『孤独のススメ』を新宿シネマカリテで見ました。
(1)久しぶりにオランダ映画(注1)を見ようと思い、映画館に行ってきました。
本作(注2)の冒頭では、オランダの田園地帯を走るバスが映しだされ、「演奏は難しくない。正しい鍵盤を正しい時に叩けばいい」というバッハの言葉(注3)がバッハの曲とともに流れて、ある村の停留所で一人の男(フレッド:トン・カス)が降ります。
フレッドは、黙って前をしっかり見ながら道を歩き、教会がすぐ近くにある家にたどり着きます。
教会の前の広場では、子供達がサッカーに興じています。
家に入ったフレッドは、椅子に座り、「ヨハン(8歳)」とのラベルが貼られたテープで、バッハの曲(注4)を聴きます。
フレッドは、ふと窓の外を見て家の外に出るや、隣家のカンプス(ポーギー・フランセン)のそばにいてポリ容器を手にしている男(テオ:ルネ・ファント・ホフ)に向かって、「ペテン師め。ガス欠と言っていたな。車を見せてみろ、どこだ?」と怒った口調で言います。
二人は車の通りへ出ますが。車など見当たりません。
フレッドは「車なんかない。嘘つきめ。金を返してくれ」と相手に言います。
場面は変わって、バッハのピアノ曲(注5)が流れて、フレッドの家の庭の草むしりをテオがしていて、それをフレッドが窓から見ています。
次いで、フレッドの家の中の場面。
居間で、フレッドは椅子に座ってコーヒーを飲みます。
そして、その前にはテオが座っています。
フレッドは、テオに缶に入ったクッキーを与えながら、「2度と嘘をつくな。嘘は取り消せない」「作業を終えろ、いいね」と言いますが、わかったかわからないのか、テオは何の返事もしません。
これが、フレッドとテオの出会いの始まりですが、さあこれから二人はどうなるのでしょうか、………?
本作は、妻と子どもを失い一人で生活している男のところに、わけのわからない男(注6)が闖入してきて起こる物語を描いています。原題は「マッターホルン」(注7)。このタイトルでは客を呼べないでしょうが、といって邦題の「孤独のススメ」では内容とかけ離れているでしょう。本作は、孤独を推奨しているワケのものではなく、不思議な男と暮らすうちに、自分を見つめなおし、再出発に向かおうとする男の話ですから。バッハの音楽があふれる一風変わった感じの作品ながら、こうした描き方もあるのだなと興味を惹かれました。
(2)本作の邦題は「孤独のススメ」となっています(注8)。
なるほど、主人公のフレッドは、テオと出会う前は、妻と息子を失って独りで生活していました(注9)。決まった帰宅すると、フレッドは、同じような夕食を作り、6時キッカリに祈りを捧げてそれを独りで食べます。前の壁にかけてある妻と息子の写真を眺めながら。
このフレッドの状態は、劇場用パンフレット掲載の明治大学教授・諸富祥彦氏のエッセイ『孤独の力―ひとりになり、しがらみを手放せば、本当に大切なことが見えてくる』によれば、「自分と向き合うことを回避したまま、ただ時間の過ぎていくのに身を任せてい」るだけで、これでは「孤独」の「悪いこと」の方を生きているに過ぎないようです。
これに対し、諸富氏によれば、どうやら、「私たちを取り囲んでいるしがらみを手放し、「ひとり」になり、「自分と向き合う時間」を持つこと」が「孤独」ということの「ポジティブな面」であるようです。
とはいえ、フレッドは、バスから降りて自分の家にたどり着くまでに庭で水を撒いている人に出会っても、挨拶もしないで黙って前を向いて歩くだけです。「自分と向き合うことを回避し」ているにせよ、フレッドは、まさに「取り囲んでいるしがらみを手放し、「ひとり」にな」っている状況にもあると思われます。
むしろ、彼は、ポジティブでもネガティブでも、いずれにしても「孤独」であって、それを打破するのがテオという他者の闖入ではないでしょうか?
