『日本のいちばん長い日』を新宿ピカデリーで見ました。
(1)終戦記念日にちなんで映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭は、1945年4月5日で、重臣会議(注2)を終えて部屋から出てきた重臣たちが話しています。
東條英機(中嶋しゅう)が「海軍出身の総理では、陸軍はそっぽを向く」と言うと、木戸幸一(矢島健一)が「陸軍がそっぽを向くとは?」と質し、岡田啓介(吉澤健)も「そっぽを向くとは何事だ」と同調します。
元海軍大将の鈴木貫太郎(山崎努)が「私は、固辞しました」と答えると、木戸は「思うところを何でも陛下におっしゃってください」と言います。
次の場面では、昭和天皇(本木雅弘)が、鈴木に対して、「組閣を命ずる」と言うと、鈴木は「自分は77歳の老齢で、耳も遠く首班としては不適当です」と答えます。
更に、天皇が「耳が聞こえなくてもいいから是非に」と言うと、なおも鈴木は「軍人が政治にかかわらないことをモットーとしてきました。この件は拝辞することをお許し願います」と答えます。
ですが、天皇は、「鈴木がいて阿南がいたあの年月が懐かしい」、「もう人がいない。たのむから承知してもらいたい」と言います。
鈴木の家の場面。
鈴木は「困ったことになった」とつぶやきます。
息子の一(小松和重)が、「農商省を辞めて父さんの秘書官になる」と言います。
鈴木が「また狙われるな」と言うと、妻のたか(西山知佐)が「あの時も助かったのですから、大丈夫ですよ」と答えます。
一が「問題は陸軍大臣ですね」と尋ねると、鈴木は「お上は、阿南が懐かしいと言われた」と答えます。
次いで、鈴木は陸軍省に向かい、前陸相の杉山元帥に阿南陸相(役所広司)を打診し、組閣が進められます。
さあ、8月15日の終戦に向けてこれからどんなドラマが展開するのでしょうか、………?
本作で描かれている事柄自体は、最近も玉音放送の原盤が宮内庁から公開されたりして(注3)、ずいぶんと知られており、新鮮味は余り感じられません(注4)。
ただ本作は、1967年版のリメイクで、その時の配役をWikipediaで見ると、そうそうたる俳優の名前が上がっていて(笠智衆とか三船敏郎など)、実に壮観です。それに比べると、本作はイマイチの感は免れないながらも、鈴木貫太郎を演じた山崎努や、阿南惟幾を演じた役所広司、昭和天皇に扮した本木雅弘(注5)などはなかなかの演技を見せています(注6)。
(2)本作は、岡本喜八監督による1967年版のリメイクとのことですから、その映画もなんとかできないかと思っていましたら(以前、DVDで見たことはあるものの、細部は忘れてしまいましたので)、ちょうど終戦記念日の昼間にNHKBSで放映するというので、録画して見てみたところ、取り扱っている中心的な出来事は同じとしても、両者はまるで違う作品だなとの感を深くしたところです。
なにしろ、本作の冒頭は、上に書きましたように1945年の4月の鈴木内閣発足ですが、前作は、ポツダム宣言が発せられた7月26日から始まるのです。
また、本作では、上でも書きましたように昭和天皇が主要な登場人物の一人としてかなりの時間映し出されますが、前作においては、一度もはっきりとは映し出されません(注7)。
それに、前作では、阿南陸相や鈴木首相の家族のことは殆ど描かれませんが(注8)、本作では、家族とトランプに興ずる阿南陸相とか、私邸で着替えをする鈴木首相とかが描かれたり、また昭和天皇と阿南陸相と鈴木首相との近しい関係も映し出されたりします(注9)。
もっと言えば、前作では、横浜警備隊による襲撃(注10)とか、厚木航空隊事件や児玉飛行場の話(注11)など終戦時の混乱がいろいろ取り上げられていますが、本作では横浜警備隊の話がほんの少し描かれるに過ぎません。逆に、本作では東條英機が3回ほど登場しますが、1967年版では目につきません。
