駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

安部龍太郎の本能寺の変

2018年09月10日 | 

     

 「信長はなぜ葬られたか」安部龍太郎を読んだ。私のような歴史の知識の乏しい者にも本能寺の変は謎で、「なぜ」という疑問が久しく頭の片隅にこびり付いていたからだ。読んで成る程そうかと疑問が氷解した訳ではないが、歴史は重層的で奥深く広い裾野を持つと改めて感じ入った。とても、例えば光秀の恨みなどという一筋縄では理解できない背景がある。自分の知識があまりにも貧弱で、呆れてしまった。

 考えてみれば当然というか、濃淡はあっても信長が居ては困るという勢力があったわけで、どうもそれを巧みに絡み合わせて信長を葬る策略が生み出されたらしい(生み出す人物が居たと安倍さんは名指しされている)。信長が多面的でサイコパスなどと分かったような言葉では括れない天才であったのは間違いないが、恐れ嫌われ、恨みを買う剣呑な人でもあったようだ。

 一つ成る程そうかと思ったのは江戸時代というメカニズムによって江戸史観というものが生み出され、戦国時代史が見えなくなっているという指摘だ。安部さんは鎖国史観、士農工商の身分差別史観、農本主義史観そして儒教史観の四つを江戸時代の史観の柱として挙げている。これは相当に説得力があり、その残滓は平成にも色濃く残っていると気付かされた。

 自戒も込めて、人間は度し難いというか浅はかというか、生半可の知識で断定したり偉そうな事を言い募るから厄介だ。逆に断定できず言い募らないが、薄っぺらい言い回しで丸め込まれる人が多いのも恐ろしい。安部龍太郎さんは頭と足で歴史を探索し、自分の思索を織り込みながら歴史小説を書いて来られたようで、学ぶところが多かった。福岡の方のようで、どこか松本清張に似ておられる。

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