映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ヒューゴの不思議な発明

2012年03月20日 | 洋画(12年)
 『ヒューゴの不思議な発明』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)この映画については、『サラの鍵』や『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を取り上げたエントリにおいて大いなる期待を表明していたところ、その期待以上の優れた出来栄えだと思います。
 それでも、この映画を見た大半の方が、「始めの方はやや冗長」との感じを持ったようです。ですが、クマネズミには、初めの方があるからこその後半ではないかと思えました〔特に前半の、様々の時計の内部の仕掛けの様子とか、ヒューゴ少年の父親(ジュード・ロウ)との交流シーンなどは、短いながらもよかったのではと思いました〕。
 何にせよこの映画には、すぐ前に見た『メランコリア』同様、単純に感激してしまいました。

 物語の時期は1930年代、舞台はパリの駅(注1)。主人公のヒューゴ少年(エイサ・バターフィールド)は、その駅の時計台の中に隠れて住んでいます。



 この駅には沢山の時計が取り付けられていて、それらは壁の裏側に設けられた機械部分によって動きますが、大小様々の沢山の歯車からなる装置の有様は、本作の見所の一つといえるでしょう(ヒューゴ少年は、ゼンマイを巻くだけでなく、それらの点検保守を行っています)。
 ある時、駅構内に設けられている玩具屋に忍び込んでいたところ、主人のジョルジェベン・キングスレー)に捕まり、大事にしていたノートを取り上げられてしまいます(注2)。



 ヒューゴ少年は、なんとかしてそのノートを取り返そうとジョルジェが住む家の辺りをうろついたりします。そんなことをしている内に、彼は、その家に住むイザベルクロエ・モレッツ)という少女と知り合いになります。

 この間に、ヒューゴ少年の事情が次第に明らかにされていきます。
 時計職人の父と二人で暮らしていたときに(注3)、父親が、博物館の屋根裏から機械人形を持ち出してきて修理をします(その時に、父親が機械人形のことについて様々のことを書き記したのが、ジョルジェが取り上げたノート)。



 しかしながら、父親は突然の火事で死んでしまい、ヒューゴ少年は一人取り残されます。
 そんな彼を引き取ったのはおじさんのクロードで、彼の職場である駅の時計台の裏で一緒に住むことになります。ですが、クロードもある時から帰ってこなくなり(その後水死体が発見されます)、ヒューゴ少年は時計のゼンマイを巻くなどの仕事を続けながら一人で生活しています(注4)。

 ヒューゴ少年は、イザベルと親しくなってくるとこうした事情を打ち明け、またイザベルを自分の部屋に連れて行き、機械人形を見せます(注5)。
 そして、イザベルの胸にかけられていた鍵を機械人形の背中の穴に差し込むと、その機械人形はある絵を描き出します。
 その絵こそは、ジョルジが戦前に製作した映画の一場面だったのです。



 ここから(注6)、パパ・ジョルジがジョルジェ・メリエスとして映画史上著名な監督であることが分かって、云々という後半のストーリーは、もう煩瑣になることもあり、映画史に詳しいブログに譲りましょう。

 ジョルジ・メリエスを巡る部分は歴史的事実に基づくとのことですが、にもかかわらず映画全体が頗るファンタジックに描かれて3Dの目を瞠る作品にまで仕上げられているのは、実にすごいことだなと思いました。

 ヒューゴ少年に扮したエイサ・バターフィールドは、『縞模様のパジャマの少年』(このエントリの(2)で触れています)で見て、ユダヤ人強制収容所の側で暮らすドイツ軍将校の子供という随分厳しい役柄をきちんとこなしているなと思いましたが、本作でも孤児という前作とある意味で類似する役柄を的確にこなしているなと思いました。



 また、イザベル役のクロエ・モレッツは、すでに『キック・アス』や『モールス』でお馴染みですが、エイサ・バターフィールドと同年(1997年)の生まれにもかかわらず、背の高さといい随分と大人だなという感じがしました。



