『永い言い訳』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。
(1)西川美和監督の作品ということで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、椅子に座った衣笠幸夫(小説家の筆名は津村啓:本木雅弘)の髪の毛を、妻の夏子(深津絵里)がハサミを入れて切っています。
TV画面には、幸夫が出演しているバラエティ番組が映し出されていて、それを見ながら夏子が笑います。
すると、幸夫は「もう消せよ、くだらない」「ヌエ(鵺)のことなんか語ってどうすんだって思ってるんだろ?」と詰りますが、夏子は「思ってません」と答えます。
幸夫がTVを消すと、夏子は「そう言えば、小学校の同級生から電話があった」と名前を言うと、幸夫は「地元を出てから一度も会ってないやつだ」と答えます。
夏子は、「幸夫くんのこと、色々応援していると言っていたけど」と付け加えます。
すると幸夫は、「編集者が来た時に“幸夫くん”と呼ぶのを何とかしてくれない?」と言います。
それに対し夏子は、「そんなことしていない」と答えるのですが、幸夫は「俺に恥をかかせようとして何回もそう呼んだ」、「鉄人キヌガササチオの代理にすぎない」、「あなたもそういう名前に生まれついたことがあるのですか?」などと言い募ります。
夏子が「衣笠幸夫という名前が素晴らしい、結婚した時そう思った」と言うと、幸夫は「その頃の話はいいよ」と話を打ち切ります。
そして、夏子の作業が終わると、幸夫は「おしまい?」と訊き、夏子は「完璧」と答えます。
幸夫が「間に合うの?」「明日のパーティーの服は?」と尋ねると、「寝室に架かってる」と答えます。
夏子は外出の準備を整えるために部屋に戻り、再度幸夫の前に現れ、「悪いけど後片付けはお願いね」と言って玄関から出ていきます。
それを見てから幸夫は携帯電話を手にします。
次の場面では、夏子は親友の大宮ゆき(堀内敬子)と会って、一緒に深夜のスキーバスに乗り込みます。
他方で、幸夫の家には編集者の福永(黒木華)が入っていきます。
さあ、この後、物語はどのように展開するのでしょうか、………?
本作は、妻が、その親友とともにバス旅行中に事故に遭遇して死んでしまったところ、後に遺された夫の人気作家が、親友の夫や2人の子供と深く接していく内に、これまでの妻との関係を見つめ直す、という物語。主人公の作家を演じる本木雅弘や、妻の親友の夫を演じる竹原ピストルの演技が優れており、さらに出番は短いものの、主人公の妻を演じる深津絵里が印象的な作品です。
(2)最近の邦画の流れから本作を見てみると(注2)、家族の中でのコミュニケーションが希薄になっている点が共通するとはいえ、家族という共同体への異邦人の侵入という形式をとっておらず(『淵に立つ』)、また共同体の構成員が特異な行動をするようになるわけでもなく(『だれかの木琴』)、本作では、ある時突然、共同体の構成員の一人が消滅してしまうのです。
すなわち、上記の(1)からもある程度おわかり願えると思いますが、本作の幸夫と夏子との間では、このところ親和的なコミュニケーションが行われておりません。
特に、幸夫は、夏子が言うことをそのまま素直に受け取ろうとせずに、その裏に含まれていると思われることを意地悪く探り出して批判したりします。
それで二人の会話はすぐに途切れてしまいます(注3)。
さらに幸夫は、編集者の福永と不倫の関係を持ってもいます。
そうしたところに、何の前触れもなく、夏子が突然この世から消えてしまうのです。
その結果、本作では家族関係も直ちに消滅してしまうのですが、妻の親友の夫・大宮陽一(竹原ピストル)やその子供たちとの関係が入り込んでくることによって、逆に、消えたはずの家族関係が蘇ってくるようにも思われます。
この場合、陽一は、幸夫とは正反対な人間として設定されています。