要すれば、1967年版の作品は、8月14日から15日にかけての実に長い1日を、様々の場所からどちらかと言えば客観的に(いわばドキュメンタリータッチで)捉えようとしていると思えるのに対し(注12)、本作は、終戦にまで至るプロセス(特に、政治の)を、できるだけ等身大の人間の視点から描き出すことに重点をおいているように思えました(注13)。
(3)本作を見ていると、あれだけの国民を巻き込んだ大きな戦争を終わらせるのは並大抵のことでは出来ないのだな、どうしても様々な手続きが必要になってくるのだな、でもそれにしてもずいぶんと各種の重要会議が設けられ、会議続きの有り様だったな、と思えてきます(注14)。
本作の冒頭では、「重臣会議」が登場しますし(注15)、しばらくすると「陸軍三長官会議」なるものも出てきます(注16)。
さらに、「最高戦争指導者会議」があり(注17)、また「閣議」(注18)や「御前会議」(注19)が何度も映し出されます。
映画で見るだけでこのくらいですから、先の戦争の遂行に関し、実際にはもっとたくさんの重要会議が設けられて開催されていたものと思われます(注20)。
にもかかわらず、いやだからこそかもしれませんが、例えば陸軍と海軍との激しい確執は最後まで継続しましたし、またポツダム宣言の受諾にも余計な日数がかかってしまいました。
こうしたことになるのも、各分野の最高責任者が最終的な決定を下して物事を推進していくというよりも、関係者皆の合意のもとに物事が進められていくという日本の組織のあり方にもしかしたらよるのではないか、実際には、戦争遂行について誰が最終的な決定権を持つのか曖昧のままに(例えば、軍部と政府の役割分担が明確でないままに)戦争に突入してしまい、関係者皆の合意を得るために各種の類似する会議がバタバタと設けられたのではないか、と思われます(ずいぶんと大雑把な見方に過ぎませんが)。
こうした有り様は、なにも当時のことにかぎらず、例えば、2020年の東京オリンピックに向けた新国立競技場の建設問題についても、新たな会議が設けられ(注21)、どこが最終的に責任を持つのかが曖昧のままとなって、重大な問題点が指摘されたにもかかわらず、いつまでたっても当初計画の見直しができないことになってしまいました。
(4)渡まち子氏は、「リメイクであること、結果がわかっている歴史的事件であることを差し引いても、緊張感を途切れさせない演出は、見ごたえがある仕上がりだ」として70点をつけています。
宇田川幸洋氏は、「みごとなロケセットと撮影のなかで展開されるエリートたちの葛藤に、歴史の感慨よりも、ただ、むなしさを感じる」として★3つをつけています。
読売新聞の大木隆士氏は、「透徹した視線で史実を重ね、日本の運命を描いた。ただそれゆえ、徹底抗戦を唱える青年将校たちが最後に見せる情念の爆発は、弱まったように感じた」などと述べています。
立花隆氏は、雑誌『文藝春秋』9月号に掲載されたエッセイ「あの夏の記録」の中で、「部分部分での努力の跡は認めるものの、全体としてイマイチだった。役者にしても役所広司、山崎努、堤真一には努力賞が与えられるが、本木雅弘の昭和天皇と松阪桃李の青年将校は疑問続出だ」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『駆込み女と駆出し男』の原田眞人。
原作は、半藤一利氏の『日本のいちばん長い日』(文春文庫)など。
ちなみに、英題は「The Emperor in August」。
(注2)下記の「注15」を参照してください。
(注3)玉音盤については、例えばこの記事を参照してください。
(注4)例えば、川田稔著『昭和陸軍全史3』(講談社現代新書、2016.6)の末尾に、「軍部主流がなお本土決戦に固執するなか、天皇の「聖断」というかたちでの戦争終結方法が、木戸や鈴木首相らによって図られることとなる」(P.407)とあるように、木戸内大臣(1967年版では中村伸郎が、本作では矢島健一が扮しています)をもクローズアップすることが考えられるのではないでしょうか?
