先日来客があって歓談した。中の一つが夫婦間の「主語が抜け落ちた会話」の顛末であった。先客と一頻りその話をした後、遅れて到着したご夫婦が又同じ話をし可笑しかった。日々の繰り返しの中で、多くを語り合うことの少なくなった私達の世代。殊更に主語を付けなくとも私か貴方が多く、意味不明になってあらためて誰が?と問いかける始末である。
そんな折「日本語は主語を隠し、責任を曖昧にするのに都合がいい。その曖昧にまぎれて戦争責任が遁走した」と、井上ひさし氏を悼むコラムにあった。然りである。他方、主語はハッキリ「君」としながらどの君を指すのか曖昧にしている「国歌?」もありはしまいか。君は一般な貴方(つまり私)を指すと教わったのだけれど・・・??
顧みれば主語も修飾語も少なく用件、要約のみを伝えようとしている日々に気づく。ましてや外国式の愛情表現など微塵も混ぜない会話を発している。近じか長らくの外国生活を送っている友人が我が家に投宿する。例え数日間、いつにない丁寧な会話をしたとしても、彼女にはどのように響くのだろうか?かって過ごしていた母国であっても、私が異国で感ずる”ちょっと違う感”にとらわれるのでは?