トラック運転手として家にいないことが多いものの、陽一は、直情的な人間で、まっすぐに妻のゆきや子供の真平(藤田健心)や灯(白鳥玉季)を愛しています(注4)。
普通であれば、幸夫はこのような陽一と付き合わないでしょう。現に、夏子とゆきが親友であったにもかかわらず、幸夫と陽一とは何の付き合いもありませんでした(注5)。
それが、同じ事故で妻を亡くしてしまったことから付き合いが始まり、はては、陽一の代わりとなって真平と灯の面倒を見ることにまで進展してしまいます(注6)。
そうしたなかで、幸夫は、幸せな関係であったときの夏子を思い返したりするようになり(注7)、最終的には『永い言い訳』というタイトルの小説を書いて、気持ちの整理を付けることになります。
本作を見て、雰囲気はまるで違いますが、以前見たことがある『今度は愛妻家』(2010年)を思い出してしまいました。
同作においても、妻・さくら(薬師丸ひろ子)を突然失ってしまった夫・俊介(豊川悦司)の様子が描かれており、さくらが生きているときの俊介は、本作の幸夫と同じように、優しい言葉一つかけることもなく随分と気ままで自堕落な生活を送っていました。ですが、死なれてみると妻のことが強く思い出され、心が落ち着かなくなります。
ただ、そうした夫の気持ちの整理がつくのに、本作では陽一とか真平や灯といった他者の役割が大きいのに対し、同作では幻影(あるいは幽霊)としての妻・さくらの出現が大きな意味を持っています。
いずれにしても、この世に存在しなくなった人に対してあとからいくら思いの丈を話そうとしても、文字通り後の祭りだということを、本作も、そして『今度は愛妻家』も、見る者に説得力を持ってわからせてくれる作品だなと思いました(注8)。
(3)渡まち子氏は、「人は時に愚かで間違えることもあるが、それでも人生は続いていき、そのことに向き合ったものには、贖罪や忘却が許される。作り手の鋭くも優しいまなざしを感じる秀作だ」として80点を付けています。
前田有一氏は、「私の場合は西川作品に求めるハードルが極めて高いので常に辛めの点数になりがちだが、毎度ながら見ておいて損のない、よくできた日本映画である。また、これもいつもながらの話だが、やはり男性にこそ彼女の映画は見て欲しいと強く思う。西川美和監督の真骨頂は、こうした「女性による男性のための男性映画」なのである」として70点を付けています。
中条省平氏は、「幸夫は妻の死によって自分が人間として犯した罪に気づき、その罪悪感のせいで妻の死を悲しむことができない。しかも、自分の罪を謝ろうにも相手はもうこの世にいない。そんな人間の心の淵を、西川の丁寧な演出と本木の抑制した演技がみごとに表している」などとして★4つ(「見逃せない」)を付けています。
佐藤忠男氏は、「西川美和監督はこれまでも人情の機微を一貫して描いてきたが、この作品は格段に良い」と述べています。
毎日新聞の木村光則氏は、「幸夫が自分自身や夏子と向き合うには、もっと胸をかきむしるような時間が必要だと思うのだが、すっとそれを飛び越えてしまった印象を受けた。それでも、外面と内面に断層を抱える現代人を照らそうとした西川の試みは十分感じられる。見る者は皆、自分の胸に手を当てざるを得ないだろう」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『ゆれる』や『ディア・ドクター』の西川美和。
原作は、西川美和著『永い言い訳』(文春文庫)。
出演者の内、最近では、本木雅弘は『天空の蜂』、竹原ピストルは『さや侍』、作家・津村啓のマネージャー役の池松壮亮は『だれかの木琴』、黒木華は『エミアビのはじまりとはじまり』、山田真歩は『ヒメアノ~ル』、深津絵里は『岸辺の旅』、堀内敬子は『高台家の人々』で、それぞれ見ました。
(注2)この拙エントリの(2)でも、同じような議論をしています。
