その人(80代)は連日ディケアーにお出でになる。長らく公務員を続けてきたという自負に満ち満ちている。日に何度か繰り返される「ノートは出したかしら?今日は何曜日?私の手袋、帽子はどこ?同じ話の繰り返し」等を除けば、発言は一見正論で明晰でさえある。彼女の日々の会話から仕事や勉学に打ち込んでいらしたろう様子が伺える。それだけになお、今こそゆったりと穏やかな日々を過ごして頂きたいと思う。
しかしそれが難しい。彼女の内面はかっての続きの中にあって、「話し合いを深め、どう工夫したら日々の生活を楽しめるか議論すべき」「私は長らく生き、戦争を潜りぬけ大抵の経験はしてきた。解る範囲でお答えします。何でも聞いて下さい」と毎日おっしゃる。彼女と他メンバーの充足感は一致せず、やる事成す事全てが面白くない。楽しみである食事すら面倒そう。
脳トレ式のパズルやカルタ取りは時に楽しめても、ゲームや折り紙、作品づくり、カレンダー作りなどは専門家が教えてくれるなら兎も角”ヤッテラレナイ”。ここの本は全~部読みつくした(?)と言い切る彼女の高説を拝聴する職員が一人侍り、何とか一日を過ごせている。
前職に連なるこの種の作業から距離をおいて、残された時間を、思い切り伸びやかにわがままに過ごしたいと一時退きましたが、乞われるままに、又自戒もこめて再度復帰しました。脳細胞の変性によるこの種の退化は、画期的な発見がない限り困難でしょうか。この種の労苦を長寿と引き換えて手にした私達。「ありがとう」の言葉はどんな労も吹き飛ばしてくれます。我が身の予測は難しいけれどせめて「ありがとうの気持ちと言葉」を大事に育てていきたいと思っています。