映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

太陽

2016年05月13日 | 邦画(16年)
 『太陽』を渋谷ユーロスペースで見ました。

(1)『SR サイタマノラッパー』の入江悠監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、夜景が映しだされるとともに、「21世紀の初頭、ウイルスにより、人類の大半が死亡。かろうじて生き残った人類は、2つに分かれて暮らしていた」といった内容の字幕が流れます。そして、拡声器から、「まもなく日の出です。キュリオ地区に外出した方は速やかに戻りましょう」との音声が繰り返し流れ、サイレンの音が鳴りわたります。

 次の場面では、小屋の中で椅子に縛られている男が、「何でこんなことになるんだ?克哉、話し合おうよ」、「いつまでも門を撤去しないわけじゃない」などと叫びます。
 ですが、克哉村上淳)は、アルコールを飲みながら、「そんなことじゃダメだ」「うるせえ」と縛られた男を投げ飛ばします。
 縛られた男は、どうやらノクス(夜しか生きられないが裕福な人類)で、それを責め苛んでいるのはキュリオ(太陽の下で暮らすものの貧しい人類)のようです。
 ノクスの男が口から血を吐くと、克哉は「あぶねーな、感染するだろう!」と怒ります(ノクスはウイルスに耐性を持っていますが、キュリオは感染すると死んでしまうようです)。
 これに対しノクスの男は、「僕たちは共生できる。一緒に変えていこうと約束したじゃないか」と詰ります。ですが、克哉は、「こんなクソみたいな生活によく我慢してきたもんだ。爺さんらも母さんらも。俺たちの時代で変えなきゃ」と言いながら、戸を開け放ちます。そして、「俺は奴隷じゃない。太陽の子だ!」と叫びます。
 光が差し込むと、縛られているノクスの男は苦しがり、火がついて燃えてしまいます。

 行方不明の男を捜すために捜索隊が出動し、川のそばで焼け焦げた男の遺体を見つけ出します。
 他方、克哉は、「自首して。村が潰される」と求める姉・純子中村優子)のオートバイを奪って逃げ去ってしまいます。そこへ村人がやってきて、「お前のところの克哉のせいで、この村はオシマイだ」と言い、純子やその息子・鉄也神木隆之介)の住む家が燃やされます。
 ここまでは10年前の話ですが、さあ、物語はこれからどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、近未来SFで、人類(と言っても、日本人しか登場しませんが)が原因不明のウイルスの拡散によって2種類に分断されてしまった時に、それぞれの世界で生きる人たちがどのように行動するのかを描き出しています。本作は舞台と映画との融合とされ、現下の社会情勢に合わせて様々なことを考えさせますが、元が舞台作であることから新劇臭さが多分に残っていたり、主役の神木隆之介の絶叫が繰り返されたり、設定そのものに疑問を感じたりしてしまい、余り乗り切れませんでした。

(2)本作と同じような設定のSF物としては、例えば『エリジウム』とか『アップサイドダウン 重力の恋人』が思いつきます。
 前者は、超富裕層が暮らすスペースコロニーと貧困層の住む荒廃した地球とに分断されているという設定ですし、後者は、富裕層が住む惑星と貧困層が暮らす惑星とが近接しているという設定(重力が逆向きに作用しています)です。
 どちらの作品の設定も大層魅力的ながら、すぐ疑問に思えるのは、富裕層と貧困層とが分断されているこうした状態はうまい具合に成立するのだろうか、という点です。
 前者については、富裕層はどうやら地上の貧困層を奴隷同然に働かせて富を得ているようですが、そんな一方的な社会は成立するのでしょうか?また、後者でも、エネルギーの販売を通じて富裕層は富を得ているように見えるところ、貧困層はエネルギーの対価として支払うお金をどのように取得しているのでしょう?

 そして、同じようなことは、本作についても言えるように思われます。
 本作の場合、ノクスが夜間にキュリオ地区にやってきて管理的な業務をしているように見えるものの、その詳細は描かれていません。
 僅かに垣間見られるのは、克哉が引き起こした事件によって課された経済封鎖が解かれて、草一古舘寛治)らが暮らす地区に曽我鶴見辰吾)や金田高橋和也)らのノクスがやってきた時です。ただ、その模様を見ると、まるで動物園の飼育員が動物を取り扱うように、クリオはキュリオの人たちに立ち向かっています(注2)。
 逆に言えば、キュリオは一定の地区の中で自給自足しながら最低限のレベルで暮らしているだけの存在であり、ノクスの生活とは関連性を持っていないような感じです。
 しかしながら、ノクスの人たちの裕福な生活はそんなことで維持できるでしょうか?例えば、その生活に必要な資源をどこから得ているのでしょう?その資源を取引したり、それを加工したりするのは誰なのでしょう(注3)?
 そもそも、ノクスは一体何のためにキュリオ地区にやってくるのでしょう?同じ人類として可哀想な人達の面倒を見る必要があるというヒューマニズム的な見地に立ってのことでしょうか?