 ジョルジェ(→メリエス)に扮したベン・キングスレーは、『エレジー』の演技が印象的ですが、本作においてもその存在感は揺るぎがありません。



 ヒューゴ少年の父親を演じているジュード・ロウは、まさかこうした役で登場するとは思いませんでしたから驚きでした。ですが、彼が家族と共に来日したときの様子をTVの芸能ニュースなどで見ますと、見た目よりも随分と家庭的であり、そうしたところが本作にも上手く出ているのではと思います(今度の『シャーロック・ホームズ』での活躍が期待されます)。

(2)既にあちこちで指摘されていることとは思いますが、実は、この作品には、映画の原案・絵コンテともいうべき風変わりな原作〔ブライアン・セルズニック著:分厚い翻訳本が出ています(注7)〕があるのです。“風変わり”というのは、普通の本とは逆に、この本のメインとなっているのは、たくさん掲載されている挿画と静止画、それに写真であって、それらの間に若干の文字が書かれているからです(注8)!
 また、“絵コンテ”というのは、少しずつの改変はあるものの、本作はそのほとんど忠実な実写化といえるからです。

 確かに原作の場合、例えば、本編「Ⅰ」の冒頭には太陽のイラストが2枚ほど挿入されていますが、映画は、エッフェル塔を中心とするパリ市の俯瞰で始まります。ですが、原作においても、満月のイラストの後は、パリ市の俯瞰図なのです。そして、映画と同じように、挿入されているイラストは鉄道の駅→そこを歩くユゴー少年→ジョルジェの玩具屋→ユゴーが所持していたノートと展開していきます(ユゴー少年のノートが取り上げられるまでは、原作の「Ⅰ」の「1 盗み」で取り扱われているところ、60ページの内実に56ページがイラストなのです!それに、イラストの描き方は、映画のクローズアップのように、空の上から次第に主人公に近づいてその顔のクローズアップを描いたりするなど、映画的な技法をふんだんに取り入れています)。

 そうなると、本作のクリエイティブなところを何処に見出したらいいのか、もっといえば映画製作においてスコセッシ監督の貢献はどの部分にあるのか、ということがあるいは問題になるのかもしれません(注9)。

 でも、例えば、原作の場合、本編の前に、H・アルコフリズバ教授の手になる「はじめに」が置かれていて、これからユゴー少年を巡る物語が始まる旨が述べられています。そして、ラストに至ると、そのアルコフリズバ教授とは、ユゴー少年のことであると明かされ、そして末尾で彼は、自分の手で自身の新しい「からくり人形」を作ったことが、そしてゼンマイで動く「その人形のつづったのが、この物語だ」と述べられるのです!
 ところが、映画ではこうした構成をマッタク取ってはおらず、通常の物語のように進行していきます。映画のラストでは、ヒューゴではなくイザベルがこの物語を本にしていて、それによって語られているように描かれています(注10)。
 原作では、メリエスのことにも重きが置かれているものの、なによりユゴー少年の成長(それも父親が探し出したからくり人形を契機にしての←結局は父親の手によってということでしょうか)が全編を通じて描かれているように思われます。ですが、映画にあっては、むろんそういう点にも配慮はされていますが(特に前半において)、むしろ初期の映画製作を映像として映し出すことの面白さに重点が置かれているようにも思われます。

 そういうところから、本作のアイデアのかなりのものは原作に拠っているにせよ、やはり映画は映画であって原作とは別物と考えるべきなのでしょう。

(3)上記で、原作におけるユゴー少年と父親との親密な関係に触れましたが、もう少し申し上げると、例えば彼は、次のようにからくり人形が書くであろうメッセージについて考えています。
 修理(注11)の間に「父さんはいくつか部品を取り替えて、からくり男が新しいメッセージを書くようにしてくれているかもしれない」、「きっと、からくり男のメッセージは、僕のすべての疑問に答えてくれる」(P.141)。
 これは、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』における父親の残した「」に対するオスカー少年の思いと酷く類似しているように思えるところです(注12)。
 そして、その雰囲気は、本映画にも濃く引き継がれていると思われます。

