玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*徒然草の碁

2013年10月17日 | 捨て猫の独り言

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 「世はさだめなきこそいみじけれ」この世は死があるからこそすばらしいのではないか。これが徒然草の到達した自然観・人間観である。兼好法師の生きたのは南北朝時代と呼ばれる未曾有の変革期である。30歳前後に出家生活に入るが俗世間と縁を切った一途な修行僧どころか、現実社会に深く関り68歳まで生きた。徒然草のどこかの段には40歳ぐらいで死にたいとあった。半僧半俗の立場からの恋愛、酒、勝負事など幅ひろい分野にわたる評論は現在の私にも興味深い。

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 小林秀雄は徒然草40段の「栗だけ食べて米を食べようとしない娘」を引用して、作者はどんなに沢山なことを言わずに我慢したかと書いた。兼好は取り上げた話についてあれこれ論評しないで読者に考えさせている。小林の「我慢したか」と言うのは兼好のこのスタイルのことだろうか。どの話を採り上げるかについては作者の意図が働く。この40段については私が考えたことはつぎの通りだ。栗は当時は高価なものだったろう。こんな娘を許さない親の行動は当然のことだ。

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 兼好はなかなかの碁打ちだったのではないか。何度も碁に関連した話題が書かれている。「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり」手元が留守になればそこから総崩れになる。相手よりもまず自分を正し守れ。つぎの段では一転して「囲碁・双六好みて明かし暮らす人は、四重(淫戒、盗戒、殺人戒、妄語戒)五逆にもまされる悪事」と勝負事にふける人に手きびしい。徒然草の魅力の一つだが、問題はいつも多元的にとらえられている。

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 何ごとかを成就しようと思えばその外のことは断念してその一つのことだけに精励すべきである。たとえば「碁を打つ人、一手もいたずらにせず、人に先立ちて、小を捨て大に就くが如し。三つの石を捨てて十の石に就くは易し。十の石を捨てて十一の石に就くは難し」とある。また「つたなき人の碁打つことばかりにさとく、賢き人のこの芸に愚かなるを見て」バカにしたりしてはいかんよというくだりがある。自分の専門のことを、人が知らないのを見て、自分がまさっていると思うようなのは、大きなまちがいであろう。(写真は国営昭和記念公園にて)

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