(注5)昭和天皇を演じた俳優としてこれまで印象に残っているのは、ソクーロフ監督が制作した『太陽』(DVDで見ました:この拙エントリの(3)をご覧ください)のイッセー尾形と『終戦のエンペラー』の片岡孝太郎であり、前者のイッセー尾形の演技には独自のものが感じられ捨てがたいものがあります。
本作における本木雅弘の演技は驚くほど自然なものであり、御前会議等での発言にずいぶんの説得力を与えています。
(注6)出演者の内、最近では、役所広司は『渇き。』、山崎努は『駆込み女と駆出し男』、堤真一(迫水・内閣書記官長役)は『海街diary』、松阪桃李(畑中・陸軍省少佐役)は『万能鑑定士Q -モナ・リザの瞳-』で、それぞれ見ました。
この他、松山ケンイチ(横浜警備隊長役)、戸田恵梨香(保木・NHK放送局員役)、キムラ緑子(陸軍大臣官舎の女中)なども出演していました(それぞれ、『春を背負って』、『予告犯』、『海街diary』で見ています)。
(注7)劇場用パンフレットのインタビュー記事において、原田監督が、「(前作では)昭和天皇(八代目・松本幸四郎、後の初代・松本白鸚)は引きの画や後姿といった形でした映されなかった」と述べているように。
(注8)鈴木首相(笠智衆)に関しては、横浜警備隊が私邸を襲撃した際に、女中(新珠三千代)が登場したり、避難先の弟の家の様子が映し出されたりはしますが。
(注9)鈴木首相が宮内省侍従長だった時、阿南は侍従武官で、同じ職場にいました。
そんなこともあって、劇場用パンフレットのインタビュー記事において、原田監督は、「昭和天皇と阿南惟幾陸相、そして鈴木貫太郎首相の3人を中心とする“家族”のドラマを狙いとしていきました」と述べているのかもしれません。
さらに原田監督は、このインタビュー記事においては、「鈴木貫太郎首相を父、阿南さんを長男、昭和天皇を次男とする疑似家族の話でもあると感じました」と述べています。
(注10)横浜警備隊は、佐々木・陸軍大尉をリーダーとして勤労動員中の生徒達によって編成されたもので、鈴木首相や平沼枢密院議長などの私邸に放火しました(Wikipediaのこの項の「その他の動き」によります)。
なお、1967年版では天本英夫が、本作では松山ケンイチが佐々木隊長に扮していますが、1967年版では佐々木隊長は何度も登場するのに対し、本作では松山ケンイチはほんの数十秒ほどしか映し出されません。
(注11)このサイトに一部が掲載されている北沢文武著『児玉飛行場哀史』(2000年:未読)の「「いちばん長い日」考」(P.171~)が参考となると思います(どうやら、1967年版で描かれていることはフィクションのようです)。
(注12)なにしろ、1967年版では、映画が始まってから20分位は8月14の御前会議に至る経緯が解説的に描かれ、次いでタイトルクレジットが入り、そこから8月14日から15日にかけての模様がじっくりと2時間描かれるのです。
(注13)鈴木首相を演じた山崎努や、阿南陸相を演じた役所広司の演技は、前作の笠智衆や三船敏郎の演技に比べると、ずいぶんと納得がいく感じがします。
(注14)1967年版でも、下村情報局総裁(志村喬)が、「あらゆる手続きが必要だ。何しろ大日本帝国のお葬式だから」とすごく印象的な台詞を発していますが。
(注15)Wikipediaによれば、「後継の内閣総理大臣の選定や国家の最重要問題に関しての意見具申を行った会議。天皇の諮問に答える形で、必要に応じて内大臣が召集し主宰した。構成員は、重臣と呼ばれた内閣総理大臣経験者と枢密院議長で、これに主宰者の内大臣が加わった」とのこと。
それで、本作の冒頭のように、内閣総理大臣経験者として東條英機や岡田啓介、内大臣として木戸幸一、そして枢密院議長として鈴木貫太郎が出席していたわけです。
(注16)Wikipediaによれば、日本陸軍の三長官とは、陸軍大臣、参謀総長、教育総監のこと。
