玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*徒然草に謎

2013年10月03日 | 捨て猫の独り言

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 図書館の新刊コーナーで「徒然草」に出会った。趣のある装丁の本で思わず手がのびた。よく見るとタイトルに「一日で読める」と小さい文字が添えられている。著者は予備校の古文講師である。近頃まるで読書しなくなったという反省もあり、これを読んでみようかと借りてきた。

 第一部(58話)と第二部に分けて全242段の現代語訳である。売れっ子の講師らしく第一部にはチェックやトークショウやコラムなど親しみやすく読めるような工夫がなされている。これまで私は徒然草を読んだことはない。私はこの本の第一部を2日かけて読んだ。この本には小林秀雄の短い評論「徒然草」も紹介されている。本棚から小林の評論を取りだしてきて、2冊ならべて読むことにした。

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 75段の「つれづれわぶる人は いかなる心ならむ。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ」を引用して小林は書いている。兼好にとって徒然とは「まぎるる方なくひとりある」幸福ならびに不幸を言うのである。「つれづれわぶる人」は徒然を知らない。兼好は徒然なるままに徒然草を書いたのであって、徒然わぶるままに書いたのではないのだから、書いたところで彼の心が紛れたわけではない。紛れるどころか、眼が冴えかえって、いよいよ物が見え過ぎ、物が解りすぎる辛さを「怪しうこそ物狂ほしけれ」と言ったのである。

 40段全文は「因幡の国に、何の入道とかやいふ者の娘容(かたち)美(よ)しと聞きて、人あまた言ひわたりけれども、この娘、唯栗のみ食ひて、更に米の類を食はざりければ、かかる異様な者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」である。小林は「この段は珍談ではない。徒然なる心がどんなに沢山の事を感じ、どんなに沢山な事を言わずに我慢したか」と評論を結んでいる。私に残った謎とはこの40段のことである。兼好はこのエピソードで何を言いたかったのであろうか。小林は何を了解したというのだろうか。(写真は国営昭和記念公園にて)

コメント (1)
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