玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*毎月20日は

2008年03月25日 | 捨て猫の独り言

 月に一度の参禅会に参加するようになってまだ一年にならない。職場の私の隣の席に高円寺のお寺の若き住職がいた。うらやましいことに彼は2つの職業を持っている。参禅会は誰でも参加できて、8月をのぞく毎月20日に午後6時から行われる。好奇心から参加を願い出た。参加費は無料どころか、最初に何種類かの菓子と缶入り飲料が配られるのでそれぞれ家へ持ち帰ることになる。

 参加者は僧侶が多くて一般人を含め25名前後である。まず最初に講話がある。講師は駒澤大学名誉教授で泉岳寺住職の小坂機融氏である。毎回レジメが一人一人に手渡される。大智禅師発願文 「願わくは、我れ此の父母所生の身を以て、三宝の願界に回向し、・・・・」 を全員が唱和して始まる。短い発願文の全部を理解したわけでないが唱和には慣れてはきた。 「永平祖師家訓綱要・第六世伝三味訓・第○○則」 がシリーズで解説される。私にとってかなり難解で眠気に襲われる。居眠り坐禅はいけませんよという話が出ることもある。いつも予定の1時間を30分ほど超過して終わる。3年ほど前に高円寺近辺の寺が相談してダメもとで小坂氏に講師をお願いしたら引き受けてくれたという。

 本堂での静寂の坐禅は20分ほどだろうか。その後その場で 「普勧坐禅儀」 の唱和が20分ほど続く。中国で5年の参学を終えて28歳で帰国した道元禅師が真っ先に著したものである。内容は 「坐禅は静かなところがよろしい。食事は節度をもって。日常生活を完全に離れ、今までかかわってきたものを全て捨てる。よいとか悪いとかの考えを捨て、考えること、あるいは悟ろうとすること、一切の意図や思いをめぐらすことをやめる。座る時には、厚く敷物をし、坐蒲を使う。・・・・・」  と始まる。臨済宗では、指導者から与えられた古人の問答を坐禅研究して悟りを目指すようだが、曹洞宗では坐禅は何か目的を達成する手段ではなく、その日常を捨てて本来の自己に親しむ行為と見ているようだ。

 太鼓や木鐸や鐘で作法どおりに進行し、しかも僧に交わってする坐禅は私にとって非日常だ。月に一度だけだがこのようにお寺という場所に身を置くことを貴重に思う。それは例えば人が都市を離れ満天の星空を見上げ広大な宇宙を感じるのと同じようなものかもしれない。この参禅会の時以外に自宅で坐禅することはまだない。週末は孫の子守に追われるなど相変わらずあわただしく過ぎてゆくが、この子守もいつまでも続くわけではない。今は孫の存在によって命の不思議を思い起こすことが多い。 

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1 コメント

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紹介しておられる住職のお話をありがたく読みまし... (法話)
2008-03-26 04:59:05
紹介しておられる住職のお話をありがたく読みました。よいとか悪いとかの考えを捨て・・・キリスト教のなんじ裁くなかれと通じるものがあるのでしょうか。私、日々意図を持って生きており疲れることがあります。仏教者の社会参加も期待したいところ。
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