本作では、鈴木が、次期陸相として阿南を考えている旨を杉山・元陸相(川中健次郎)に告げると、杉山は「すぐ陸軍三長官会議を開いて結論を出します」と答えます。
それで、杉山は、梅津参謀総長(井之上隆志)や土肥原教育総監(清水一彰)を集めて協議をし、阿南の陸相就任に同意するも、戦争の完遂が第一などの条件を付けます。
(注17)Wikipediaによれば、従来の大本営政府連絡会議を改称して設置されたもので、構成員は、首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)とされています。
本作では、6月22日開催された会議の模様(昭和天皇が戦争終結に言及とか)や、8月9日の会議の模様(ポツダム宣言受諾の件などを議論)が映し出されます。
(注18)本作では、松代への宮城移転問題が議論されたり、『一億総蹶起の歌』を歌ったりする場面とか、ポツダム宣言の訳文を検討する場面、8月10日の御前会議直前までの閣議の模様や、終戦の詔書の内容を検討する閣議が描かれています。
(注19)鈴木内閣の時には、御前会議は3回開催されています。
本作においては、6月8日の会議については昭和天皇の言葉の中で言及され、ポツダム宣言受諾に関する8月10日(前日真夜中までの閣議に引き続いて開催され、「聖断」が下されました)と8月14日の会議(「再度の聖断」)の模様が映し出されます。
(注20)例えば、大本営会議とか、最高戦争指導者会議構成員会合。
後者については、上記「注17」の最高戦争指導者会議の6名の構成員だけによる秘密会議(陸海軍務局長らの幹事を除く)で、5月中旬には「ソ連を仲介とする和平交渉開始を申し合わせた」とのことながら(上記「注4」で触れた川田稔著『昭和陸軍全史3』P.406)、本作では描かれません。
(注21)例えば、国立競技場将来構想有識者会議とかデザインコンクール審査委員会(委員長が安藤忠雄氏)。
★★★☆☆☆
象のロケット:日本のいちばん長い日
(1)終戦記念日にちなんで映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭は、1945年4月5日で、重臣会議(注2)を終えて部屋から出てきた重臣たちが話しています。
東條英機(中嶋しゅう)が「海軍出身の総理では、陸軍はそっぽを向く」と言うと、木戸幸一(矢島健一)が「陸軍がそっぽを向くとは?」と質し、岡田啓介(吉澤健)も「そっぽを向くとは何事だ」と同調します。
元海軍大将の鈴木貫太郎(山崎努)が「私は、固辞しました」と答えると、木戸は「思うところを何でも陛下におっしゃってください」と言います。
次の場面では、昭和天皇(本木雅弘)が、鈴木に対して、「組閣を命ずる」と言うと、鈴木は「自分は77歳の老齢で、耳も遠く首班としては不適当です」と答えます。
更に、天皇が「耳が聞こえなくてもいいから是非に」と言うと、なおも鈴木は「軍人が政治にかかわらないことをモットーとしてきました。この件は拝辞することをお許し願います」と答えます。
ですが、天皇は、「鈴木がいて阿南がいたあの年月が懐かしい」、「もう人がいない。たのむから承知してもらいたい」と言います。
鈴木の家の場面。
鈴木は「困ったことになった」とつぶやきます。
息子の一(小松和重)が、「農商省を辞めて父さんの秘書官になる」と言います。
鈴木が「また狙われるな」と言うと、妻のたか(西山知佐)が「あの時も助かったのですから、大丈夫ですよ」と答えます。
一が「問題は陸軍大臣ですね」と尋ねると、鈴木は「お上は、阿南が懐かしいと言われた」と答えます。
次いで、鈴木は陸軍省に向かい、前陸相の杉山元帥に阿南陸相(役所広司)を打診し、組閣が進められます。
さあ、8月15日の終戦に向けてこれからどんなドラマが展開するのでしょうか、………?