(注3)さらに、夏子の死に遭っても幸夫はまず自分のことが気になり、夏子の遺骨を運ぶ車の中で、幸夫は自分の髪の毛の様子をバックミラーで点検したりし、また自宅に戻ると、パソコンで自分のことがどのようにネットで書かれているか検索して調べたりします。
他方で、夏子の方も幸夫に見切りをつけていたようで、遺された携帯の幸夫宛のメールには、未送信ながら、「もう愛していない。ひとかけらも」の文字が並んでいました(それを見た幸夫は、夏子の携帯を怒りに任せて投げ飛ばしますが)。
(注4)陽一は、事故の模様を説明するバス会社の役員に向かって、「妻を返してくれ!」と怒なりつけたり、妻・ゆきからかかってきた電話を何度も再生して聞きながら涙を流したりします。
(注5)ラストで灯が幸夫に手渡した写真には、夏子とゆきと陽一が一緒に写っていましたから、夏子は陽一を知っていたことになりますが。
(注6)幸夫には子供がおらず、また普段から家事をこなしているようにも見えませんから、真平と灯の面倒を自分が見ようという発想になるとは思えないところ、まあこれも一つの物語ですから(それに、週に2回ほど留守番をするというくらいですし)、あまりとやかく論うまでもないでしょう。
(注7)ただ、決して単線的に物語は進行しません。
「こども科学館」の学芸員・優子(山田真歩)が大宮の家の中に入り込んでくるようになると、幸夫は、嫉妬心からでしょう、自分がないがしろにされていると思い込み、大宮の家に行かなくなってしまいます〔幸夫は、灯の誕生パーティーの際、「先生(優子)にみてもらうのが良いと思うよ。きっと楽しいよ。僕は場違いだ。ごめんなさいね」と陽一に言って、大宮の家を飛び出てしまいます〕)。
(注8)『今度は愛妻家』では、さくらの幽霊が「知らなかったな。私のことそんなに好きだったなんて。何で言ってくれなかったの」と言いますが、本作の夏子も、幸夫のその後の有様を見れば同じことを言ったのかもしれません。
★★★★☆☆
象のロケット:永い言い訳
(1)西川美和監督の作品ということで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、椅子に座った衣笠幸夫(小説家の筆名は津村啓:本木雅弘)の髪の毛を、妻の夏子(深津絵里)がハサミを入れて切っています。
TV画面には、幸夫が出演しているバラエティ番組が映し出されていて、それを見ながら夏子が笑います。
すると、幸夫は「もう消せよ、くだらない」「ヌエ(鵺)のことなんか語ってどうすんだって思ってるんだろ?」と詰りますが、夏子は「思ってません」と答えます。
幸夫がTVを消すと、夏子は「そう言えば、小学校の同級生から電話があった」と名前を言うと、幸夫は「地元を出てから一度も会ってないやつだ」と答えます。
夏子は、「幸夫くんのこと、色々応援していると言っていたけど」と付け加えます。
すると幸夫は、「編集者が来た時に“幸夫くん”と呼ぶのを何とかしてくれない?」と言います。
それに対し夏子は、「そんなことしていない」と答えるのですが、幸夫は「俺に恥をかかせようとして何回もそう呼んだ」、「鉄人キヌガササチオの代理にすぎない」、「あなたもそういう名前に生まれついたことがあるのですか?」などと言い募ります。
夏子が「衣笠幸夫という名前が素晴らしい、結婚した時そう思った」と言うと、幸夫は「その頃の話はいいよ」と話を打ち切ります。
そして、夏子の作業が終わると、幸夫は「おしまい?」と訊き、夏子は「完璧」と答えます。
幸夫が「間に合うの?」「明日のパーティーの服は?」と尋ねると、「寝室に架かってる」と答えます。
夏子は外出の準備を整えるために部屋に戻り、再度幸夫の前に現れ、「悪いけど後片付けはお願いね」と言って玄関から出ていきます。
それを見てから幸夫は携帯電話を手にします。
次の場面では、夏子は親友の大宮ゆき(堀内敬子)と会って、一緒に深夜のスキーバスに乗り込みます。
他方で、幸夫の家には編集者の福永(黒木華)が入っていきます。
さあ、この後、物語はどのように展開するのでしょうか、………?
