駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

認知介護前線は綱渡り

2018年09月14日 | 医療

                               

  市井の家庭医になるつもりだったが、いつの間にかサーカスの団長もしている。

 内なる難民の認知症患者が増加している。認知症患者さんを難民に例えるのは不謹慎と言われるかも知れないが、そう表現せざるを得ない現実がある。核家族化し、家庭内に介護力がない認知症の患者さんは本当に難民と呼びたくなるような状態になってしまう。中には息子や娘が居ても十分な支援が得られないことがあり、兄弟や甥や姪だけだと日常の支援は難しいことが多い。

 ある程度資産があればケアマネとヘルパー利用などで凌げることも多いのだが、ギリギリで生活保護にはならない程度の患者さんの場合はサポートが難しくなる。生活保護になってしまえば、むしろ受け入れてくれる施設を探しやすくなる場合も多い。

 受け入れる施設は当然と考えておられるかもしれないが、入所をお願いする方は事前審査があるのには多少抵抗を感ずる。今は自立生活困難な一人暮らしの老人を受け入れる施設が増加して、そうした審査も甘くなり断られることは減ったのだが、施設によっては手の掛からない患者さんを選ぶ傾向がある。

 一人暮らしの認知高齢者の世話は医療の範囲を超えているので、ケアマネの他に地域包括などの援助を仰ぐことになるのだが、連絡連携の仕事量が半端でない症例もある。仕事量だけでなく受付や看護師の心理的負担が大きい。医療機関よりもケアマネや地域包括そして訪問看護師の人達の方がもっと大変だろうとも思う。そうしてギリギリではあるが孤独死が皆無とは行かないが、何とか避けられている。素晴らしいというか凄いことだと思う。

 「ハイ」と言いながら五分後には忘れてしまう患者さん、とにかく何でも嫌と拒否の患者さん、出来ることをきちんとしているのに何もしてくれないと不平の多い患者さん、あの人がこんなにと悲しくなる患者さん、認知は長生きの宿痾、時に癌よりも悲惨だ。

 今のところ、何とか周囲の援助や介護保険でギリギリ面倒を見られているが、果たしていつまでこの綱渡りが続けられるだろうか?。若い人や資産のある人が困っている認知高齢者の援助負担を忌避するようになる恐れがあると観測している。麻生太郎氏の発言を非難するのは当然のようでも、実はさほど単純な話ではなく、大して負担しない者がよく言うなという表に出ない反論が渦巻いている。ケアマネの中には本当に献身的な人も居られて頭が下がるのだが、それだけでは問題は解決しない。ピンからキリという表現は語弊もあるが、そうした多様性を受け入れないと世の中は立ち行かないというのが現実と最前線市井の老医は診ている。

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