本作で描かれている事柄自体は、最近も玉音放送の原盤が宮内庁から公開されたりして(注3)、ずいぶんと知られており、新鮮味は余り感じられません(注4)。
ただ本作は、1967年版のリメイクで、その時の配役をWikipediaで見ると、そうそうたる俳優の名前が上がっていて(笠智衆とか三船敏郎など)、実に壮観です。それに比べると、本作はイマイチの感は免れないながらも、鈴木貫太郎を演じた山崎努や、阿南惟幾を演じた役所広司、昭和天皇に扮した本木雅弘(注5)などはなかなかの演技を見せています(注6)。
(2)本作は、岡本喜八監督による1967年版のリメイクとのことですから、その映画もなんとかできないかと思っていましたら(以前、DVDで見たことはあるものの、細部は忘れてしまいましたので)、ちょうど終戦記念日の昼間にNHKBSで放映するというので、録画して見てみたところ、取り扱っている中心的な出来事は同じとしても、両者はまるで違う作品だなとの感を深くしたところです。
なにしろ、本作の冒頭は、上に書きましたように1945年の4月の鈴木内閣発足ですが、前作は、ポツダム宣言が発せられた7月26日から始まるのです。
また、本作では、上でも書きましたように昭和天皇が主要な登場人物の一人としてかなりの時間映し出されますが、前作においては、一度もはっきりとは映し出されません(注7)。
それに、前作では、阿南陸相や鈴木首相の家族のことは殆ど描かれませんが(注8)、本作では、家族とトランプに興ずる阿南陸相とか、私邸で着替えをする鈴木首相とかが描かれたり、また昭和天皇と阿南陸相と鈴木首相との近しい関係も映し出されたりします(注9)。
もっと言えば、前作では、横浜警備隊による襲撃(注10)とか、厚木航空隊事件や児玉飛行場の話(注11)など終戦時の混乱がいろいろ取り上げられていますが、本作では横浜警備隊の話がほんの少し描かれるに過ぎません。逆に、本作では東條英機が3回ほど登場しますが、1967年版では目につきません。
要すれば、1967年版の作品は、8月14日から15日にかけての実に長い1日を、様々の場所からどちらかと言えば客観的に(いわばドキュメンタリータッチで)捉えようとしていると思えるのに対し(注12)、本作は、終戦にまで至るプロセス(特に、政治の)を、できるだけ等身大の人間の視点から描き出すことに重点をおいているように思えました(注13)。
(3)本作を見ていると、あれだけの国民を巻き込んだ大きな戦争を終わらせるのは並大抵のことでは出来ないのだな、どうしても様々な手続きが必要になってくるのだな、でもそれにしてもずいぶんと各種の重要会議が設けられ、会議続きの有り様だったな、と思えてきます(注14)。
本作の冒頭では、「重臣会議」が登場しますし(注15)、しばらくすると「陸軍三長官会議」なるものも出てきます(注16)。
さらに、「最高戦争指導者会議」があり(注17)、また「閣議」(注18)や「御前会議」(注19)が何度も映し出されます。
映画で見るだけでこのくらいですから、先の戦争の遂行に関し、実際にはもっとたくさんの重要会議が設けられて開催されていたものと思われます(注20)。
にもかかわらず、いやだからこそかもしれませんが、例えば陸軍と海軍との激しい確執は最後まで継続しましたし、またポツダム宣言の受諾にも余計な日数がかかってしまいました。
こうしたことになるのも、各分野の最高責任者が最終的な決定を下して物事を推進していくというよりも、関係者皆の合意のもとに物事が進められていくという日本の組織のあり方にもしかしたらよるのではないか、実際には、戦争遂行について誰が最終的な決定権を持つのか曖昧のままに(例えば、軍部と政府の役割分担が明確でないままに)戦争に突入してしまい、関係者皆の合意を得るために各種の類似する会議がバタバタと設けられたのではないか、と思われます(ずいぶんと大雑把な見方に過ぎませんが)。
こうした有り様は、なにも当時のことにかぎらず、例えば、2020年の東京オリンピックに向けた新国立競技場の建設問題についても、新たな会議が設けられ(注21)、どこが最終的に責任を持つのかが曖昧のままとなって、重大な問題点が指摘されたにもかかわらず、いつまでたっても当初計画の見直しができないことになってしまいました。
(4)渡まち子氏は、「リメイクであること、結果がわかっている歴史的事件であることを差し引いても、緊張感を途切れさせない演出は、見ごたえがある仕上がりだ」として70点をつけています。
宇田川幸洋氏は、「みごとなロケセットと撮影のなかで展開されるエリートたちの葛藤に、歴史の感慨よりも、ただ、むなしさを感じる」として★3つをつけています。
読売新聞の大木隆士氏は、「透徹した視線で史実を重ね、日本の運命を描いた。ただそれゆえ、徹底抗戦を唱える青年将校たちが最後に見せる情念の爆発は、弱まったように感じた」などと述べています。
立花隆氏は、雑誌『文藝春秋』9月号に掲載されたエッセイ「あの夏の記録」の中で、「部分部分での努力の跡は認めるものの、全体としてイマイチだった。役者にしても役所広司、山崎努、堤真一には努力賞が与えられるが、本木雅弘の昭和天皇と松阪桃李の青年将校は疑問続出だ」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『駆込み女と駆出し男』の原田眞人。
原作は、半藤一利氏の『日本のいちばん長い日』(文春文庫)など。
ちなみに、英題は「The Emperor in August」。
(注2)下記の「注15」を参照してください。
(注3)玉音盤については、例えばこの記事を参照してください。
(注4)例えば、川田稔著『昭和陸軍全史3』(講談社現代新書、2016.6)の末尾に、「軍部主流がなお本土決戦に固執するなか、天皇の「聖断」というかたちでの戦争終結方法が、木戸や鈴木首相らによって図られることとなる」(P.407)とあるように、木戸内大臣(1967年版では中村伸郎が、本作では矢島健一が扮しています)をもクローズアップすることが考えられるのではないでしょうか?
