遠い昔研修医時代、先輩に紙を持って来る患者には気を付けろと言われた。今の世では、けしからんということになるのかもしれないが、書付けを手に訴える患者さんは話が長い、しつこい、こだわりがある傾向があるので、注意しなさいというアドバイスだったのだ。
昔も今も忙しい医師は手間取ることは避けたい気持ちがある。今は丁寧によく話を聞くことが重要視される時代なので、表立っては言われなくなったが、訴えが多くしつこい患者さんは歓迎されない。訴えが多いとかしつこいというのは、医師の見方であって患者にしてみれにば当然のことなのになぜと反論されるかもしれない。勿論、医師と患者では妥当な訴えと感じる基準に多少のずれはあるが、常識の線というものはあると思う。
一般内科の医師は毎日何十人もの患者さんを診察する。その中には命に係わる病気から放置しておいても自然に治る病気までさまざまな病気の方が含まれている。殆どの医師は当然で自然で妥当なことと思うが、病気の重いあるいは難しい患者さんにより多くの時間を割こうとする。ところが患者さんは自分が中心だから、病気の軽重に関係なく、自分に多くの時間を割いて欲しいと願う。幸い、殆どの患者さんは後にたくさん患者さんが待っていれば、あれもこれもと訴えることはせず、要点を聞いてお帰りになる。ところが書付けを持参するような患者さんは、聞こうと思ってきたことは聞かずに帰るものかという方が多く、しかもどういうわけか呑み込みの悪い方が多い。それは自分の考えへのこだわりのあるためで、説明説得に難渋する。
中には、非常に稀ではあるが、紙の束を持って来られ、先生は四年前に「牛乳を飲めと言ったじゃないか・・・」と突然詰問される患者さんも居る。「そうでしたっけ」。などと言おうものなら、全部メモしてあるんだからなとメモを振りかざされる。メモは記憶の再現で必ずしも正確ではないし、医師を咎めるために引用されるのでは信頼関係は深まらない。医学的にはうまくいっているし、状況も多少変わっているのにと、うんざりしてしまう。
医者の掛り方などという本には、メモ持参を勧めているものもある。それは緊張してうまく話せない人のための下準備、忘備ということだと思う。効率を上げ信頼と理解を深めるメモであれば何の抵抗もないが、研修の時代の記憶は消えないもので、今でも書付けを持って訴えられる患者さんに会うと、微かに身構えてしまう。