 さらに、キュリオ地区自体についてもよくわからない感じがします。
 草一や純子が暮らす家の中の様子を見ると、江戸時代と見紛うような古色蒼然とした有様。僅かに電灯が灯っているだけで(注4)、囲炉裏が掘られていたり、かまどが設けられていたり、挽臼が置いてあったりします。
 でも、周囲を見ると青々とした草地や森が広がっていますから、決して土地が荒廃しているわけでもなさそうです。そうであれば、一定期間農業を継続していれば蓄えが生じ、その取引を通じて財産も形成されるのではないでしょうか(江戸時代にあっても、農村には水呑百姓ばかりでなく豪農も中農も存在しました)?



 それに、この地区はノクスによって経済封鎖されていたとのことながら、なぜキュリオの人たちはそれを黙って受け入れたのでしょう?克哉の行動を見れば、他所の地区に行くのは難しいことではないようです。としたら、生活するのが難しいのなら移住すればと思われるところです(注5)。
 ラストの様子を見ると(注6)、キュリオ地区が鉄条網で囲われているのではなく、むしろ狭く囲われているのはノクスの方ではないかと思われますし。

 本作で描かれているようなノクスとキュリオの分断された状態は、なかなか維持・継続するのが難しいように思いました。
 特に、ノクスの人たちは、いったいどのようなところ(注7)でどのように暮らしているのでしょう?

(3)でも、そんなことは、本作がSFファンタジーであり、設定上の単なる約束事なのですから、あまり詮索するに及ばないことなのかもしれません。

 あるいは、ノクスとキュリオが分断して生活しているというところから、昨今よく言われる格差社会が本作に投影されていると見るべきかもしれません。
 確かに、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「真摯なプロレタリア作家・入江悠の10年後氏の勇姿がここにある」で筆者の森直人氏が言うように(注8)、「神木隆之介や門脇麦らが扮するキュリオの若者たちが苛まれる閉塞感は、軋みの多い社会構造が固定されてなかなか動かないという、二度目の安倍政権下に生きる我々の戯画に他ならない」のかもしれません。
 でも、現代日本で格差社会の下の方で蠢く者達と言っても、本作で描かれるような江戸時代の水呑百姓と見紛うような生活をしているわけではないのではないでしょうか?彼らも、最先端のITデバイスを持っていたりして、現在の情報社会を皆と一緒になって泳いでいるのではないでしょうか(注9)?

 むしろ、見るべきなのは、幼馴染と思える鉄也と(草一の娘:門脇麦)と拓海水田航生)とのトライアングルとか、あるいは草一と、元妻で今は曽我の妻となっている玲子森口瑤子)との関係、草一と純子との関係の方かもしれません。



 その場合には、これらの関係が、ノクスとキュリオの分断という契機によって大きく影響を受けて動き出すのを描いたのが本作ということになるでしょう。

 ただ、この観点から本作を見ると、主役は鉄也と結とされていますが、むしろ草一の方がクローズアップされてきます。とはいえ、キュリオの人間として最後まで耐え忍ぶだけというのでは(注10)、彼を主役としたら映画にならないでしょう。
 そこで本作では、キュリオの鉄也とノクスの森繁との交流のシーンが随分と描かれ、ラストのシーンは彼らの未来に希望を持たせますが、はてさてガソリンスタンドは各地で営業しているのでしょうか(注11)?



(4)渡まち子氏は、「この映画、元が舞台というだけあって、長回しや、ほとんどアップを使用しない引きの映像で占められているので、せっかくの若手俳優の演技があまり堪能できない」などとして55点をつけています。



(注1)監督は、『SR サイタマノラッパー』(DVDで見ました)、『SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』、そして『SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』の入江悠〔『日々ロック』もDVDで見ましたが、なぜ主人公にあのようなわざとらしい演技をさせるのか理解できませんでした〕。
 脚本は、入江監督と原作者の前川知大氏。
 原作は、前川知大氏の戯曲『太陽』〔同氏は同じタイトルの小説(KADOKAWA刊:未読)をも発表〕。

