駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

認知症を知りたい

2018年09月22日 | 診療

                 

 昨日は世界認知症デイだったので、疲労困憊の身に鞭打って講演会に出席してきた。特別耳新しい内容はなく一時間半眠らないで聞くのは大変だった。心に残ったのは医師は引退すると呆けやすい、できるだけ仕事を続けた方が良いとの忠告。

 それにしてもなぜ、講演会では講師を過剰に紹介するのだろう、受講者としては講義を聞けば分かる、長い紹介は無用と申し上げたい。慣例に従ってと前振りがあるのだが、慣例を打ち破って三言で紹介して欲しい。

 講義後、質問がないと司会者が焦って、自ら作り出した質問するのだが、どうも質問がないのは拙いことになっているようだ。いつも時間が押している、質問がなければ速やかに次の演題に移行して欲しい。

 認知症の医療は医師と看護師や介護者でかなりの乖離がある。医師は診断検査と治療薬に重点を置き、看護師は非薬物的なケアに重点を置く。キュアとケアは車の両輪と分かりやすく表現されるが、前線の現場では単純に分けて対応できるものではない。いつも医師は時間がないのでケアはちょっとと言い訳?される。時間がないのは確かだが、だから検査投薬に終始してよいとは思われない。認知症の患者さんとまともに対応するのは消耗でしばしば徒労にも感じられるのは事実だが、遠い昔恩師に臨床とはそういうものだと教えられた。

 認知、しばしば今でも家族はボケと表現されるが、それは特別な病態ではなくいつかは自分も歩むかもしれない道と理解したい。ボケと表現することで親の無理無体を受け取りやすくしている側面はあると思うが、もう一歩踏み込んで横に並んで認知の世界を理解したい。スイスイと登れた階段が登れない。ぺろっと食べられた鰻丼が半分も食べられない。それが脳にも起きているのだ。バリデーションとかパーソンセンタードケアなどと英語が飛び交うが、外国から教えられるほどのことではなく、日本の現場でも理解している人は数多くいたはずのことだと思う。

 物盗られ妄想の婆さんや暴言暴力の爺さんも、医者の私には一生懸命答えようとするし泥棒扱いしたり暴言を吐くことは稀だ。なぜかというと、どこかそれなりにに分かっているからだ。殆どの認知症患者さんは、全く理解不能の世界に住んでいるわけではない。そのことをご家族には理解していただきたい。勿論、多くの家族の方はそれが分かっておられ、家族にだけできる寄り添った介護をされている。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする