
『ラスト・ナイツ』を新宿バルト9で見てきました。
(1)クマネズミは、この映画を制作した紀里谷和明監督のこれまでの作品について、世に言われるほど酷くないと思っていて、本作も悪くないのではと期待し、ひどく遅ればせながら映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭は、領主のバルトーク卿(モーガン・フリーマン)のモノローグで、「暗黒の戦国時代に、選びぬかれた騎士の一団が誕生した。何年にもわたる戦いの中から帝国が生まれ、様々の肌の色や信条の持ち主が取り込まれた。しかしながら、その中で騎士の魂は失われていった。だが、この騎士団は違った」と語ります。
画面では、隊長のライデン(クライヴ・オ―ウェン)以下の騎士団に、待ち伏せていた山賊たちが襲いかかるものの、逆に騎士団は敵をなぎ倒していきます。

追い詰めた山賊の頭目に対し、ライデンが「剣を収めれば見逃してやる」と言うと、相手は切りかかってくるので、仕方なくライデンは斬り倒します。
場面は変わって、雪の中、疾駆する馬。
馬に乗る者はバルトーク卿の城に入り、「皇帝の使者だ」と告げます。
ライデンが出てきて「私が受け取る」と対応すると、使者は「皇帝の書状を領主の部下には渡せない」と拒みます。
使者が、さらに「お前の名は?」と尋ねると、ライデンは「ライデン隊長だ」と名乗ります。
すると使者は、「その名はよく知っている。ご無礼を謝る」と言って、皇帝の文書をライデンに渡します。
皇帝からの書状を受け取って読んだバルトーク卿は、書状を放り出し、ライデンに向かって、「都に上り、大臣のギザ・モット(アクセル・ヘニー)に会えとの命令だ。これは、奴に賄賂を渡せということだ。だが、賄賂を支払うつもりはない」と言います。

ライデンが、「それなら、もっと早く立ち上がるべきだったのでは?殿下のプライドが傷ついただけのことでは?」と言いますが、バルトーク卿は、「あんな男が公然と賄賂を要求するとは、国は危うい」と応じた後、腹を押さえてしゃがみ込みます。
ライデンが近寄ると、「診察は受けた。このことは他言無用だ」と言います。
結局、バルトーク卿は、ライデンらの騎士団を従えて都に旅立ちますが、さあ、都では一体何が待ち受けているのでしょうか、………?
本作は、日本の『忠臣蔵』を西欧中世の騎士の世界に置き換えて映画化したもので、舞台として映し出される中世の世界の重厚さ、それに的確な演出や出演者の素晴らしい演技によって、とても引き締まった充実した映像・内容になっており、ストーリーはよくわかっているはずながら、知らず知らずのうちに作品の中に引き込まれてしまい、圧倒されてしまいました(注2)。
(2)この映画を見ると、よく知る『忠臣蔵』との違いが少々気になります(注3)。
例えば、『忠臣蔵』でも本作でも、家臣団の復讐は、主君の事件があってからしばらく時間が経過してから実行されます。その間、大石内蔵助にしても、ライデンにしても、相手方の警戒心を解くために腐心します。ただ、『忠臣蔵』では、大石内蔵助は祇園一力茶屋で大層派手に遊んでいたとされますが、本作では、随分とうら寂しい飲み屋で独り酒を煽っているにすぎないシーンが多いように思います(注4)。
また、『忠臣蔵』では、天野屋利兵衛という町人が、討入り時に赤穂浪士達が使う様々な武具を隠し持っていたとされますが、本作ではそのような民間人は登場しません。ギザ・モットの城を攻撃しようと騎士団が立ち上がると、どこからともなく剣や甲冑などが持ち込まれてきます。
さらに、『忠臣蔵』では、大石たちは、浅野家の再興がかなわないことを知って討入りを実行に移しますが(注5)、本作の場合は、首相が亡くなってギザ・モットが首相になり、皇帝の命令で警護の兵隊(注6)の数を大幅に減らさざるをえなくなった頃を見計らって、ライデンらは立ち上がります。
でも、想定される世界が違っているのですから、いろいろ差異があって当然でしょう(注7)。
そんなことより、前半のライデンがバルトーク卿の首を跳ねることになるまでの経過や、後半のギザ・モットの城にライデンの騎士団が攻撃をしかけ彼を打ち倒すまでの展開という2つの山場は、見る者を引き込まずにはおられません。
特に、ライデンとイトー(伊原剛志)との一騎打ちは、ソードアクションとして1級品ではないでしょうか(注8)?
それと、本作に見られるグローバルなキャスティングには驚きました。
主役のライデンを演じるクライヴ・オーウェンこそ英国出身ですが、例えば、その主君であるバルトーク卿には米国の黒人俳優モーガン・フリーマンが扮していますし、ライデンらの復讐相手のギザ・モットを演じているのはノルウェー出身のアクセル・ヘニー、彼を警護するイトーには日本の伊原剛志、皇帝にはイラン人のペイマン・モアディ、良識派の領主・オーガストには韓国人のアン・ソンギ、といった具合です。

こうすることで、元々の史実(赤穂事件)に拠りつつも、それを『太平記』の世界の中で描いた『仮名手本忠臣蔵』と比肩しうる幻想的な世界(舞台は西欧の暗黒時代としても、相当する国は存在しません)を作り出すことが出来たのでは、と思えました。
総じて言えば、やはり本作の世界は個人主義的で、『忠臣蔵』は集団主義的だなという感じがし(注9)、また本作の世界はタテの動きが多いのに対し、『忠臣蔵』はどちらかと言えばヨコの感じがするように思いました(注10)。
(3)渡まち子氏は、「ともあれ、「GOEMON」「CASSHERN」のようなトホホ感がないだけありがたいし、記念すべきハリウッド・デビュー作に“日本”をぶつけたところに監督の武士道(騎士道)があると解釈したい」として60点をつけています。
(注1)監督は、『GOEMON』や『CASSHERN』の紀里谷和明。
(注2)出演者の内、最近では、モーガン・フリーマンは『LUCY ルーシー』、伊原剛志は『超高速!参勤交代』、ペイマン・モアディは『別離』で、それぞれ見ました。
(注3)と言っても、『忠臣蔵』は様々な形で物語られていますから、クマネズミが密かにイメージしている個人的な『忠臣蔵』との違いに過ぎませんが。
(注4)本作では、さらに、ライデンは、バルトーク卿から授けられた剣を売り払ったり、またバルトーク卿の娘リリー(ローズ・ケイトン)が娼婦になっているのを知りながら助けなかったりします(これらの場面を、ギザ・モットの護衛官イトーが密かに見ているのを、ライデンは承知しているのでしょう)。
(注5)ブログ『ふじき78の死屍累々映画日記』のエントリで「ふじき78」さんは、「領主領家再興」の話が本作においては全く無視されているという点を疑問視されています。
実に鋭い指摘ながら、バルトーク卿が、自分には後を継ぐ者がおらず、10代目の自分でバルトーク家は終わるとライデンに言っていたりするので、クマネズミにはあまり気になりませんでした。
なお、バルトーク卿は、実質的に自分の後を継ぐ者はライデンだとして自分の剣を与えますが、ライデンにはナオミ(アイェレット・ゾラー)という妻がいますから、仮にそうなった場合には、新しい家を起こすことになるでしょう。
また、ライデンには大石主税に相当する息子は想定されていません。あるいは、騎士団最年少の騎士ガブリエル(ノア・シルヴァー)が考えられているのでしょうか。
(注6)ギザ・モットは、妻のハンナ(パク・ション)の父親であるオーガスト卿に、自分の警護のために兵を差し出すよう命じています。
なお、ギザ・モットは、ハンナに対しDVを振るったりして、かなりの性格破綻者として描き出されています(浅野内匠頭を“虐める”吉良上野介というイメージに相当するのでしょう)。
(注7)もっと挙げれば、例えば、『忠臣蔵』では、赤穂浪士の討ち入り直前、大石内蔵助は浅野内匠頭の正室・瑤泉院のところへ最期の挨拶に行きますが(いわゆる「南部坂雪の別れ」)、本作では、ライデンがバルトーク卿の死を報告した時に、卿の妻のマリア(ショーレ・アグダシュルー)がライデンの頬を打つシーンがあるいは対応するのかもしれません。
(注8)劇場用パンフレット掲載のインタビューで、イトー役の伊原剛志は、「イトーの最後の“やられ方”に関しては、僕から監督に提案しました。……イトーの刀は折れてしまうけど、バルトークから授かったライデンの刀は折れずにイトーの体を貫いた。つまり、イトーは実力でライデンに屈したのではなく、主君の違いによる剣の力と正義の力に負けたのだと」と述べています。
(注9)『忠臣蔵』では、赤穂浪士は全員が同じ装束に身を包み、山鹿流の陣太鼓によって皆が動きます。これに対して、本作では、騎士団は比較的統制の取れた動きをするとはいえ、例えば、ライデンは独りでイトーと対峙し、また独りでギザ・モットを打倒します(『忠臣蔵』では、お項浪士たちが皆発見された吉良上野介の回りに集合します)。
(注10)『忠臣蔵』は、歌舞伎で上演されることが多いためか、なんとなく横長の印象を持っていますが、本作では、バルトーク卿とライデンの打首が最初と最後にあったり(切腹にも介錯はありますが、基本は腹を水平に切ることでしょう)、ギザ・モットの城を攻撃する際にも上下の動きが多いように感じたりしました。
★★★★☆☆
象のロケット:ラスト・ナイツ
(1)クマネズミは、この映画を制作した紀里谷和明監督のこれまでの作品について、世に言われるほど酷くないと思っていて、本作も悪くないのではと期待し、ひどく遅ればせながら映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭は、領主のバルトーク卿(モーガン・フリーマン)のモノローグで、「暗黒の戦国時代に、選びぬかれた騎士の一団が誕生した。何年にもわたる戦いの中から帝国が生まれ、様々の肌の色や信条の持ち主が取り込まれた。しかしながら、その中で騎士の魂は失われていった。だが、この騎士団は違った」と語ります。
画面では、隊長のライデン(クライヴ・オ―ウェン)以下の騎士団に、待ち伏せていた山賊たちが襲いかかるものの、逆に騎士団は敵をなぎ倒していきます。

追い詰めた山賊の頭目に対し、ライデンが「剣を収めれば見逃してやる」と言うと、相手は切りかかってくるので、仕方なくライデンは斬り倒します。
場面は変わって、雪の中、疾駆する馬。
馬に乗る者はバルトーク卿の城に入り、「皇帝の使者だ」と告げます。
ライデンが出てきて「私が受け取る」と対応すると、使者は「皇帝の書状を領主の部下には渡せない」と拒みます。
使者が、さらに「お前の名は?」と尋ねると、ライデンは「ライデン隊長だ」と名乗ります。
すると使者は、「その名はよく知っている。ご無礼を謝る」と言って、皇帝の文書をライデンに渡します。
皇帝からの書状を受け取って読んだバルトーク卿は、書状を放り出し、ライデンに向かって、「都に上り、大臣のギザ・モット(アクセル・ヘニー)に会えとの命令だ。これは、奴に賄賂を渡せということだ。だが、賄賂を支払うつもりはない」と言います。

ライデンが、「それなら、もっと早く立ち上がるべきだったのでは?殿下のプライドが傷ついただけのことでは?」と言いますが、バルトーク卿は、「あんな男が公然と賄賂を要求するとは、国は危うい」と応じた後、腹を押さえてしゃがみ込みます。
ライデンが近寄ると、「診察は受けた。このことは他言無用だ」と言います。
結局、バルトーク卿は、ライデンらの騎士団を従えて都に旅立ちますが、さあ、都では一体何が待ち受けているのでしょうか、………?