ほとんど何も喋らずに、山羊の真似をするなど酷くオカシナ行動をするテオがフレッドのそばに存在し、テオとのコミュニケーションをつうじて、逆にフレッドは「自分と向き合う時間」を持つようになったのであり、自分から進んで自分と向き合うようになったわけではありません。
劇場用パンフレット掲載の「Director’s Message」でディーデリク・エビンゲ監督は、「自分を解放することは一人ではできませんが、それでいて一人でやらなければなりません」と述べていますが、まさにそのとおりだと思います。自分でやらなくてはならないとしても、自分独りでは出来ないのです。
諸富氏が言うように、「余分な人間関係を「捨てる」勇気を持つことが、人生をタフにさわやかに生きていくためには必要」なのでしょう。
でも、邦題が言うように、単に、「孤独」になって「自分と向き合う時間」を持つことだけでは難しいのではないでしょうか(注10)?
本作のように、他者の契機がなんとしても必要なのではと思えてくるところです(注11)。
そういうことから、邦題の「孤独のススメ」には随分と違和感を覚えました(注12)。
(3)渡まち子氏は、「地味な俳優、少ないせりふ、朴訥としたストーリーと、決して派手さはないのだが、とぼけたユーモアと意外なほど深いテーマが、わずか90分足らずの映画の中に隠されている」として70点をつけています。
遠山清一氏は、「宗教批判になりがちなストーリー展開だが、型にはまった批判を避けて、人間の心の孤独さ、秘めておきたい弱さを見つめる描写に好感が持てる」と述べています。
伊藤隆剛氏は、「オランダの美しい田園地帯と、そこで暮らす変わり者の男の身に起こった出来事をグラフィカルな構図で描き、彼の無個性でミニマルな生活が次第に人間味を帯びていく様子からじわじわと感動を導き出す。J.S.バッハのオルガン曲やシャーリー・バッシーの楽曲が印象的に使用され、音楽ファンもグッとくるシーンが満載だ」と述べています。
(注1)と言って、オランダ映画で見たのはドキュメンタリーの『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』くらいに過ぎませんが。
(注2)監督はディーデリク・エビンゲ(この記事が参考になります)。
原題は『MATTERHORN(マッターホルン)』。
(注3)このサイトの記事では、「驚くことなんて何もありはしない。正しい鍵盤を正しいときに叩けば、あとは楽器が勝手に演奏してくれる」とされています。これはおそらく、オルガンなどの鍵盤楽器の演奏について、ヴァイオリンなどの弦楽器などと比べてバッハが言った言葉ではないかと思われます。
(注4)アリア「憐れみたまえ、わが神よ(Erbarme dich)」(『マタイ受難曲』第39番)。同曲は、例えばこのサイトで聴くことが出来ます。
(注5)平均律クラビア曲集第1巻第1番。同曲は、例えばこのサイトで聴くことが出来ます。
(注6)テオの妻の話によれば、酷い交通事故に遭って以来、人とのコミュニケーションがうまくいかなくなり、さらに方々を徘徊するようになったとのこと(施設に入れても、すぐに出て行ってしまうようです)。
(注7)マッターホルンは、フレッドが妻にプロポーズした場所。テオと一緒に子供達の前で余興をやることで受け取る謝礼(50ユーロ)を貯めて、そこに行こうとフレッドは考えています。
(注8)あるいは邦題は、稲垣浩志の『孤独のススメ』を踏まえて付けられているのかもしれません。でも「たまにはひとりで 寂しく強く考えてみてよ」と歌うこの歌と本作とでは、その雰囲気がかなり違うように思います。
(注9)フレッドが本当に独り切りの生活をしているのかどうかはわかりません。
もしかしたら、毎日勤めに出ていて、そこでは様々な人とコンタクトを持っているのかもしれません。バスで村に戻ってくるフレッドのサラリーマン風な格好から、そんな感じがします(尤も、上記「注7」で触れているように、マッターホルンに行く費用の持ち合わせがないということからすると、勤務先で給与をもらっているわけでもないのかもしれませんが)。
(注10)尤も、邦題で言う「孤独」とは、通常の意味ではなく、諸富氏の言う「ポジティブな面」だけを指しているとしたら、それはそれでも構わないのかもしれません(その場合には、例えば「“孤独”のススメ」くらいにすべきでしょう)。