(4)本作でクマネズミが一番期待していたのは、その「」です。
 これまでの場合、『サラの鍵』にしても『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』にしても、鍵が先ず手元にあって、それを差し込むべき鍵穴のある場所(『サラの鍵』では、弟が潜む納戸)へ行くのが難しかったり、鍵穴を探し出すのが大変だったり(『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』では、“Blackさん”の持ち物でした)したのですが、本作の場合は、鍵穴は機械人形の背中にあるものの(注13)、ソコに挿入すべき鍵が見当たらず、それを探すことがそれこそ“キー”となります。
 そして、ヒューゴ少年とイザベルとの交流が深まってくると、途端にソレがイザベルの胸にぶら下がっていることが分かり、ソレを差し込むと、機械人形が動き出します。

 いずれにせよ、本作には、「鍵」のあり方の第6番目のもの(鍵穴だけあって鍵自体が見つからない)が示されているといえるのではないでしょうか?

 なお、本作では、これ以外にも「鍵」に関係したことがいくつか登場します。
 例えば、ヒューゴ少年とイザベルが、パパ・ジョルジェによって取り上げられたノートを探して、タンスの上にある箱に気付きます。そこには鍵が掛けられているところ、イザベルが、その箱を取り出して下に降ろそうとして乗っていた椅子から落ちてしまいますが、その拍子に箱は床に落ちて壊れてしまい、中のものが外に飛び出してしまいます(注14)。
 パパ・ジョルジェが中から鍵を閉めて引き籠もっていた部屋の鍵を、ヒューゴ少年は針金を使って簡単に開けてしまいます(注15)。

 これらにあっては「鍵」は見当たりません。とすると、ここには、第7番目の「鍵」のあり方が示されているといえるでしょう(“幻の鍵”?)。

(5)渡まち子氏は、「世間から見放され居場所がなかった孤独な少年と、世間との絆を断ち切っていた映画の魔術師の交流は、どこか寂しげな影を持つファンタジーだ。映画愛と人間 愛が立体的にスクリーンに立ち現れたこの夢の万華鏡は、私たち観客に、映画のマジックの本当の喜びを教えてくれる。これはスコセッシの新境地ではない。集 大成なのだ。紛れもない傑作だと断言したい」として絶賛して90点を付けています。
 また、前田有一氏も、「映像、ストーリー、演出。そして人々の共感を得るに値するテーマ性。「ヒューゴの不思議な発明」には死角がなく、誰にでも高い満足度を与えてくれるだろう」として85点もの高得点を与えています。
 他方で“おすぎ”は、3月8日号の『週刊文春』の映画欄で、本作に対して「とにかく退屈」として★2つしか付けていませんが、無論どのような感想を持とうが自由ながら、“おすぎ”老いたり、の感を深くします!




(注1)劇場用パンフレット掲載の「プロダクション・ノート」によれば、モンパルナス駅を中核にして、色々の駅の要素を取り込んで作られているようです。

(注2)ノートは、ジョルジェの「このノートをどこで盗んだ?」という質問にヒューゴ少年が何も答えなかったがために取り上げられてしまいますが、ヒューゴ少年には答えられなかったと思います。
 というのも、むろん、ノートに記載されている事柄は、父親と自分との間だけの秘密だと彼が考えていたためでしょうが、さらには、父親が博物館の屋根裏から(密かに)持ち出してきた機械人形に関するものだからですし、その父親が今は死んでしまったため、自分が保護者なしで駅の壁の中で暮らしていることがバレるからでもあるでしょう(この時点では、保護者のクロードおじさんがいるはずのところ、帰ってこなくなっていました)。