 なお、本作の出演者の内、最近では、神木隆之介は『バクマン。』、古川雄輝は『脳内ポイズンベリー』、古舘寛治は『流れ星が消えないうちに』、高橋和也は『きみはいい子』、森口瑤子は『ソロモンの偽証(後篇・裁判)』(神原の養母役)、村上淳は『グラスホッパー』、鶴見辰吾は『Zアイランド』で、それぞれ見ました。

(注2)例えば、アメリカ占領軍が日本に進駐してきて先ず行ったDDT散布と同じように、曽我たちは草一らにウイルス予防剤を散布します!また、曽我は、キュリオからノクスへの転換手術の応募について集まったキュリオたちに説明をします。

(注3)あるいは、進化したキュリオの中にも序列があって、3Kに従事する者もいるかもしれません。ただ、そうなると、キュリオ側にも格差問題があることになって、キュリオと地続きになるように思えてきます。

(注4)経済封鎖中は電気の供給もストップしていたようです。なお、電気代は元々誰の負担になっていたのでしょう?

(注5)克哉は四国が暮らしやすいと聞いてそちらに向かいました。でも、そこから戻ってきたキュリオの人たちの話や、ノクスが流す映像からすると、四国の状況も悲惨だとのこと。
 ただ、本作の背景の景色を見る限り、どこもかしこも荒廃しているようにはとても思えないところです。それに、日本がダメなら外国に移民することも考えられるでしょう。

(注6)鉄也と森繁古川雄輝)は、一緒にオンボロ車に乗って日本を巡る旅に出かけます。
 森繁はノクスのために昼間は車のトランクに入っていて、運転するのは鉄也です(夜間は交代)。このため森繁は夜の景色しか見られませんが、それでは旅行の意味が半減するのではないでしょうか(月明かりの中で僅かにその形が見えるだけになってしまい、日本の良い所は味わえないことでしょう)?

(注7)ノクスは、太陽に当たると焼け焦げてしまうとされているところからすれば、あるいは地下に住んでいるのかもしれませんし、もしくは東京ドームのようなところで暮らしているのかもしれません。

(注8)森直人氏が言う「プロレタリア作家」とは何でしょう?現代日本のどこにプロレタリアが存在するのでしょう。それに、小林多喜二とか宮本百合子といった過去のプロレタリア作家は、特段新しい文学を生み出すことは出来ませんでした。入江悠監督も、同じように新しい創造的な作品を生み出してはいないということなのでしょうか?

(注9)あるいは、宇多丸氏が述べるように(この記事によっています)、「(本作は)非常に苦くて痛い現実の日本という村問題をSF、フィクション、思考実験という形で容赦なく突きつけてくる」のであり、本作のノクス対キュリオは「地方人対東京人」と見られると言えるかもしれません。でも、水呑百姓が蠢いているというよりも、都市にある最新の作りの家が建てられているにもかかわらず、そこには老人しか住んでいないという状況が、現代の日本の農村でよく見かける姿ではないでしょうか?

(注10)娘の結に乱暴を働いた拓海が、キュリオ地区の代表と思われる男(綾田俊樹)の息子であることから、草一は沈黙を守りますし、玲子がノクスになるために家を出ても、また結が転換手術を受けようとしても受け入れます。さらには、心を寄せていた優子の死までも受け入れざるをえないのです。そして、庭で、純子の弟・克哉が村人による村八分で酷い目に遭おうとも、じっと縁側で座り込んでいるだけなのです。

 なお、草一が村の集会場に連れてこられて皆から「どうして拓海に酷いことをしたのか?」と追求されてもじっと黙りこむ時、草一を取り囲む村人の様子は、まさに新劇において群像を描く手法に類似しているなと思いました(舞台ならばそれでかまわないのでしょうが、映画の画面で見るとリアルさがなくなってしまいます)。また、克哉が村人から酷い目に遭う場面もリアルな感じは受けません。

(注11)そういえば、本作の初めの方ではオートバイが走っていましたが、経済封鎖中のガソリンの給油はどうしているのでしょう(そもそも、この地区の人々はどこからガソリンを得ているのでしょう?中東から?どうやって?)?ガソリンの供給があるくらいなら、電気はもとより、ガスとか水道の供給も考えられ、そうなれば生活水準はもっとずっと向上しているのではないでしょうか?
 なお、草原の中で、鉄也は持っていた地図を取り出して見ながら、「もうどっちに行っていいのかわからない?」と言いますが、草原に作られた道が掲載されている地図とは、いったい誰(ノクスorキュリオ?)がどうやって作成したものなのでしょう?



★★☆☆☆☆



象のロケット:太陽