諸富氏も、同じエッセイで、「「肯定的で、かつ、深い、真に成熟した孤独な生き方」を私は「単独者」として生きる」と呼んでいます」と述べていて、「孤独」という言葉を限定的に使っているようです(とはいえ、話は飛躍してしまいますが、評論家の柄谷行人氏は、「他者」とは異なるものとして「単独者」という用語をかなり前から使っていますが、その場合には、「他者」との交通とかコミュニケーションをめぐっての議論の中であって、「孤独」との関連で「単独者」という用語が使われると、その意味でも違和感を覚えてしまいます)。
(注11)ラストの方でフレッドは、ど派手な格好をした息子のヨハンが歌っているクラブに走りますが、その際も、フレッドは独りで行くのではなくテオの妻の手を携えてのことでした。
(注12)上記「注11」で触れたクラブにおいて、フレッドは、歌っているヨハンと目を見合わせます(ヨハンは、シャーリー・バッシーの『This is My Life』を歌います)。
そこに至る背景には、村人が、フレッドの家の壁に「SODOM & GOMORRAH(ソドムとゴモラ)」と落書きをしたことがあるように思います。というのも、自分の妻の衣装を着るテオと一緒に暮らすフレッドを同性愛者と決めつけての落書きでしょうから。
推測するに、天使の美声を持っていた息子ヨハンが同性愛的嗜好を持っていたため、それをフレッドが強く怒ったらヨハンは家出をしてしまったのでは、そしてフレッドの妻はそのことでフレッドを非難していたところ、交通事故で死んでしまったので、そのことがあってフレッドは周囲に心を閉ざしてしまっていたように思われます。
さらに言えば、フレッド自身も、あるいは同性愛者なのかもしれませんし(テオと一緒にマッターホルンに言ったフレドオは、山が見えるところで感極まってテオと抱き合い「ヨハン!」と叫びます)、フレッドの行動を批判する隣家のカンプスも、テオにすごく関心があるようで、同性愛者なのかもしれません。
こうしてみると、レッテル付けに意味があるとは思えませんが、本作はまさにLGBT映画なのではないでしょうか(ディーデリク・エビンゲ監督は、このインタビュー記事においては、「ゲイ、LGBTといったことは、オランダでは普通に受け入られています。もともと、僕はそういうテーマを意図して作ったわけではないのですが、それを強調するのはオランダの人ではないのかもしれませんね。オランダでは日常的な世界です」と述べています)?
★★★☆☆☆
象のロケット:孤独のススメ
(1)久しぶりにオランダ映画(注1)を見ようと思い、映画館に行ってきました。
本作(注2)の冒頭では、オランダの田園地帯を走るバスが映しだされ、「演奏は難しくない。正しい鍵盤を正しい時に叩けばいい」というバッハの言葉(注3)がバッハの曲とともに流れて、ある村の停留所で一人の男(フレッド:トン・カス)が降ります。
フレッドは、黙って前をしっかり見ながら道を歩き、教会がすぐ近くにある家にたどり着きます。
教会の前の広場では、子供達がサッカーに興じています。
家に入ったフレッドは、椅子に座り、「ヨハン(8歳)」とのラベルが貼られたテープで、バッハの曲(注4)を聴きます。
フレッドは、ふと窓の外を見て家の外に出るや、隣家のカンプス(ポーギー・フランセン)のそばにいてポリ容器を手にしている男(テオ:ルネ・ファント・ホフ)に向かって、「ペテン師め。ガス欠と言っていたな。車を見せてみろ、どこだ?」と怒った口調で言います。
二人は車の通りへ出ますが。車など見当たりません。
フレッドは「車なんかない。嘘つきめ。金を返してくれ」と相手に言います。
場面は変わって、バッハのピアノ曲(注5)が流れて、フレッドの家の庭の草むしりをテオがしていて、それをフレッドが窓から見ています。
次いで、フレッドの家の中の場面。
居間で、フレッドは椅子に座ってコーヒーを飲みます。
そして、その前にはテオが座っています。
フレッドは、テオに缶に入ったクッキーを与えながら、「2度と嘘をつくな。嘘は取り消せない」「作業を終えろ、いいね」と言いますが、わかったかわからないのか、テオは何の返事もしません。
これが、フレッドとテオの出会いの始まりですが、さあこれから二人はどうなるのでしょうか、………?