(注3)機械人形がロンドン製であることが分かると、ヒューゴ少年は、「母さんの故郷だ」と言います。おそらく、早くにイギリス人の母親を亡くしてしまったのでしょう。

(注4)映画からすると、保護者のいない孤児を孤児院に送り込むのが鉄道公安官の職務の一つとなっていたようです。ヒューゴ少年は、自由を束縛されるのを酷く恐れて、犬を連れた鉄道公安官に捕まらないようにこっそり隠れて生活していますが、見つかると一目散に走って逃げ出します。
 なお、本文の(2)で取り上げる原作〔下記「注7」参照〕の方では、鉄道公安官は、むしろヒューゴ少年が駅の構内で食料品を盗み取っていることの方を重視しているようで、「こいつは泥棒だ」とか、「おまえのいく場所は監獄しかない」などと言い放ちます(P.420、P.460)。

(注5)映画では、家を見せてくれというイザベルの要求を一度は断りますが、イザベルの胸にかけられている鍵を見て、自分の家に連れて行くことにします。他方、原作においては、イザベルの胸の鍵に気がついたユゴー少年は、その鍵を奪い取って自分の部屋に逃げ帰るものの、後を追いかけてきたイザベルに捕まってしまいます。

(注6)原作でも、「この物語りはここで終わりだ」として前半の「Ⅰ」は閉じられ、後半の「Ⅱ」が引き続いて始まります。
 こんなところから、『メランコリア』の第1部と第2部との関係が思い起こされます。
 すなわち、『メランコリア』の第1部が結婚披露宴という世俗の中でのジャスティンを描き、第2部が惑星メランコリアの地球衝突という状況におけるジャスティンとクレアの姉妹に焦点が当てられているのと類似するように、この映画の前半部分は、駅構内にいる人達とヒューゴ少年の交流が描き出され、次の後半部分はメリエスが製作した映画作品を巡るヒューゴ少年らの動きにスポットが当てられているように感じられます。

(注7)金原瑞人訳『ユゴーの不思議な発明』(アスペクト、2008.1.1)



(注8)本文533ページの内、実に66%が、挿画と静止画、それに写真で占められています。
 なお、この計算は、原作の末尾に「人形は158枚の絵を描き」(P.519)とあり(実際は、原作者セルズニックの手になるもの)、それにメリエス製作の映画に係わるイラスト(メリエスが描いたもの)の7枚、及び写真(10枚)を加えた175枚(ページ数はその倍)という数字に基づいています。

(注9)同じようなことは、漫画を原作とする『スマグラー』でも見られ、同作を取り上げたエントリの(2)で「原作漫画と映画との距離がかなり狭まっている」と申し上げたところです。

(注10)すでに、例えばこちらのサイトで指摘されているところながら、邦題の頗るおかしな点もここらあたりに起因します。
 すなわち、原作のタイトルが「ユゴーの不思議な発明」とされているのは、その物語が、ユゴーが製作した自身に準えたからくり人形が描き出したイラストに基づいてユーゴが語っているものだからなのですが、映画では、そこのところが抜け落ちてイザベルが語るお話という構成になっているために、タイトルにもかかわらずヒューゴが発明したものなど何も存在しない、という奇妙な事態となっているのです。
 勿論、映画製作者の方はソコのところをよくわきまえていて、原題を「Hugo」としているところ、なぜか血迷った配給会社は、原作の邦題をそのまま借りてきて(それも、仏語読みの「ユゴー」を英語読みの「ヒューゴ」に読み替えることまでして)タイトルとしてしまいました。いくら観客動員数を引き上げたいとしても、許されないことではないでしょうか?

(注11)原作では、からくり人形の修理は、博物館の屋根裏で父親が一人で行いますが、映画の場合は、父親が機械人形を自分らの家に運び込んで、ヒューゴ少年と一緒に修理をします。

(注12)特に、そうした期待が直接的には外れてしまう点においても!『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』の場合は、鍵を差し込む先は父親の物ではありませんでしたし、本作の場合も映画の1場面に過ぎず、どうしてそんな絵を人形が書いたのか、少年はすぐには理解出来ませんでしたから。
 さらに、原作において、博物館の屋根裏部屋にあるからくり人形のことを話している際の父親とユゴー少年との話は、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』における「第6行政区」を巡って父親とオスカー少年が話している姿を彷彿とさせます。
 モット言えば、ユゴー少年が、「夜になると、父さんが本を読んでくれた。ジュール・ヴェルヌのわくわくする冒険小説やアンデルセンの童話」と思い出すのは(P.155:ただし映画のヒューゴ少年も、イザベルに「パパとよくジュール・ヴェルヌの本を読んだ」と言いますが)、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』のオスカー少年が、ホーキング博士の本をパパがよく読んでくれた、と思い出すのにヨク対応していると思います。

