駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

人類はPoint of No Returnを過ぎた

2016年07月26日 | 小考

             

 梅雨が明けた模様というのは味のある表現で、どうも真夏の夏空ががやってこない。折角脱皮して鳴く、短いセミの命が終わらないうちに、夏空を拝ませてやりたい。

 物事はある時期が過ぎると引き返しが不可能になる。ほとんどの物事、特に不特定多数を巻き込む事案では、先のことに頓着なくというか見境なく進むのでいつの間にか後悔しても始まらないと悔悟を押し流しながら勢い惰性で進んでしまう。

 今更何を言っていると言われるだろうが、ポケモンGoが出てきて遂にここまで来たかと思う。尤も私はこうしたゲームはやらないので当初から置いてきぼりなのだが、会話を奪うゲームを見ていると、こうした人達が社会の中核になったらどんな世界になるだろうと不安な気がしてくる。幸いというか残念というか自分は見ることのない世界なのだが、それこそ近未来映画のようにワンパターンで展開され、やがてAI頼りの肝心のプログラムや機器を自分では作れない、AIを崇める集団となってゆくのだろうか。人類の叡智で、それが避けられたとしても貧富や能力格差のある社会になる恐れは大きいと思う。

 政治家は口を揃えて教育の重要性を説く。教育が重要なのは論を待たない。どんな教育が良いと思うかを言わないで、教育は重要と勿体ぶって言わないでいただきたい。議論が劣勢の時の切り札に使わないでいただきたい。

 誰とでも話をする、結論に飛びつく前に自分の頭で考えてみる教育が大切と私は思う。

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隠れた才能?を発掘する

2016年07月25日 | 身辺記

  

 今朝も蝉しぐれの中を歩いてきたのだが、年々セミの声が小さくなってゆく気がする。耳が遠くなったのかそれともセミが減ったのか。たぶん耳が遠くなったせいだろう。数年前、五歳ばかり年嵩のG氏がこの頃耳が遠くなったと嘆いていた。どうも確実に後を追っているようだ。

 当然ながら目は二十年前から老眼が始まり、今は二つの眼鏡を掛け替えて仕事をしている。裸眼、中近そして遠近を使い分けているわけだ。絵を描いたり陶器を作ったりには不自由しないのだが、本当に細かい仕事はできなくなった。工作は比較的得意な方だったが、細かいものはもう無理になった。勿論、根気が続かなくなったということもある。

 音楽の才能は皆無(鑑賞はできる)だが図画工作は好きで子供の頃からいろいろ作ってきた。自慢は中学の職業の時間(今はもうない授業)に作った本箱で、先生に絶賛された。今も使っており、辞書や辞典用にしている。小さな引き出しがつけてあり、鍵や爪切り認め印などが入っている。 

 絵は習い始めて十年、ある程度自分の方向というか特質が分かってきた。具象で風景画が向いているようだ。陶芸はまだ半年で、自分にどんな才能があるかわからないが、絵と違い個性的な方向がよさそうな気がしている?。

 少しづつ五感は衰えていくが、次はこんな作品をという意欲はまだあるので、コツコツと作品を作ってゆきたい。絵と違い沢山出来るので、今から良いものができたら送ると言いふらかしている。それも励みになる。値が出て孫やひ孫が潤うかもと夢想するが、それは欲張りというものだろう。

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一方を聞いて沙汰をしない

2016年07月24日 | 医療

       

 今日は曇りの予報だったが陽が差している。きっと日中は暑くなるだろう。寄る年波か、暑さには耐え難くなってはいるが、夏景色は大好きだ。夏は何と言っても若者の季節だ。若かった時代を思い出すから好きなのか、夏の生命感が好きなのかよく分からないが、夏の日射しは心に焼き付く。

 巨泉の奥さんが麻薬の誤投与で死期を早めたと悔やんでいると報道されている。本当だろうか?。もし本当にそう言っていたとしても、多分、夫を失った無念さ、やり場のない気持ちが言わせたもので、半年もすれば和らいで行くものだろうと思う。八十二歳、傍目には十全の人生を全うされたと見える。もう、ご本人の意見を聞くことは出来ないが、巨泉さんは誤投与とは言わないような気がする。