本作は、妻が、その親友とともにバス旅行中に事故に遭遇して死んでしまったところ、後に遺された夫の人気作家が、親友の夫や2人の子供と深く接していく内に、これまでの妻との関係を見つめ直す、という物語。主人公の作家を演じる本木雅弘や、妻の親友の夫を演じる竹原ピストルの演技が優れており、さらに出番は短いものの、主人公の妻を演じる深津絵里が印象的な作品です。
(2)最近の邦画の流れから本作を見てみると(注2)、家族の中でのコミュニケーションが希薄になっている点が共通するとはいえ、家族という共同体への異邦人の侵入という形式をとっておらず(『淵に立つ』)、また共同体の構成員が特異な行動をするようになるわけでもなく(『だれかの木琴』)、本作では、ある時突然、共同体の構成員の一人が消滅してしまうのです。
すなわち、上記の(1)からもある程度おわかり願えると思いますが、本作の幸夫と夏子との間では、このところ親和的なコミュニケーションが行われておりません。
特に、幸夫は、夏子が言うことをそのまま素直に受け取ろうとせずに、その裏に含まれていると思われることを意地悪く探り出して批判したりします。
それで二人の会話はすぐに途切れてしまいます(注3)。
さらに幸夫は、編集者の福永と不倫の関係を持ってもいます。
そうしたところに、何の前触れもなく、夏子が突然この世から消えてしまうのです。
その結果、本作では家族関係も直ちに消滅してしまうのですが、妻の親友の夫・大宮陽一(竹原ピストル)やその子供たちとの関係が入り込んでくることによって、逆に、消えたはずの家族関係が蘇ってくるようにも思われます。
この場合、陽一は、幸夫とは正反対な人間として設定されています。
トラック運転手として家にいないことが多いものの、陽一は、直情的な人間で、まっすぐに妻のゆきや子供の真平(藤田健心)や灯(白鳥玉季)を愛しています(注4)。
普通であれば、幸夫はこのような陽一と付き合わないでしょう。現に、夏子とゆきが親友であったにもかかわらず、幸夫と陽一とは何の付き合いもありませんでした(注5)。
それが、同じ事故で妻を亡くしてしまったことから付き合いが始まり、はては、陽一の代わりとなって真平と灯の面倒を見ることにまで進展してしまいます(注6)。
そうしたなかで、幸夫は、幸せな関係であったときの夏子を思い返したりするようになり(注7)、最終的には『永い言い訳』というタイトルの小説を書いて、気持ちの整理を付けることになります。
本作を見て、雰囲気はまるで違いますが、以前見たことがある『今度は愛妻家』(2010年)を思い出してしまいました。
同作においても、妻・さくら(薬師丸ひろ子)を突然失ってしまった夫・俊介(豊川悦司)の様子が描かれており、さくらが生きているときの俊介は、本作の幸夫と同じように、優しい言葉一つかけることもなく随分と気ままで自堕落な生活を送っていました。ですが、死なれてみると妻のことが強く思い出され、心が落ち着かなくなります。
ただ、そうした夫の気持ちの整理がつくのに、本作では陽一とか真平や灯といった他者の役割が大きいのに対し、同作では幻影(あるいは幽霊)としての妻・さくらの出現が大きな意味を持っています。
いずれにしても、この世に存在しなくなった人に対してあとからいくら思いの丈を話そうとしても、文字通り後の祭りだということを、本作も、そして『今度は愛妻家』も、見る者に説得力を持ってわからせてくれる作品だなと思いました(注8)。
(3)渡まち子氏は、「人は時に愚かで間違えることもあるが、それでも人生は続いていき、そのことに向き合ったものには、贖罪や忘却が許される。作り手の鋭くも優しいまなざしを感じる秀作だ」として80点を付けています。
前田有一氏は、「私の場合は西川作品に求めるハードルが極めて高いので常に辛めの点数になりがちだが、毎度ながら見ておいて損のない、よくできた日本映画である。また、これもいつもながらの話だが、やはり男性にこそ彼女の映画は見て欲しいと強く思う。西川美和監督の真骨頂は、こうした「女性による男性のための男性映画」なのである」として70点を付けています。
中条省平氏は、「幸夫は妻の死によって自分が人間として犯した罪に気づき、その罪悪感のせいで妻の死を悲しむことができない。しかも、自分の罪を謝ろうにも相手はもうこの世にいない。そんな人間の心の淵を、西川の丁寧な演出と本木の抑制した演技がみごとに表している」などとして★4つ(「見逃せない」)を付けています。
佐藤忠男氏は、「西川美和監督はこれまでも人情の機微を一貫して描いてきたが、この作品は格段に良い」と述べています。