(注13)劇場用パンフレット掲載の「Story」では「胸」となっていますが、そこはゼンマイを巻くための「ねじ」(あるいは「かぎ」)を差し込む口が開いているのではないでしょうか?

(注14)箱の「中のもの」とは、実に夥しい数のイラストで、それらはメリエスが製作した映画の絵コンテで、メリエス自身の手になるものでした。
なお、原作においては、その内の7枚が挿入されています。

(注15)ヒューゴ少年は、一度鉄道公安官に捕らえられて牢屋に監禁された際に、その技術を使って牢屋から逃げ出すのに成功します(原作では、鉄道公安官がユゴー少年を連れて行こうと牢屋から出したときに逃げ出しますが)。




★★★★




象のロケット:ヒューゴの不思議な発明


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18 コメント

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自分の手で自身の新しい「からくり人形」を作った (KGR)
2012-03-20 22:52:29
なるほど。
これで原作のタイトルが「The Invention of Hugo Cabret」で映画が「HUGO」なわけがわかりました。

その部分、自ブログにも追記したいので、引用させていただきます。
こんにちは (iina)
2012-03-21 10:44:21
注釈までつけての長い記事でした。(^^ゞ
ブログを巡回すると、本作はファンタジックでも冒険でもないという感想に接しますが、まさしく
ファンタジックなメルヘンであり、冒険そのものと思っています。

邦画と洋画をたくさん観ているのですね。
キーとロック(言葉) (milou)
2012-03-21 14:07:00
いつも僕は言葉に拘る性向があります。

開けるものも開けられる(?)ものも日常的にはカギと言いますが、正式には鍵と錠ですね。
でも錠前とは言っても錠は馴染みがないからか字幕では錠と言う文字はあまり見かけません。
この映画の場合は区別する必要があるため2回ほど錠を使ったと思います。
英語ではKey とLock ですが明確に区別して使われます。

この映画に関係ないが“ファンタジック”という言葉。
偶然メールに別の映画の話でファンタジックと書いたら友人にファンタジックは和製英語で
ファンタスティックが正解と指摘されました。
調べてみると確かにそのとおりでした。間違いだからか広辞苑には載っていません。
ただファンタスティックというと素晴らしいという意味が第一義のような気がしてちょっと違和感。

もちろん和製英語であろうとなかろうと、日本語としては間違いとは言えないのですが、
まあできる限り正しい日本語を使うようにしたいとは思うのですが現実には間違った日本語を多用しています。

この映画は面白かったしオスカーを獲ったと知って映画人なら喜ぶだろうなと思ったが調べると
撮影・美術・音響とか視覚効果関係だけなんですね。
ちなみに3Dは嫌いなので2Dしか見ていません。
Unknown (yutake☆イヴ)
2012-03-21 19:50:04