本作は、妻と子どもを失い一人で生活している男のところに、わけのわからない男(注6)が闖入してきて起こる物語を描いています。原題は「マッターホルン」(注7)。このタイトルでは客を呼べないでしょうが、といって邦題の「孤独のススメ」では内容とかけ離れているでしょう。本作は、孤独を推奨しているワケのものではなく、不思議な男と暮らすうちに、自分を見つめなおし、再出発に向かおうとする男の話ですから。バッハの音楽があふれる一風変わった感じの作品ながら、こうした描き方もあるのだなと興味を惹かれました。
(2)本作の邦題は「孤独のススメ」となっています(注8)。
なるほど、主人公のフレッドは、テオと出会う前は、妻と息子を失って独りで生活していました(注9)。決まった帰宅すると、フレッドは、同じような夕食を作り、6時キッカリに祈りを捧げてそれを独りで食べます。前の壁にかけてある妻と息子の写真を眺めながら。
このフレッドの状態は、劇場用パンフレット掲載の明治大学教授・諸富祥彦氏のエッセイ『孤独の力―ひとりになり、しがらみを手放せば、本当に大切なことが見えてくる』によれば、「自分と向き合うことを回避したまま、ただ時間の過ぎていくのに身を任せてい」るだけで、これでは「孤独」の「悪いこと」の方を生きているに過ぎないようです。
これに対し、諸富氏によれば、どうやら、「私たちを取り囲んでいるしがらみを手放し、「ひとり」になり、「自分と向き合う時間」を持つこと」が「孤独」ということの「ポジティブな面」であるようです。
とはいえ、フレッドは、バスから降りて自分の家にたどり着くまでに庭で水を撒いている人に出会っても、挨拶もしないで黙って前を向いて歩くだけです。「自分と向き合うことを回避し」ているにせよ、フレッドは、まさに「取り囲んでいるしがらみを手放し、「ひとり」にな」っている状況にもあると思われます。
むしろ、彼は、ポジティブでもネガティブでも、いずれにしても「孤独」であって、それを打破するのがテオという他者の闖入ではないでしょうか?
ほとんど何も喋らずに、山羊の真似をするなど酷くオカシナ行動をするテオがフレッドのそばに存在し、テオとのコミュニケーションをつうじて、逆にフレッドは「自分と向き合う時間」を持つようになったのであり、自分から進んで自分と向き合うようになったわけではありません。
劇場用パンフレット掲載の「Director’s Message」でディーデリク・エビンゲ監督は、「自分を解放することは一人ではできませんが、それでいて一人でやらなければなりません」と述べていますが、まさにそのとおりだと思います。自分でやらなくてはならないとしても、自分独りでは出来ないのです。
諸富氏が言うように、「余分な人間関係を「捨てる」勇気を持つことが、人生をタフにさわやかに生きていくためには必要」なのでしょう。
でも、邦題が言うように、単に、「孤独」になって「自分と向き合う時間」を持つことだけでは難しいのではないでしょうか(注10)?
本作のように、他者の契機がなんとしても必要なのではと思えてくるところです(注11)。
そういうことから、邦題の「孤独のススメ」には随分と違和感を覚えました(注12)。
(3)渡まち子氏は、「地味な俳優、少ないせりふ、朴訥としたストーリーと、決して派手さはないのだが、とぼけたユーモアと意外なほど深いテーマが、わずか90分足らずの映画の中に隠されている」として70点をつけています。
遠山清一氏は、「宗教批判になりがちなストーリー展開だが、型にはまった批判を避けて、人間の心の孤独さ、秘めておきたい弱さを見つめる描写に好感が持てる」と述べています。
伊藤隆剛氏は、「オランダの美しい田園地帯と、そこで暮らす変わり者の男の身に起こった出来事をグラフィカルな構図で描き、彼の無個性でミニマルな生活が次第に人間味を帯びていく様子からじわじわと感動を導き出す。J.S.バッハのオルガン曲やシャーリー・バッシーの楽曲が印象的に使用され、音楽ファンもグッとくるシーンが満載だ」と述べています。
(注1)と言って、オランダ映画で見たのはドキュメンタリーの『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』くらいに過ぎませんが。
(注2)監督はディーデリク・エビンゲ(この記事が参考になります)。
原題は『MATTERHORN(マッターホルン)』。
