休日の朝から休むに似た考えを巡らしてみた。
専門家でもないのに市井に生きる者として、何度もマスコミの報道の仕方に苦言を呈してきた。最近それは畢竟、マスコミ報道の片棒を担ぐ人々の問題でもあると思うようになった。マスコミは紛れもなく企業であり、収益を得て生き延びて行こうとする存在で、読み手の支持を必要としている。支持とまで言わなくても、読み心地の良いものであるように心掛けて、読んで貰おうとしている。そして広告主の意向も無視できない。
読み心地の良い報道は、ともすれば分かり易い考えさせないものになってしまう。考えないと分からない内容が嫌われるために、単純ではない内容を勧善懲悪式に分かり易くした報道が溢れることになる。善悪の判断は一筋縄ではできないし、善悪に馴染まない問題も多い。それなのに、分かり易くするために、単純な構図にされてしまうことが多いと見ている。
今話題のピケティの本がなぜ分厚い本なのかといえば、それは物事が一言で言えるほど簡単単純なものではないからだ。しかし、一端言葉を操る政治家の手に掛かれば、ピケティが21世紀の資本で何を論じていても、収益が上がらないと話にならないと一言で片付けられるてしまう。
人間が分かりにくい物事を嫌い、自分の身に影響のない他者の落ち度を咎めるのを快感と感じ易いのは、根深い問題でおいそれと変えることはできない。しかしそれだけでは、多数多様な世界を生き延びていかれないのは紛れもない事実だと思う。
僭越ではあるが報道の読み手には少し立ち止まって五分ほど考えて戴きたいと願う。例えば、ちょっと飛躍するが、国民のため国益のためと水戸黄門の印籠よろしく言われるが、国民て誰のこと、国益て誰の益と考えてみて欲しい。ひょっとして自分はその中に入っていないのではないだろうかと心配になるかもしれない。