TBありがとうございます。

>むしろ初期の映画製作を映像として映し出すことの面白さに重点が置かれているようにも思われます。

私もそう思います。
情緒ある効果を感じます。
Unknown (KLY)
2012-03-22 00:00:31
おすぎはイイ男が出ていない作品は基本的にだめですから(笑)もっともそれはそれで一貫していていいんですけどね。
ただ正直言いまして私はオスカー作品に関する評論家のコメントは全員信用しないことにしています。何故なら作品賞を争ったり、授賞イオした作品はまず間違いなく絶賛されるから。まるでそうしないと自分が映画を観る目がないと思われるとでも恐れているかのように。
この作品に関しても前半と後半の差に驚いています。ヒューゴを中心としたファンタジー溢れる作品を期待して観ると、後半部分に関してはかなりの部分訴えかける人間が限定されるように感じますし。
興行成績は正直だなと思いました。年に1,2回程度しか映画を観ない人にとっては何気に敷居が高くなってしまったように思います。
原作本 (クマネズミ)
2012-03-22 04:51:34
「KGR」さん、TB&コメントをありがとうございます。
この映画の原作本は、書店で見たらすごく斬新な感じがしたので購入したのですが、暫くしたら映画化されると聞き込んで、それなら映画を見てから読むことにしようと積んどきました。そして映画を見てから読んでみたところ、映画で疑問に思ったことのいくつかが腑に落ちる感じがしてきたという次第です。
恐縮です (クマネズミ)
2012-03-22 04:52:44
「iina」さん、コメントをありがとうございます。
「注釈までつけての長い記事」をお読みいただき恐縮です(出来るだけ簡潔に書かなくてはとは思っているものの、自分に対する備忘録でもありますので、感動した映画についてはツイツイ長目の記事になってしまいます)。
クマネズミも、iinaさんがおっしゃるように、この映画は「ファンタジックなメルヘンであり、冒険そのもの」だと思います。
言葉遣い (クマネズミ)
2012-03-22 04:56:03
「milou」さん、コメントをありがとうございます。
まず「鍵」のことですが、おっしゃるように「正式には鍵と錠」でしょう。ただ、「錠は馴染みがない」ことと(「錠前」というと江戸時代の蔵に使われている大袈裟な物を想像してしまいます!)、その内の特定の部分(鍵穴)を指せないこともあって、このエントリではどれも「鍵」(もしくは「鍵穴」)としています。
ちなみに、機械人形の背中の「鍵穴」については、原作本(勿論、翻訳本!)では単に「穴」とされていますし(P.241)、ジョルジェの部屋を明ける際には、ユゴー少年はイザベルに「ピンで鍵を開けて!」と叫びます(P.405)。

また、「ファンタジック」に関しては、おっしゃるように大きな辞書には掲載されていないようですが、「はてなキーワード」には「ファンタジック」の項目があって、そこでは「ファンタジック(形動)〔和 fantasy+ic〕ファンタスティック」と記載されており、また、gooの国語辞典にも、コトバンクにも、これと類似の記載があります。
さらにこちらのサイトでは、「「ファンタジック」は「日本語」としての地位を確立しました」とあります(http://www.tt.rim.or.jp/~rudyard/gaigo006.html)。
ネットの状況からすると、「ファンタジック」は、最早「間違った日本語」とは言い切れず(但し、日本語の文章の中で使う場合)、「広辞苑」等の辞書に掲載される日も近いのではないかと思われるところです。


前半と後半 (クマネズミ)
2012-03-22 04:57:45
「yutake☆イヴ」さん、TB&コメントをありがとうございます。
舌足らずで申し訳ありませんが、ここで申し上げたかったのは、この映画は全体として2部構成になっているのではないか、そしてその前半では、ヒューゴ少年と駅構内の人々との触れ合いに、その後半では、「初期の映画製作を映像として映し出すことの面白さ」に、それぞれ重点が置かれているのではないか、ということなのですが。
ですから、後半に関しては、おっしゃるように「情緒ある効果を感じ」るところです。
評論家 (クマネズミ)
2012-03-22 05:16:22
「KLY」さん、早速TB&コメントをいただきありがとうございます。
コメントによれば、「オスカー作品に関する評論家のコメントは全員信用しないことにしてい」るとのこと。確かに、クマネズミのようなミーハー族は、アカデミー賞にノミネートされている作品と聞いただけで何かいい映画に違いないと思って、いそいそと映画館に出かけるくらいなのですから(今回ノミネートされた「ツリー・オブ・ライフ」を見たらがっかりする人が続出するのではないでしょうか)!
本作についても、PRの仕方などから子供連れで行ってみても、「後半部分に関してはかなりの部分訴えかける人間が限定される」ため、あるいは飽きてしまうのではないかと思ったりしています。

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