(注5)昭和天皇を演じた俳優としてこれまで印象に残っているのは、ソクーロフ監督が制作した『太陽』(DVDで見ました:この拙エントリの(3)をご覧ください)のイッセー尾形と『終戦のエンペラー』の片岡孝太郎であり、前者のイッセー尾形の演技には独自のものが感じられ捨てがたいものがあります。
本作における本木雅弘の演技は驚くほど自然なものであり、御前会議等での発言にずいぶんの説得力を与えています。
(注6)出演者の内、最近では、役所広司は『渇き。』、山崎努は『駆込み女と駆出し男』、堤真一(迫水・内閣書記官長役)は『海街diary』、松阪桃李(畑中・陸軍省少佐役)は『万能鑑定士Q -モナ・リザの瞳-』で、それぞれ見ました。
この他、松山ケンイチ(横浜警備隊長役)、戸田恵梨香(保木・NHK放送局員役)、キムラ緑子(陸軍大臣官舎の女中)なども出演していました(それぞれ、『春を背負って』、『予告犯』、『海街diary』で見ています)。
(注7)劇場用パンフレットのインタビュー記事において、原田監督が、「(前作では)昭和天皇(八代目・松本幸四郎、後の初代・松本白鸚)は引きの画や後姿といった形でした映されなかった」と述べているように。
(注8)鈴木首相(笠智衆)に関しては、横浜警備隊が私邸を襲撃した際に、女中(新珠三千代)が登場したり、避難先の弟の家の様子が映し出されたりはしますが。
(注9)鈴木首相が宮内省侍従長だった時、阿南は侍従武官で、同じ職場にいました。
そんなこともあって、劇場用パンフレットのインタビュー記事において、原田監督は、「昭和天皇と阿南惟幾陸相、そして鈴木貫太郎首相の3人を中心とする“家族”のドラマを狙いとしていきました」と述べているのかもしれません。
さらに原田監督は、このインタビュー記事においては、「鈴木貫太郎首相を父、阿南さんを長男、昭和天皇を次男とする疑似家族の話でもあると感じました」と述べています。
(注10)横浜警備隊は、佐々木・陸軍大尉をリーダーとして勤労動員中の生徒達によって編成されたもので、鈴木首相や平沼枢密院議長などの私邸に放火しました(Wikipediaのこの項の「その他の動き」によります)。
なお、1967年版では天本英夫が、本作では松山ケンイチが佐々木隊長に扮していますが、1967年版では佐々木隊長は何度も登場するのに対し、本作では松山ケンイチはほんの数十秒ほどしか映し出されません。
(注11)このサイトに一部が掲載されている北沢文武著『児玉飛行場哀史』(2000年:未読)の「「いちばん長い日」考」(P.171~)が参考となると思います(どうやら、1967年版で描かれていることはフィクションのようです)。
(注12)なにしろ、1967年版では、映画が始まってから20分位は8月14の御前会議に至る経緯が解説的に描かれ、次いでタイトルクレジットが入り、そこから8月14日から15日にかけての模様がじっくりと2時間描かれるのです。
(注13)鈴木首相を演じた山崎努や、阿南陸相を演じた役所広司の演技は、前作の笠智衆や三船敏郎の演技に比べると、ずいぶんと納得がいく感じがします。
(注14)1967年版でも、下村情報局総裁(志村喬)が、「あらゆる手続きが必要だ。何しろ大日本帝国のお葬式だから」とすごく印象的な台詞を発していますが。
(注15)Wikipediaによれば、「後継の内閣総理大臣の選定や国家の最重要問題に関しての意見具申を行った会議。天皇の諮問に答える形で、必要に応じて内大臣が召集し主宰した。構成員は、重臣と呼ばれた内閣総理大臣経験者と枢密院議長で、これに主宰者の内大臣が加わった」とのこと。
それで、本作の冒頭のように、内閣総理大臣経験者として東條英機や岡田啓介、内大臣として木戸幸一、そして枢密院議長として鈴木貫太郎が出席していたわけです。
(注16)Wikipediaによれば、日本陸軍の三長官とは、陸軍大臣、参謀総長、教育総監のこと。