毎日新聞の木村光則氏は、「幸夫が自分自身や夏子と向き合うには、もっと胸をかきむしるような時間が必要だと思うのだが、すっとそれを飛び越えてしまった印象を受けた。それでも、外面と内面に断層を抱える現代人を照らそうとした西川の試みは十分感じられる。見る者は皆、自分の胸に手を当てざるを得ないだろう」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『ゆれる』や『ディア・ドクター』の西川美和。
原作は、西川美和著『永い言い訳』(文春文庫)。
出演者の内、最近では、本木雅弘は『天空の蜂』、竹原ピストルは『さや侍』、作家・津村啓のマネージャー役の池松壮亮は『だれかの木琴』、黒木華は『エミアビのはじまりとはじまり』、山田真歩は『ヒメアノ~ル』、深津絵里は『岸辺の旅』、堀内敬子は『高台家の人々』で、それぞれ見ました。
(注2)この拙エントリの(2)でも、同じような議論をしています。
(注3)さらに、夏子の死に遭っても幸夫はまず自分のことが気になり、夏子の遺骨を運ぶ車の中で、幸夫は自分の髪の毛の様子をバックミラーで点検したりし、また自宅に戻ると、パソコンで自分のことがどのようにネットで書かれているか検索して調べたりします。
他方で、夏子の方も幸夫に見切りをつけていたようで、遺された携帯の幸夫宛のメールには、未送信ながら、「もう愛していない。ひとかけらも」の文字が並んでいました(それを見た幸夫は、夏子の携帯を怒りに任せて投げ飛ばしますが)。
(注4)陽一は、事故の模様を説明するバス会社の役員に向かって、「妻を返してくれ!」と怒なりつけたり、妻・ゆきからかかってきた電話を何度も再生して聞きながら涙を流したりします。
(注5)ラストで灯が幸夫に手渡した写真には、夏子とゆきと陽一が一緒に写っていましたから、夏子は陽一を知っていたことになりますが。
(注6)幸夫には子供がおらず、また普段から家事をこなしているようにも見えませんから、真平と灯の面倒を自分が見ようという発想になるとは思えないところ、まあこれも一つの物語ですから(それに、週に2回ほど留守番をするというくらいですし)、あまりとやかく論うまでもないでしょう。
(注7)ただ、決して単線的に物語は進行しません。
「こども科学館」の学芸員・優子(山田真歩)が大宮の家の中に入り込んでくるようになると、幸夫は、嫉妬心からでしょう、自分がないがしろにされていると思い込み、大宮の家に行かなくなってしまいます〔幸夫は、灯の誕生パーティーの際、「先生(優子)にみてもらうのが良いと思うよ。きっと楽しいよ。僕は場違いだ。ごめんなさいね」と陽一に言って、大宮の家を飛び出てしまいます〕)。
(注8)『今度は愛妻家』では、さくらの幽霊が「知らなかったな。私のことそんなに好きだったなんて。何で言ってくれなかったの」と言いますが、本作の夏子も、幸夫のその後の有様を見れば同じことを言ったのかもしれません。
★★★★☆☆
象のロケット:永い言い訳
家族と触れ合ってからも、素直になりきれなかった主人公、しかし仕事と向き合う事でやっと方向性が決まった感じでしたね。
西川監督作品ではめずらしい、ハッピーエンドに感じましたが。
こちらからもTBお願いします。
(「Unknown」の表示になっていますが、「atta1964」さんでしょう)
おっしゃるように、「大宮の存在が無かったら、あの家族と触れ合わなかったら、主人公の人生は、どうなっていたんでしょう」と思ってしまいます。きっと、幸夫は、どんどん悪い方向へ突き進んでしまうことでしょう。厳しい時にどういう人物に出会うのかは決定的に重要な事柄だと思います。
このヌエがある意味、サチオくん的だと思いました。編集者に見せる顔、メティアに見せる顔、妻に見せる顔が違い、竹原家と付きあってからも子育てをする顔や、嫉妬に燃える顔など、同じ人間と思えないほど多彩な面を持つ。
おっしゃるように、「ヌエ」は、サチオのように「同じ人間と思えないほど多彩な面を持つ」人を象徴しているかもしれません。
ただ、「編集者に見せる顔、メティアに見せる顔、妻に見せる顔が違い、竹原家と付きあってからも子育てをする顔や、嫉妬に燃える顔」くらいであれば、ある意味、どの人も持っているかもしれません。
クマネズミは、むしろ、“実在しないもの”について得意げにペラペラ語っているサチオをTVに見て、虚業に精を出すつまらない男だと妻が自分を批判するとサチオが苛立ったのでは、と思いました。