 おそらく誤投与はマスコミの作りだした表現だろう。どのような方が治療に当たられたかは存じ上げないが、そんなことを言われては非常に残念だろうと思う。そうした患者医療者関係であったとすれば、そこには勘違いがあると思う。一方を聞いて沙汰すなという篤姫の言葉を思い出す。そうではあるが医療者は口を開かないほうがいい。法的に訴えられれば別だが、そうでなければ黙っていればいい。

 今は看取るのは高齢者ばかりなので、嫌な思いをすることは殆ど無いが、病院勤めの頃は若い人を看取ることもあったので、時に、一部の家族から他の病院にすれば良かったなどと恨みがましいことを言われたこともあった。それはやり場のない辛さの表現で、時間と共に和らいでゆくものと思う。あるいは多少恨まれても、それで家族の気持ちが済むならそれでも良いと思ってきた。ご家族の希望される結果は出なかったかも知れないが、出来ることはやらせて戴いた。 

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贈答文化が支えるもの

2016年07月23日 | 世の中

           

 時代の流れで、全く気にしていないが、たかだか四半世紀で患者さんからのお中元やお歳暮が半減、否三分の一に減った。以前は足の踏み場もないほど戴いて、職員と分けて持ち帰ったものだ。

  毎年M爺さんの呉れる梨はほれぼれするほど立派で、千疋屋に出しても引けを取らない品質だったが、五六年前から途絶えてしまった。今年九十歳になるMさんは三年前から一人では受診できなくなっており、果樹の世話ができなくなったのだと思う。職員一同、毎年楽しみにしていたので残念だが、申し訳なく梨はどうなりましたかとは聞かずじまいだ。

 馴染みの料亭も、お客さんがあってこそ座敷に上がるが、普段は年に数回昼に松花堂弁当を頂きに行く程度だ。グルメを自負しているが、所謂B級が主体で、A級の所に夫婦で出向くのは年に二三回、誕生日や記念日くらいのものだ。

 地方によって贈答習慣に濃淡はあると思うが、我々の年代は高級品には贈答やお相伴でしか手を出さないものだった。果たして今の若い人はどういう感覚なのだろう。食べ物に限らないが高級品には、高い技術も込められているもので、利用されなくなるとそうした技術も失われてしまう。次世代の人達は自分を褒めてあげるとかいって利用を続けるだろうか?。

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料亭にも椅子の世の中

2016年07月22日 | 小考

       

 遠方より朋来たり、久し振りに馴染みの料亭を訪れた。相変わらず綺麗な女将に会えて嬉しかったのだが、座敷に案内されて驚いた。椅子席になっている。あれれと女将を見ると、正座が大変というお客様が増えまして、思い切って一年前から椅子にさせていただきましたと言う。

 女性軍の声が大きかったのだろう。床の間を向いて腰かけるのはどうも落ち着かないが、これも時代の流れかと思った。確か瓢亭などは外人も来るせいか畳が掘り炬燵のようになって、足が伸ばせるようになっていたと思う。古いようで先見の明がある京都らしいと思い出した。

 ブログを書くようになって、ネットのニュースを一瞥するようになったので、以前より世の中の動きや流れを敏感に幅広く掴めているような気がする。昔からそうだったのかもしれないが、本質的でない上辺のあぶくで世の中が結構右往左往するのに首を傾げている。見かけの世論に戦略が極めて有効に見える。マスコミを抑え人事に長けている者が強い。しかし、睨みが利いて粗さがしの精鋭部隊を擁している方が有利というのは何だかおかしい気がする。

 鳥越さんの病気と女性関係は予想された誹謗で見ていて嫌になる。叩いて埃の出ない有能な人物は少なく、これではまじめと計算だけが取り柄の人物と非難を栄養に吠え返す力のある人物ばかりが残りそうで心配になる。

 国を底流となって支える人たちのやる気が失われないかと危惧する。底意地が悪いだけの誹謗にはお引き取りを願いたい。

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