本作は、日本の『忠臣蔵』を西欧中世の騎士の世界に置き換えて映画化したもので、舞台として映し出される中世の世界の重厚さ、それに的確な演出や出演者の素晴らしい演技によって、とても引き締まった充実した映像・内容になっており、ストーリーはよくわかっているはずながら、知らず知らずのうちに作品の中に引き込まれてしまい、圧倒されてしまいました(注2)。
(2)この映画を見ると、よく知る『忠臣蔵』との違いが少々気になります(注3)。
例えば、『忠臣蔵』でも本作でも、家臣団の復讐は、主君の事件があってからしばらく時間が経過してから実行されます。その間、大石内蔵助にしても、ライデンにしても、相手方の警戒心を解くために腐心します。ただ、『忠臣蔵』では、大石内蔵助は祇園一力茶屋で大層派手に遊んでいたとされますが、本作では、随分とうら寂しい飲み屋で独り酒を煽っているにすぎないシーンが多いように思います(注4)。
また、『忠臣蔵』では、天野屋利兵衛という町人が、討入り時に赤穂浪士達が使う様々な武具を隠し持っていたとされますが、本作ではそのような民間人は登場しません。ギザ・モットの城を攻撃しようと騎士団が立ち上がると、どこからともなく剣や甲冑などが持ち込まれてきます。
さらに、『忠臣蔵』では、大石たちは、浅野家の再興がかなわないことを知って討入りを実行に移しますが(注5)、本作の場合は、首相が亡くなってギザ・モットが首相になり、皇帝の命令で警護の兵隊(注6)の数を大幅に減らさざるをえなくなった頃を見計らって、ライデンらは立ち上がります。
でも、想定される世界が違っているのですから、いろいろ差異があって当然でしょう(注7)。
そんなことより、前半のライデンがバルトーク卿の首を跳ねることになるまでの経過や、後半のギザ・モットの城にライデンの騎士団が攻撃をしかけ彼を打ち倒すまでの展開という2つの山場は、見る者を引き込まずにはおられません。
特に、ライデンとイトー(伊原剛志)との一騎打ちは、ソードアクションとして1級品ではないでしょうか(注8)?
それと、本作に見られるグローバルなキャスティングには驚きました。
主役のライデンを演じるクライヴ・オーウェンこそ英国出身ですが、例えば、その主君であるバルトーク卿には米国の黒人俳優モーガン・フリーマンが扮していますし、ライデンらの復讐相手のギザ・モットを演じているのはノルウェー出身のアクセル・ヘニー、彼を警護するイトーには日本の伊原剛志、皇帝にはイラン人のペイマン・モアディ、良識派の領主・オーガストには韓国人のアン・ソンギ、といった具合です。

こうすることで、元々の史実(赤穂事件)に拠りつつも、それを『太平記』の世界の中で描いた『仮名手本忠臣蔵』と比肩しうる幻想的な世界(舞台は西欧の暗黒時代としても、相当する国は存在しません)を作り出すことが出来たのでは、と思えました。
総じて言えば、やはり本作の世界は個人主義的で、『忠臣蔵』は集団主義的だなという感じがし(注9)、また本作の世界はタテの動きが多いのに対し、『忠臣蔵』はどちらかと言えばヨコの感じがするように思いました(注10)。
(3)渡まち子氏は、「ともあれ、「GOEMON」「CASSHERN」のようなトホホ感がないだけありがたいし、記念すべきハリウッド・デビュー作に“日本”をぶつけたところに監督の武士道(騎士道)があると解釈したい」として60点をつけています。
(注1)監督は、『GOEMON』や『CASSHERN』の紀里谷和明。
(注2)出演者の内、最近では、モーガン・フリーマンは『LUCY ルーシー』、伊原剛志は『超高速!参勤交代』、ペイマン・モアディは『別離』で、それぞれ見ました。
(注3)と言っても、『忠臣蔵』は様々な形で物語られていますから、クマネズミが密かにイメージしている個人的な『忠臣蔵』との違いに過ぎませんが。
(注4)本作では、さらに、ライデンは、バルトーク卿から授けられた剣を売り払ったり、またバルトーク卿の娘リリー(ローズ・ケイトン)が娼婦になっているのを知りながら助けなかったりします(これらの場面を、ギザ・モットの護衛官イトーが密かに見ているのを、ライデンは承知しているのでしょう)。
