがつくような年頃になってから都市に送り出す、という方が、ずっとわかりやすいように思うのですが。

(注13)例えばタオは、ダオラーを上海の父親の元に戻す際に、長く一緒にいられるからという理由で特急ではなく各駅停車に乗り込みます。また、タオはダオラーに鍵を渡し、「合鍵作ったの。あなたの家だから持ってて。いつ戻ってきてもいいのよ」と言います。

(注14)例えば第2パートで、肺を患っているリャンズーは故郷の汾陽へ一家を挙げて戻ろうとしますが、河北省邯鄲の駅に日本の新幹線と類似の列車が到着するシーンが映し出され、中国経済の発展ぶりを見せつけられたように思いました。



★★★★☆☆



象のロケット:山河ノスタルジア