本作では、鈴木が、次期陸相として阿南を考えている旨を杉山・元陸相(川中健次郎)に告げると、杉山は「すぐ陸軍三長官会議を開いて結論を出します」と答えます。
それで、杉山は、梅津参謀総長(井之上隆志)や土肥原教育総監(清水一彰)を集めて協議をし、阿南の陸相就任に同意するも、戦争の完遂が第一などの条件を付けます。
(注17)Wikipediaによれば、従来の大本営政府連絡会議を改称して設置されたもので、構成員は、首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)とされています。
本作では、6月22日開催された会議の模様(昭和天皇が戦争終結に言及とか)や、8月9日の会議の模様(ポツダム宣言受諾の件などを議論)が映し出されます。
(注18)本作では、松代への宮城移転問題が議論されたり、『一億総蹶起の歌』を歌ったりする場面とか、ポツダム宣言の訳文を検討する場面、8月10日の御前会議直前までの閣議の模様や、終戦の詔書の内容を検討する閣議が描かれています。
(注19)鈴木内閣の時には、御前会議は3回開催されています。
本作においては、6月8日の会議については昭和天皇の言葉の中で言及され、ポツダム宣言受諾に関する8月10日(前日真夜中までの閣議に引き続いて開催され、「聖断」が下されました)と8月14日の会議(「再度の聖断」)の模様が映し出されます。
(注20)例えば、大本営会議とか、最高戦争指導者会議構成員会合。
後者については、上記「注17」の最高戦争指導者会議の6名の構成員だけによる秘密会議(陸海軍務局長らの幹事を除く)で、5月中旬には「ソ連を仲介とする和平交渉開始を申し合わせた」とのことながら(上記「注4」で触れた川田稔著『昭和陸軍全史3』P.406)、本作では描かれません。
(注21)例えば、国立競技場将来構想有識者会議とかデザインコンクール審査委員会(委員長が安藤忠雄氏)。
★★★☆☆☆
象のロケット:日本のいちばん長い日
体質は戦前と全く変わっていないと思います。
たぶん観客の多くは年配者だったのでは?
若者に観て考えてもらいたいものです。
おっしゃるように、ほぼ満杯の新宿ピカデリーでしたが、その大半は年配の方でした。
今回の作品は、1967年版に比べてかなりわかりやすく描かれており、その点で若者に見てもらいたいと思いますが、戦前のこと(政治システムや軍隊内部のことなど)についてある程度の知識がないと、なかなか付いて行きづらいのではという気もしました。
にも関わらず、その家族との関係を一切触れずに死を選ぶ阿南陸相。逆に、役所広司が演じた山本五十六と全く同じ人物に見えてしまい、何だか家庭的でもあったんだよというアリバイを作るための付け足しに見えてしまいました。
鈴木首相の着替えは銃創を出しつつ、家族との関係もほのめかしつつで、非常に上手いと思いましたが。
おっしゃるように、本作では、1967年版と違って、阿南陸相や鈴木首相の家族を取り上げていますが、描き方は違っているようです。
なにしろ、阿南陸相の最後の方は陸相官舎にこもりきりでしたから、三船敏郎の場合とあまり違わなくなってしまいました。
それでも、奥さんの方から陸相に何度も電話があったり(陸相が気にかけていた次男のことについて新しい情報を知らせようとしました)、陸相も電話をかけようとしたり、また奥さんが三鷹の自宅付近の防空壕を出て官舎の方に向かったりするなどの場面によって、それほど「家庭的な」面が「付け足し」のようにも思えなかったのですが。
旧作でもそうなのか?その辺りも見てみたいですね。
こちらからもTBお願いします。
ただ、旧作では、昭和天皇の人間的な側面は描かれておりません。
また、昭和天皇のご聖断については、明治憲法に則ったものなのかどうか(内閣の正規の輔弼を得たものかどうか)、議論の分かれるところではないでしょうか。