(注5)ブログ『ふじき78の死屍累々映画日記』のエントリで「ふじき78」さんは、「領主領家再興」の話が本作においては全く無視されているという点を疑問視されています。
実に鋭い指摘ながら、バルトーク卿が、自分には後を継ぐ者がおらず、10代目の自分でバルトーク家は終わるとライデンに言っていたりするので、クマネズミにはあまり気になりませんでした。
なお、バルトーク卿は、実質的に自分の後を継ぐ者はライデンだとして自分の剣を与えますが、ライデンにはナオミ(アイェレット・ゾラー)という妻がいますから、仮にそうなった場合には、新しい家を起こすことになるでしょう。
また、ライデンには大石主税に相当する息子は想定されていません。あるいは、騎士団最年少の騎士ガブリエル(ノア・シルヴァー)が考えられているのでしょうか。
(注6)ギザ・モットは、妻のハンナ(パク・ション)の父親であるオーガスト卿に、自分の警護のために兵を差し出すよう命じています。
なお、ギザ・モットは、ハンナに対しDVを振るったりして、かなりの性格破綻者として描き出されています(浅野内匠頭を“虐める”吉良上野介というイメージに相当するのでしょう)。
(注7)もっと挙げれば、例えば、『忠臣蔵』では、赤穂浪士の討ち入り直前、大石内蔵助は浅野内匠頭の正室・瑤泉院のところへ最期の挨拶に行きますが(いわゆる「南部坂雪の別れ」)、本作では、ライデンがバルトーク卿の死を報告した時に、卿の妻のマリア(ショーレ・アグダシュルー)がライデンの頬を打つシーンがあるいは対応するのかもしれません。
(注8)劇場用パンフレット掲載のインタビューで、イトー役の伊原剛志は、「イトーの最後の“やられ方”に関しては、僕から監督に提案しました。……イトーの刀は折れてしまうけど、バルトークから授かったライデンの刀は折れずにイトーの体を貫いた。つまり、イトーは実力でライデンに屈したのではなく、主君の違いによる剣の力と正義の力に負けたのだと」と述べています。
(注9)『忠臣蔵』では、赤穂浪士は全員が同じ装束に身を包み、山鹿流の陣太鼓によって皆が動きます。これに対して、本作では、騎士団は比較的統制の取れた動きをするとはいえ、例えば、ライデンは独りでイトーと対峙し、また独りでギザ・モットを打倒します(『忠臣蔵』では、お項浪士たちが皆発見された吉良上野介の回りに集合します)。
(注10)『忠臣蔵』は、歌舞伎で上演されることが多いためか、なんとなく横長の印象を持っていますが、本作では、バルトーク卿とライデンの打首が最初と最後にあったり(切腹にも介錯はありますが、基本は腹を水平に切ることでしょう)、ギザ・モットの城を攻撃する際にも上下の動きが多いように感じたりしました。
★★★★☆☆
象のロケット:ラスト・ナイツ
> バルトーク卿は、実質的に自分の後を継ぐ者はライデンだとして自分の剣を与えますが、(略)、仮にそうなった場合には、新しい家を起こすことになるでしょう。
何か横綱株の譲渡で新部屋が出来るみたいだ。
> 赤穂浪士は全員が同じ装束に身を包み、山鹿流の陣太鼓によって皆が動きます。
太鼓聞きたかったですね。忠臣蔵では金で雇った飲んだくれ用心棒とかの抵抗を考え、用心棒一人に対して、浪士3人で立ち向かうという戦略が練られました。これ今回やったら2~3人しか用心棒がいない設定になって大層しょぼい映画になってしまう。
確かに、『忠臣蔵』では、「用心棒一人に対して、浪士3人で立ち向かうという 戦略」によって、赤穂浪士の死者は一人も出ませんでした。これに対して、本作では、イトーなどの「用心棒」は少ないものの、まだまだ大勢の兵士が警護して いたために、そして赤穂浪士のような戦略をたてずに一人一人で闘ったために、討ち入った騎士たちも随分死んでいます。
伊原剛志だけというのが、やはり語学、英語を話せないのがネックとある番組で言っていました。
TBお願いします。
おっしゃるように、日本の監督が制作したと言うには、日本人俳優が伊原剛志だけというのは寂しい限りです。他方、韓国人俳優は、オーダストを演じたアン・ソンギ以外のもいろいろ出演していますし、イラン人俳優も複数出演していたりします。
そうではないかと思っていたのですが。