(注3)このサイトの記事では、「驚くことなんて何もありはしない。正しい鍵盤を正しいときに叩けば、あとは楽器が勝手に演奏してくれる」とされています。これはおそらく、オルガンなどの鍵盤楽器の演奏について、ヴァイオリンなどの弦楽器などと比べてバッハが言った言葉ではないかと思われます。
(注4)アリア「憐れみたまえ、わが神よ(Erbarme dich)」(『マタイ受難曲』第39番)。同曲は、例えばこのサイトで聴くことが出来ます。
(注5)平均律クラビア曲集第1巻第1番。同曲は、例えばこのサイトで聴くことが出来ます。
(注6)テオの妻の話によれば、酷い交通事故に遭って以来、人とのコミュニケーションがうまくいかなくなり、さらに方々を徘徊するようになったとのこと(施設に入れても、すぐに出て行ってしまうようです)。
(注7)マッターホルンは、フレッドが妻にプロポーズした場所。テオと一緒に子供達の前で余興をやることで受け取る謝礼(50ユーロ)を貯めて、そこに行こうとフレッドは考えています。
(注8)あるいは邦題は、稲垣浩志の『孤独のススメ』を踏まえて付けられているのかもしれません。でも「たまにはひとりで 寂しく強く考えてみてよ」と歌うこの歌と本作とでは、その雰囲気がかなり違うように思います。
(注9)フレッドが本当に独り切りの生活をしているのかどうかはわかりません。
もしかしたら、毎日勤めに出ていて、そこでは様々な人とコンタクトを持っているのかもしれません。バスで村に戻ってくるフレッドのサラリーマン風な格好から、そんな感じがします(尤も、上記「注7」で触れているように、マッターホルンに行く費用の持ち合わせがないということからすると、勤務先で給与をもらっているわけでもないのかもしれませんが)。
(注10)尤も、邦題で言う「孤独」とは、通常の意味ではなく、諸富氏の言う「ポジティブな面」だけを指しているとしたら、それはそれでも構わないのかもしれません(その場合には、例えば「“孤独”のススメ」くらいにすべきでしょう)。
諸富氏も、同じエッセイで、「「肯定的で、かつ、深い、真に成熟した孤独な生き方」を私は「単独者」として生きる」と呼んでいます」と述べていて、「孤独」という言葉を限定的に使っているようです(とはいえ、話は飛躍してしまいますが、評論家の柄谷行人氏は、「他者」とは異なるものとして「単独者」という用語をかなり前から使っていますが、その場合には、「他者」との交通とかコミュニケーションをめぐっての議論の中であって、「孤独」との関連で「単独者」という用語が使われると、その意味でも違和感を覚えてしまいます)。
(注11)ラストの方でフレッドは、ど派手な格好をした息子のヨハンが歌っているクラブに走りますが、その際も、フレッドは独りで行くのではなくテオの妻の手を携えてのことでした。
(注12)上記「注11」で触れたクラブにおいて、フレッドは、歌っているヨハンと目を見合わせます(ヨハンは、シャーリー・バッシーの『This is My Life』を歌います)。
そこに至る背景には、村人が、フレッドの家の壁に「SODOM & GOMORRAH(ソドムとゴモラ)」と落書きをしたことがあるように思います。というのも、自分の妻の衣装を着るテオと一緒に暮らすフレッドを同性愛者と決めつけての落書きでしょうから。
推測するに、天使の美声を持っていた息子ヨハンが同性愛的嗜好を持っていたため、それをフレッドが強く怒ったらヨハンは家出をしてしまったのでは、そしてフレッドの妻はそのことでフレッドを非難していたところ、交通事故で死んでしまったので、そのことがあってフレッドは周囲に心を閉ざしてしまっていたように思われます。
さらに言えば、フレッド自身も、あるいは同性愛者なのかもしれませんし(テオと一緒にマッターホルンに言ったフレドオは、山が見えるところで感極まってテオと抱き合い「ヨハン!」と叫びます)、フレッドの行動を批判する隣家のカンプスも、テオにすごく関心があるようで、同性愛者なのかもしれません。
こうしてみると、レッテル付けに意味があるとは思えませんが、本作はまさにLGBT映画なのではないでしょうか(ディーデリク・エビンゲ監督は、このインタビュー記事においては、「ゲイ、LGBTといったことは、オランダでは普通に受け入られています。もともと、僕はそういうテーマを意図して作ったわけではないのですが、それを強調するのはオランダの人ではないのかもしれませんね。オランダでは日常的な世界です」と述べています)?
★★★☆☆☆
象のロケット:孤独のススメ
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